第30話 歯車が狂う時

『セレニア様。あまりはしゃがれると滑って落ちますよ』



『はーい。ほら、サイラスも早く早く!』



『くっそ……なんであいつはあんなに元気なんだよ……』



 そうぶつくさ言いながらも、俺たちはようやく山頂へとたどり着いた。時間にして十五分も経っていなかっただろうが、俺にとってはとんでもなく長く感じた。



 それなのにエミールは「軽いハイキングにちょうどいいですね」なんて笑っていた。ハーストも汗ひとつ掻いていないし、セレニアに至って蝶を追いかけて草原を走り回っている。あの時へとへとになっていたのは俺だけだった。



『セレニア様。そこに崖がありますからね』



 エミールが走り回るセレニアに忠告する。

 彼女の言う通り、少し先に段丘崖だんきゅうがいがあった。だが、その崖から下を見下ろすとマクラウド侯爵の豪邸と庭園を一望することができて、俺は思わず感嘆の声をあげてしまった。



 正直「ここでぼーっとしている」と言っていたハーストのことを馬鹿にしていたが、こんな美しい風景を目の当たりにしたら「確かに何時間でも見ていられる」と思ってしまった。



 だが、その感嘆がもろに顔に出ていたらしく、ハーストにニヤッとされた。仏頂面のハーストに笑われたのだ。なんだか一気に恥ずかしくなって、顔を真っ赤にしながらエミールの元に戻ったことを覚えている。



 そうこうしている間もエミールが段丘面で昼食を広げていたので、みんなでそこに腰を下ろした。



 温かい日差しの下で、風を感じながらエミール特製のサンドイッチを食す。山道を歩いて疲れていたこともあり、あそこで食べたサンドイッチはいつもより格段に美味しかった。振り返ると、あの時は本当に、心の底から楽しかった。



 ──だが、そんな楽しいひと時も崩れるように終わりを告げた。



『……あら?』



 エミールが何かを察知したらしく、即座に立ちあがる。



 彼女の視線の先を見ると、三人の汚れた服を着たみずぼらしい男たちがこちらに向かって歩いていた。



『あいつら……確か、下僕の』



『下僕?』



 ハーストの発言に思わず反応する。この丘はマクラウド家の敷地だ。マクラウド家の敷地に下僕がいることはなんらおかしいことはないが、問題はどうしてこんなところに来ているか、ということである。



 下僕の男がニヤついた顔で俺たちに話しかけてくる。



『これはこれはハースト様……今日はお友達とピクニックですか』



『お友達……? 失礼ですが、このお方たちがどなたかご存じなくて?』



 男の言葉にエミールが顔をしかめる。俺とセレニアはこの国の第二王子と第一王女だ。それを「ハーストのお友達」なんて言う呼び方は、侍女として引っかかるところがあったのだろう。けれども男たちは終始ニヤニヤしていた。



『そりゃあ、知ってますよ……』



『なんせ我々も、元は城下町の民ですから』



『そう……憎きシャムス国王のな!』



 ひとりの男が声を荒らげたと同時に三人とも腕を高く掲げた。手に持っていた「何か」が鋭利な刃物だと気づいた時、エミールはハッと息を呑んだ。



『お逃げください!』



 そう言ってエミールは一番近くにいた男の手首を掴み、すぐさま刃物を払い落した。エミールの強い力に一瞬怯む男。その隙を逃さずに男の手を取ったエミールは、男の腕を彼の背中側に引っ張って関節技を決めた。だが、ひとり押さえたところで、敵はまだふたりいる。



『待ちやがれ!』



 男の怒声にも振り向かずに、俺はハーストとセレニアと一緒に走り出した。だが、ほんの数メートル駆けたところで、セレニアが短い悲鳴をあげた。



 振り返るとセレニアがひとつに縛っていた髪を掴まれていた。その後すぐに引き寄せられ、男に首をホールドされる。



 男の腕の中でじたばたと暴れるセレニアだが、大の男に幼女が敵うはずがなかった。むしろ体重が軽いせいで軽々と持ちあげられている。あんな宙に浮いた状態だったら、何をしたところで無駄な抵抗だ。



 けれどもセレニアは諦めが悪かった。それが良くなかったのだ。



『離してよ!』



 そう言ってセレニアは男の腕を思い切り噛んだ。



『痛っ!』



 余程力いっぱい噛まれたのだろう。男の目が血走っていた。そしてその反射で、彼はセレニアを思い切り振りほどいた。



 男に腕を振るわれ、セレニアが吹き飛ばされる。その吹き飛んだ先が、あの段丘崖だった。



『セレニア!』



『セレニア様!』



 俺、ハースト、エミールの三人の声が重なる。だが、その声は崖に転がり落ちたセレニアの絶叫に掻き消された。



 セレニアが崖から落ちたのは男たちも想定外だったらしく、全員青ざめた顔をしていた。けれどもエミールは、そんな男たちにも容赦がなかった。



『あなたたち……なんてことを!』



『ち、違う……』



『俺たちは誘拐しようとしただけで、殺そうとまでは──』



 だが、男たちの口答えが終える前に、エミールの蹴りが男の顔面に飛んだ。



 仲間のひとりが吹き飛ぶ有り様に唖然とする男を、間髪入れずに顔面を殴るエミール。その顔がこの世の者とは思えないほど鬼気迫っていたのだろう。セレニアを投げてしまった男は泡食った顔でガクッと膝を折った。



 一方、俺とハーストは落ちたセレニアを追うのに山道を下っていた。



 下り坂なのにもかかわらず、俺もハーストも一心不乱に走っていた。



 転がる岩は飛び越え、ぬかるんだ道は滑り込んだ。たとえ足がほつれても、転んでも、疲れても、俺たちは足をとめることはなかった。そして、セレニアが落ちたと思われた場所へとたどり着いた。



 セレニアはいた。いや、セレニアらしき人がいた──というのが正しい言い方だろう。

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