第5話

 振り返った女の子は手で口を抑えて、心底驚いたような表情をしていた。

 驚きたいのはこっちだ。


「どなたですか。なんで僕の名前を」


「私、西川夏恋っていうんだけど知らない? 」


 夏恋は妖艶に笑って言った。

 ああ、この子が西川夏恋か。点と点が繋がって線になる。


 ただ、その線は直線じゃなかった。

 腫れぼったい目に、乱れた前髪、血色がよすぎて不自然に映る唇。

 噂通りの美しさを感じるところもあるけど、全体的にやつれた印象がある。

 聞いてた話とかなり違う。私服であろう黒いパーカーに、カーテンみたいな形状した藍色のスカートを合わせる姿も、似合っているかと問われれば似合っていると答えられるのだが、どうしてもどこか不均衡だ。


「知ってる。ずっと囲まれてた人でしょ」


 言うと、夏恋はあっけらかんと笑った。思いっきり笑ったようだけど、貼り付けたような感触を受けた。奥に隠された本当の表情があるような。

 彼女を笑わせてるのは誰なんだ。


「そんな覚え方しないでよ。芸能人じゃないんだし」


「事実を言ってるだけだよ。そんなことより、こんなところでなにをしてるの? 」


「それは伊東くんも同じでしょ。もう一度聞くけど、こんなところでなにをしてるの? 」


 カウンターを綺麗に食らって先手を取ったのを悔やむ。後出しジャンケンに引き込めばよかった。


「正直に話すメリットがあんまりないから言いたくないな。誰にも言ったことないし」


「損得を測りながら人と関わるのってあんまりモテないよ」


「モテなくて結構。君みたいに誰からも好かれる人には分からない感覚だろうけどね」


 偏屈な言葉がふいに口をついて、瞬時に反省していると、夏恋はいたずらっぽく笑った。

 笑顔を見て自分の負けを悟る。


「冷たいなぁ。私、今すぐ飛び込めるから、そのこと忘れないでね。私の命の綱は、伊東くんが握ってるんだよ。自殺幇助で捕まりたくなかったら私の言うこと聞いてよ」


「こっちは武器をなに一つ持ってないのに、自分の頭に銃突きつけて相手を脅迫するってずるくないかな。理不尽だよ」


「ちゃんと弾入ってるから気をつけてね。もう引き金に手はかかってるから」


 とんでもないこと言葉を羅列された割には、不思議なぐらい清々しくて爽やかな感じがする。単純に気持ちがいい。


「もし、僕の頭にも銃が突きつけられてるって言ったらどうする? 」


 夏恋は苦笑い以上、微笑み未満の笑顔で言う。


「伊東くんっていじわるだね。ずるいから一緒に引き金引いてもらおうかな」


 そう言って、寂しそうに僕の目を貫いた瞳になぜか姉の姿が重なった。

 夏恋に対して笑いかける。


「やっぱり自殺しようとしてたんだ。もしよかったら話聞くけど、どうかな。僕ならクラス中に噂話広げる心配ないよ。楓以外は僕のこと空気だと思ってるだろうから」


「伊東くんの話聞かせてくれたら話してもいいよ」


 もう既に追い込まれた状況だと分かっていながらも、中々心の鍵が開かずに閉口していると、夏恋は笑顔で自分の頭に銃を突きつけるポーズをした。

 完璧に負けた。完敗ってやつだ。自分の決意のために大きく息を吐いた。


「不眠症になって、夜出歩かないと眠れないんだよ」


「いつから不眠症なの? 」


