第31話 『これはあの子じゃない』

 彼女は崖の麓で横たわっていた。転がり落ちた時に色々な物にぶつかってしまったようだ。



 ハーストから借りた服はやぶれ、結んでいた髪はぼさぼさにほどかれ、彼女の綺麗な顔が血で真っ赤に染まっていた。額にも頬にも切り傷がつき、べっこりとへこんでしまった鼻からは未だに血がだらだらと流れている。息はしていない。それは、一目見ただけで俺もハーストもわかっていた。



 そこからほんの少しだけ、記憶が抜け落ちている。頭が真っ白になって、気持ち悪くなってその場で嘔吐したのはかろうじて覚えているが、その後どうやってマクラウド邸に戻ったかは記憶にない。



 気づけば俺は、マクラウド邸の客室のベッドで横たわっていた。どうやら変わり果てたセレニアの姿が衝撃的すぎて気を失っていたらしい。



 俺の目が覚めると、目を真っ赤にさせたエミールに抱きしめられた。本来侍女が第二王子に抱き着くなんてご法度である。それは長らく侍女を勤めているエミール自身が一番わかっているはずなのだが、あまりにも泣き崩れているから、俺も無抵抗のまま彼女に抱きしめられていた。



 エミールが泣き終えるまで十五分くらいそうしていただろうか。彼女が落ち着いたのを見計らって、俺が意識を失ってからのことを問うた。



 聞けば、俺たちを襲った男たちはヴィラスター王国の都心から亡命してきた人で、働き口がないから「下僕でもいいから」とマクラウド侯爵の元に逃げ込んだらしい。



 そこで人の良いマクラウド侯爵は三人まとめて雇った。だが、今日シャムス国王御一行がマクラウド邸にやってくることを聞きつけ、これまでの腹いせに俺とセレニアを誘拐して国から金を巻きあげようとしたらしい。つまりマクラウド侯爵はやつらに恩を仇で返えされたのだ。



 無論、下僕の男三人はすぐに極刑となった。本来であればセレニアを護れなかったエミールにもなんらかの処分が下されるところのようだが、これまでの彼女の功績とひとりで下僕たちを取り押さえたことから不問となったという。



『申し訳ございません……本当なら私が……』

 


 そこまで話してまたエミールの声が震えたから、俺は無言で首を振って彼女の肩を叩いてあげた。慰めたつもりだったのに、それをしたら彼女は再び泣き出した。



 俺の運命が捻じ曲げられたのはここからだった。



 セレニアの死はごく一部の人にしか公にされなかった。知っているのは現場にいた俺とハーストにエミール。そしてエミールの報告を受けたシャムス国王とその場に居合わせたマクラウド侯爵とオーウェル伯爵だ。



 セレニアの亡骸は、その後俺たちと共にヴィラスター王国の城内へと帰還した。



 セレニアは棺に入れられたまま、俺たちと共に謁見の間に通された。セレニアの死をルーナ王妃に伝えるためだ。



 棺に入れられた変わり果てたセレニアの姿を見て、ルーナ王妃は金切り声で絶叫した。耳を塞ぎたくなるほどのつんざく声だった。



『セレニア……セレニア……』



 泣き崩れながらも這うように棺に向かうルーナ王妃をシャムス国王は優しく抱いた。その痛ましい姿に誰もかける言葉が見つからず、悲痛な表情を浮かべながら、その場で目を伏せた。



 だが、次の瞬間、ルーナ王妃は耳を疑うことを呟いた。



『違う……これはセレニアじゃない……セレニアじゃないわ……』



『──え?』



 その発言にはあのシャムス国王ですらも呆気に取られていた。だが、ルーナ王妃は構わず話を続けた。



『だって、セレニアはこんな男の子の服を着ないもの。ねえ、あの可愛らしい服はどうしたの? あの子、ドレスを着ていたでしょう?』



 ルーナ王妃がいう「男の子の服」というのは、借りていたハーストの服のことだ。落下の衝撃で手足があらぬ方向に折れていて着替えさせることが困難だったから、服装はそのままで棺に入れられた。



 自分がセレニアのために選んであげたドレス以外の服をセレニアが着るとは思っていないのだろう。実際、そんなはずある訳ないのに。



 それでも彼女の言い分はまだ続いた。



『そう……サイラス……亡くなったのは、サイラスだったのよ』



 その発言にはその場にいた誰もが息をとめた。俺はここにいる。亡くなったのはセレニアだ。その事実は揺るがない。けれども、この瞬間で彼女の認知は歪んでしまったのだ。



『ほら……だって、ここに……』



 ルーナ王妃がふらふらになりながら俺に近づいてくる。この時の俺は声を出すことも、彼女から逃げることもできなかった。ただ、彼女の発言が信じられなくて、呆然と立ち尽くしていた。



 やがて彼女が俺の前に佇む。そして俺と視線を合わすようにしゃがみ込み、そっと俺の頬を両手で包んだ。



『ここに……セレニアがいるじゃない……そうでしょ? セレニア』



 ルーナ王妃が目を潤ませながらセレニアの名前を呼ぶ。だが誰も否定することができなかった。みんなわかっていた。無論、俺も彼女の碧眼に吸い込まれながらも感じていた。彼女の心はもう、壊れてしまっている。



『──戻ろう、ルーナ。体を休めたほうがいい』



 この場を取り繕うため、シャムス国王がルーナ王妃の肩を抱いて俺から引き離し、逃げるように彼女を連れて謁見の間を後にした。



 取り残されたマクラウド侯爵とオーウェル伯爵はそんな彼らの背中を唖然としながら見つめていた。ただ、エミールだけがその場で崩れるように膝を折り、声を殺して泣いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る