第5話 事件の残り香がふんわりと

 私たちのような一般市民には「入浴」というものは存在しなかった。みんな川で体を洗うか、汲んできた井戸水でタオルを濡らし、体を拭く程度しかおこなわない。



 おかげで髪はキシキシになるし、疲れもなかなか取れないが、私が未だに女性であることがバレていないのはこの文化のおかげでもあるだろう。



 とはいえ、セレニア様の湯浴みは短時間で終わる。



 なんせ一番無防備な時間だ。他の王族にとって湯浴みは日々の疲れを癒す極楽な時間でも、セレニア様にとってはただ体を清潔にするためだけのもの。ドレスの着脱を含めても三十分程度で終了する。きっと今頃、エミールさんがテキパキと彼の体を洗ったり、長い髪を洗ったりしているのだろう。



 ──それにしても、どうしてシャンプーもリンスもトリートメントもないのに、セレニア様の髪はあんなにサラサラなのだろうか。



 オイルでも塗ってるとか? いや、でもあのタイプはどうせ「特に何もしておらん」とか言うんだろうな。理不尽極まりない。



 そんなことを考えながら扉の外で湯浴みが終えるのを待っていると、廊下から鎧と兜を身につけた騎士がやってきた。



 たとえ兜で顔が隠れていたって、あの筋肉隆々な体格を見れば誰かはわかる。彼はイワン団長だ。



「よぉ、セナ。久しいな。元気でやっているか?」



「はい、お陰様で」



 イワン団長は蓄えたあごひげを触りながら嬉しそうに笑う。



 彼は騎士の団長。つまり、私の前の上司だ。入団試験の時も試験官であったし、なんなら私と同僚を試験会場まで連れて行ってくれたのも彼だ。上司と部下である関係性はたった十日程であったが、今でもこうして声をかけてくれる気さくで優しい人である。



「お前がここで見張りとは珍しいな」



「あ、今はエミールさんが中にいるんです」



「エミールさんか。なるほどな」



 イワン団長が納得したように頷いた。セレニア様が湯浴みか着替え中であることを察したようだ。そうでないと、近衛騎士が部屋の前で見張りをすることなんてない。



 というか、圧倒的な人手不足で部屋の見張りができるような人材がいないのだ。



 当然だ。セレニア様の護衛ができるのはセレニア様の正体を知る者のみ。なんなら、私が加わるまでハースト様とエミールさんで回していたという。セレニア様の周りだけとんだブラック体制なのだ。



 それでもたったふたりで護衛ができる理由は、セレニア様が部屋から出ないことにある。部屋しか行動範囲がないから、護衛範囲が狭いのだ。



 とはいえたったふたりで回すのは大変だったのも事実で、夜中にはセレニア様にこっそりと抜け出されていたこともしばしばあったらしい。それがたまたまあの夜のことで、ばったりと出くわしてしまった私に正体がバレてしまった。



 そんな前例を作ってしまったのだから、セレニア様の護衛及び監視が増えるのは彼らにとっても良いことだったのだろう。



「お前のような優秀な者が近衛騎士に選ばれて、エミールさんとハースト様も助かっているだろうさ」



「い、いえ……本当、恐れ多いです」



「謙遜するな。入団試験の時といい、先日の侵入者の件といい、お前の活躍は目覚ましいではないか。俺も鼻が高いよ」



 豪快に笑いながらイワン団長は私の背中をバンバンと叩いてくるが、私の心境は複雑だった。特に、先日の侵入者の件は思い出すだけで息が苦しくなる。



 ──先日の侵入者の件とは、私が入団してたった九日で起こった出来事だった。謎のふたり組の男が庭園の塀を爆発物で破壊し、城の侵入を謀ろうとしたのだ。



 その際に侵入者に襲われた騎士ひとりが負傷。その騎士とペアで門番をしていた私の同僚と、たまたま通りかかった私とで応戦し、大事には至らなかった。



 しかし、自己防衛とはいえ、侵入者は同僚が切り倒してしまったため、奴らの正体はわからずじまい。城内に不穏な空気が流れるだけ流れて、その後進展はなかった……はずだった。



「そういえばセナ。この前の侵入者の件でひとつ確認したいことがあるのだが──」



 と、イワン団長は私に尋ねてきた。その問いは思わず息がとまってしまうほど奇怪なものだった。それでも覚えがないから、緊張で声を震わせながらもイワン団長に答えた。



「……すいません。存じ上げません」



「そうか……いや、知らないならいいのだ。変なことを聞いて悪かった。忘れてくれ」



 そう言ってイワン団長は私の肩にポンッと置いた後、軽く手を振ってその場を去っていった。そんな彼の大きな背中を、私は無言で見つめていた──意味深な彼の質問の意味を考えながら。




 湯浴みを終えたセレニア様の部屋に戻ってからも、私は腰が定まらないでいた。



 先程からイワン団長の問いがずっと引っかかっている。セレニア様へ当てた脅迫文。そして侵入者。そして彼が私にしてきた問い。これらは全て繋がっているのだろうか。気になる。セレニア様の命を脅かす可能性があるのなら、なおさら。



「セナ──おい、セナ!」



「へ? あ、はい!」



 セレニア様に呼ばれ、慌てて返事をする。



 まずい。考え事をしていたせいで返事が遅れてしまった。いや、それ以前に仕事に集中できていなかった。それがセレニア様にも筒抜けだったようで、むすーっと不機嫌そうな顔をされた。

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