「去年の春から今日までずっと」


 吐き捨てると、夏恋は心配そうに形のよい眉をひそめた。


「大変だね。だから今日学校で天野くんの背中使って寝てたんだ」


 ニッコリと笑うのを返事にした。寝た原因は不眠症の要素半分、退屈さ半分だったからだ。学校を楽しそうに過ごせる人に後者を伝えると、大抵ろくなことにならない。


「なんで不眠症になっちゃったの? 」


「まぁ、家族関係で色々あってさ。詳しいことについては話すと長くなるし、思い出すの面倒くさいから悪いけど言えないな」


 夏恋は元々眺めていた川底に目をやって、つぶやくように「そっか」と言った。

 言葉には他人事のような感触はなく、ささやかなあたたかみがあった。


 自然の音だけが響きを持つ中、夏恋が唐突に自分が座っている手すりを叩いた。


「伊東くんも横座らない? 」


「怖いから遠慮しておく。風も吹いてるし。第一に結構寒くない? 」


 夏恋から抗議の眼差しを受けて屁理屈が大気に散っていく。


「じゃあ、せめて隣に立って。ずっと二メートルぐらい離れてるの寂しいんだけど」


 拒否権を奪われているため、素直に従うことにした。夏恋が座っているすぐ横で、手すりに肘をつく。


 夏恋の香水だと思わしき、鼻につく濃いローズの匂いに、人の体温を感じた。


「伊東くん、お前はさっさと話さないのかよって顔してるよ」


「全くの図星だよ。話してくれるとスッキリとした気持ちで床につけるから、話してくれるとありがたいんだけど」


 夏恋は夜空を見上げた。同調して空を見上げると、三日月と半月の間ぐらいの月が、雲の隙間から哀愁を醸して輝いていた。


「フラれたんだよね」


「フラれたって一体誰に」


 楓の話を聞かされているため、西川夏恋という人間の恋愛が成就しない状況を想像しづらい。


「フラれたんだよね」


 夏恋は上げていた目線を落として言った。


「全く答えになってないんだけど」


「詳しいことは話すと長くなるし、思い出すの嫌だから、悪いけど言えない。また今度ね」


 夏恋は艷やかに微笑んだ。

 そうして、僕とは次元が違う世界の住人であることを証明するかのように、境界線を引いた。尋ねたいことは山程あるけど、なにを聞いてもこの先は答えてくれないだろう。


「分かった」と、理解もせずに適当な相槌を返すと、夏恋は僕の顔を覗き込んだ。


「ねぇ、質問なんだけどさ、伊東くんには私のことどう見えてる? 」


「どう見えてるって、難しい質問だね。別にどうとも思ってないけど」


「じゃあ、質問変えるね。私って汚い? 」


 口調と声音は変わらない。ただ、一歩間違えたらどこまでも落ちていきそうな深みのある問いに思えた。正直という名のなけなしの勇気を握る。


「汚いとか綺麗っていうよりも、なんか仮面を被ってるような感じはする。本当の自分じゃないっていうか、まだ奥に誰かいるっていうか」


 だだっ広い沈黙の後、夏恋は口を開いた。


「伊東くんは本当にずるいね。全然答えになってない」


 的を得たことが言えたのか、夏恋が望んでいた答えだったのか、咎める言葉には極めて柔らかな響きがあった。

 言葉そのものの意味と、受け取る意味が矛盾するような今までにない感覚は、西川夏恋特有のものなのだろうか。とても面白い。好奇心で言葉を交わしたくなる。


「急に相手を困らせるような質問をするほうがずるい。変な質問しないでくれ」


 夏恋の柔和な表情に安心して、わざと矛盾を込めて言った。夏恋が意図を見透かしたように無視して、再び沈黙が訪れる。


 唐突に、機嫌を崩した夜風が夏恋に襲いかかった。

 バランスを保つため、夏恋が手の位置を変えたとき、余した袖で隠されていた手首に細くて小さく赤い線があるのを見つけた。

 いつしかの姉の映像と重なって、思わず反射的に声が出る。

「ねぇ、その手首の傷大丈夫。やっぱりなにかあるなら話聞くよ。専門家じゃないし、役に立てないかもしれないけど」


 夏恋は心配なんてどこ吹く風という感じで、目の前の暗闇に視線を集中させていた。


「あーあ、ファンデーション取れちゃったか。伊東くんって妙に鋭くて、恋人にしたら大変そう」


「恋愛においてはちょっとした変化に気づけるほうがいいんじゃなかったっけ」


「場合によるよ。気づいていいことも、気づいちゃいけないこともある」


 今の気づきが前者なのか後者なのかで心模様は全然真逆なのだが、少し待ってみても夏恋はなにも言わなかった。


 後者の気づいてはいけないことって一体なんだろうか。

 僕は、母と父が取り繕う生活の正体に早く気づきたかった。二人が隠すものに早くたどり着ければよかった。そうすれば、姉の心が息の根を止めることはなかったかもしれないのだ。

 気づいちゃいけないこと、知らなくていいことがあると大人は言う。

 でも、大体そういうことを言う人は、自分の保身に走ってるだけだ。相手のためってふりをして、自分の都合のいいようにしている。相手を自分の思考に取り込んで、勝手な解釈をしてるだけだ。


「僕は嘘をついて隠すことで守れることって、なに一つないと思うけどね」


 夏恋と目の芯で衝突した。あまりにまっすぐ見つめられるので、目線を自然に外すことができない。夏恋は語りかけるように言う。


「私は嘘が好き。嘘や秘密はだれかを傷つけないために意図されたものだから。嘘には嘘をつく人なりの、秘密には秘密にする人なりの想いがあると思う。伊東くんだって、不眠症になった理由教えてくれないじゃない。なにか意図があるんでしょ」


「さっきも言ったけど、僕は話したってメリットがあるわけじゃないから話さないだけだ。特別な意図があって秘密にしているわけじゃない。嘘って、意図した通りにならないときにはたくさんの人を傷つけて、たたのエゴになることは分かってるよね」


「もちろん分かってる。でも、嘘のない世界で幸せになれるわけないよ。みんな互いに包み隠してるから生きていけるんじゃないかな」


「それは否定できないけど、嘘だけじゃ生きていけないことも確かだ」


 自分で発した言葉が、加速度を増して跳ね返ってくる。

 僕は、嘘ではなにも守れないと言いながら、なぜ不眠症になった理由を誰にも話さないのだろうか。よく考えると楓にすら話したことがない。

 担任教師や保健の先生に相談すれば、なんらかの対策や措置を講じてくれることは間違いない。総じて、話せば気を遣ってくれるだろう。


 でも、話したくない。自分が有利になるような働きかけをするのが元々好きじゃないという理由はあるけれど、ささやかな要因の一つだ。姉や母への配慮で秘密にしているわけでもない。


 正直、明確な理由がない。僕はどうして正直に話したくないんだろうか。


「嘘なく素直に生きられたら、どれだけよかったかって苦しんだこともないくせに」


 自分と思考の世界で戦っていると、先程までとはまるで雰囲気の違う怜悧な声が飛んできた。慌てて夏恋に注意を移したが、表情自体の変化はなかった。


「ごめん、不快なこと言ってたら謝る」


「もう謝ってるじゃん。別に伊東くんが悪いわけじゃないから問題ないよ。気にしないで。さてと、そろそろ帰ろっかな」


 夏恋は手すりから降りて、パーカーのポケットからスマホを取り出した。人工的な光が自然の暗闇を切り裂く。


「終電逃して帰れなくなっちゃったんだけど、冬真くんの家って家族の人いる? 」


「もしかしてだけど、泊まるつもりだったりする? 」


「そうじゃないんだけど、ただの確認」


 夏恋は朗らかに笑っていた。半ばヤケクソ気味といった感じだ。さっきの冷酷な雰囲気が消えて安堵する。


「悪いけど、家には家族いるし、泊まるような部屋もないよ」


「だよね。駅前のタクシー拾って帰るしかないかな。伊東くん、話し相手になってくれてどうもありがとう。とても楽しかったよ。もう平気だから」


 こちらこそ楽しかったよ、とりあえず自殺しないでくれてよかった、とは全然ならない。


「いやいや、タクシー運転手の人にどうやって説明するの。未成年だってバレたら結構面倒くさくない? 」


「いや、大丈夫だよ。制服じゃないんだし、お金さえ払えばとやかく言われないと思う。個人的な事情に立ち入るほうが問題あるんじゃないかな」


「そっか。嘘も方便ってよく言ったものだ。ちなみにこれ皮肉だから」


 一矢報いると、夏恋はまた自分の頭に銃を突きつけるポーズをして優しく笑った。


「じゃ、また明日学校で会おうね。あのさ、これからはなんて呼べばいい? 」


「冬真でいいよ。伊東ってあんまり好きな苗字じゃないんだ」


「じゃあ、冬真くんも夏恋って呼んでほしい。お互いに名前で呼ぼうよ。学校だと絶対に私と話してくれなさそうだけど」


「さぁね、気が向いたら話すことにするよ」


「本当に嘘も方便ってよく言ったものだね。絶対話してくれないじゃん」


 夏恋は手を振って歩き出そうとする。追いついて横に並んだ。


「一緒に行くよ。補導されたことないけど、警察の人いたりするかもしれないし、いくらここらへん一帯が治安よくても危ない。僕もどうせ帰り道なんだ」


「冬真くんは待ってくれる家族がいるんだろうから、早く帰ってあげなきゃだめだよ」


 脳内で帰宅すると、夕飯時の記憶が鮮明に浮かんだ。まだ生あたたかい。


「安心して帰れる家じゃないから、別に朝まで外出してたっていいんだ。どうせ眠れないし」


「私と一緒だね」


 ポツリと夜に放たれたつぶやきが重たく漂う。隠されていた本音のように感じられた。

 夏恋は、自分のことを知られたいのか、知られたくないのかが全く見えない。この曖昧さが興味を掻き立てる。

 尋ねたいことも、話したいことも、珍しくたくさん浮かんでいたけれど、全部ふさわしくないような気がした。言葉は所詮言葉だ。万能じゃない。



 しばらく互いに黙ったまま歩くと、駅のロータリーにタクシーが停まっているのが見えた。

 酒に潰れた人で売上を作ろうとしているのだろう。平日とはいえ数人は利用するに違いない。


「冬真くん連絡先交換しよう。スマホ持ってるでしょ」


 音楽を聴くためだけに持ってきていたスマホの電源を入れて、メッセンジャーアプリでアカウントの二次元コードを表示した。

 心理的には躊躇いがあったけど、正直、今日の会話は面白かった。なぜ、橋にいたかも含めて夏恋のことをもっと知りたくなる。


「ありがとう。これで物理的に直接話してもらえないときは、間接的にオンラインで会話させてもらうね」


 僕はウィンドブレーカーのポケットにスマホをしまって手を振った。


「じゃあ、またね。夏恋」


 夏恋も同じく手を振った。


「またね、冬真くん」


 夏恋はタクシーに向かって歩いていった。

 扉が開いて後部座席に乗り、運転手と言葉を交わしている姿が車の後ろの窓から見えた。


 数秒後、車は発進した。どうやら上手く嘘をつけたようだ。


 ため息をついて空を見上げる。

 中途半端な形の月は、雲が被って翳っていた。

 もうじき、雨が降りそうだ。安心できる家ではないとはいえ、外から守られた場所であることには違いない。早く帰ろう、と思ったらなんだか心が優しくなった。

 どこか疎外感のあった家が、急に居場所のように感じられた。


 急ぎ足で来た道を戻る。今日は眠れそうな気がする。

 道中、意識せず明日も夏恋が橋の手すりに座ってる想像をしてしまった。

 夏恋は不思議な人だ。不覚にも、魅力を感じて告白しまくる人に共感してしまう。西川夏恋という人間の全てを知りたい欲求に駆られる。


 今後、関わることはあるのだろうか。また今度、はあるのだろうか。ないなら正直悲しい。

 なんて、恥ずかしい感情を自覚して、月に咳払いした。

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