第4話

 あの悪夢より悪夢なドライブがあってから、姉は数日学校を休むといつも通りに学校へ行くようになった。

 家の中で考え込むよりも、なにかしてたほうが精神的によいからと、公立の薬学部合格を目指してより勉強に心血を注いでいた。


 父親不在の家庭になって、金銭的に問題が生じるかと子ながらに心配していたが、姉の塾代や生活費は全く問題が生じなかった。母が僕らに離婚を切り出すずっと前から準備をしていたのだろう。行政から養育費に関する制度活用の支援を受けているようだった。


 僕も姉にならって熱心に勉強するようになった。あの頃、勉強することだけが自分の居場所だった。

 テストの点数という数字を取れば誰からも認められる。数字の殻に籠もって、もう、これ以上自分の世界が侵食されないように、喰われないように守った。


 家族全員、現実をすんなり受け入れられたわけではない。

 心を置き去りにしてでも前に進まなければ、過去を根こそぎ倒していく時間に追いつくことはできなかった。



 受験本番の冬、正式な離婚の手続きが完了し、新しい家族で神社へ合格祈願に行った。

 そのとき、姉の表情が鬼気迫るものだったことを覚えている。


 賽銭を入れてからかなり長く手を合わせていたし、一回目、うまい構図で描けなかった合格祈願の絵馬をもう一度買い直していた。

 口調や行動自体に荒っぽさや露骨な苛立ちはみられなかったものの、今思えば心が限界に達していることの表れだったのかもしれない。体は正直だ。


 本題の受験の結果はどうだったのかというと、姉は受かって落ちた。


 力試しとなる二月頭の私立薬学部や私立の他学科には合格したのだが、その年は公立受験に用いられる共通テストの数学が異常なまでに難しく、姉は惨敗した。得意の数学で点が取れず、総合的な点数が伸び悩んだのだった。

 母親に背中を擦られながら泣きじゃくる姉の姿を見て、自分の高校合格よりも、姉の大学合格を神様に願った。一生のお願いだった。


 公立大学は多様な方法で合格できる。選抜入試や共通テストに加えて、一次、二次と大学独自の試験がある。その内どれかに引っかかればいい。色んな手段が用意されていて、一見優しい制度のように思える。

 でも、もし、全て受からなかったらどうなるだろう。

 全て受からなかった姉は、ただ心が破壊し尽くされるだけだった。

 僕が世界を壊すより先に、姉が壊れた。神様はいない。



 三月中旬の公立大学後期試験合格発表の日、姉は姉でなくなった。


 家族共用のパソコンで大学の試験結果発表のページにアクセスした姉は、数分声なく固まった。

 そして、急に動いたかと思えば、強迫的に何度もパソコンを再起動して、合格発表ページに自分の受験番号がないかと確認し始めた。見たものが幻覚であるかのように電源を落としては首を横に振って、覚悟を決めて電源を入れ、合格発表のページにアクセスして、電源を落として首を横に振って。


 みかねた母が姉の肩に手を置いたところで、姉の電源も切れた。

 顔を手で覆って、脇目も振らず声を上げて泣きじゃくり始めたのだった。


 すでに受験を終え、高校に合格していた僕は自分に罪悪感が芽吹いた。

 なぜ、姉ほど頑張ってない自分が合格してるのだろう、笑っていていいのだろうかと。

 合格したとき、少しでも表情を綻ばせてしまった自分が恥ずかしい。

 いたたまれない気持ちから、姉に励ましの言葉をかけることができなかった。

 今もかけられていないでいる。


 不合格になってからすぐは、来年リベンジを期すためにもう一年間頑張ろうという結論に至ったのだが、日が経つうちに様子がおかしくなってきた。

 食欲がないのだと食事を全然取らないし、目が虚ろで生気を感じられなかった。夜になると毎日部屋から泣き声が聞こえてきた。夢は人を殺す。


 青くて赤い塊が僕の心を巣食った。心を限界まで圧縮してからもう一度広げると多分こんな色になる。

 中学校の友達と別れを惜しんでいても、遊びに出かけていても、どうしたって辛かった。



 三月末、母が精神科病院に連れて行くと、姉は鬱病になっていた。

 入院治療が必要なまでの状態ではなかったようだが、元々真面目で聡明な姉の気質が相まって、深刻な状態のようだった。

 病院から帰宅した母は、ダイニングテーブルで処方された薬を広げ、沈鬱な表情をしていた。


「冬真、なにが間違っていたんだと思う? 」


 そう聞いた母に、返す言葉は見当たらなかった。どこを探してもない。



 現在、姉は精神疾患になって一年が経った。

 落ち着いてるときはテレビを見たり、すぐそこまで散歩したりできるようになったが、完治にはほど遠い様子だ。攻撃的になることも、急激に泣きじゃくるようなこともある。


 治療にはまだまだ時間を要するだろうが、最近は母親のほうに焦りが感じられる。通院費や薬剤費について、たまに姉のいない場所で愚痴をこぼすことがある。


 早く未来に向けてなにかしらの活動を起こしてほしい母と、自分で自分の状態を制御するに至らない姉の間で僕は生きている。


 夢に殺された姉を目にして、夢なんか持てるはずがない。目標を持って努力するなんてできっこない。

 血眼で追いかけるほど素晴らしい現実なんてない。だって、どうせ全部無駄なのだから。

 楓が僕に授けた冷淡な現実主義者という名前は厳密に言えば間違いだ。

 僕は現実を信用してないただの生物だ。毎日を吸って吐くように生きているだけ。

 どうやって生きていて、誰に生かされてるのかもよく分からない。

 


 

 深夜零時半。終電の時間が過ぎて、人通りのない道を歩く。

 真夜中の空気は澄み切っていて美味しい。冷たく刺すようだけど、どこか包み込むような雰囲気がある。魔法だと思う。

 真夜中の空気だけが自分の居場所になってくれる。

 なにも気にせず大きく息を吐けるし、家のように気を張る必要もない。月や星も味方になってくれる感覚がある。誰も踏み込めない自分だけの世界だ。


 姉に対する罪悪感が肥大して、高校一年生にして不眠症になった僕は、毎日夜道を散歩をするのが日課になった。体を疲れさせないと心が落ち着かなくて眠れない。

 今の状況下で睡眠薬を飲むような経済的要求はできないから、自力で眠気を呼び起こすしかない。意図的に眠くなろうとする人間がすやすやと眠れるわけないけど。


 初めは母が心配して、危ないからとやめるよう説得された。それでも、眠れないからと忠告を無視して続けていると、いつしか黙って玄関外の照明を灯してくれるようになった。心配をかけているのは申し訳ないけど、僕も唯一の居場所を奪われるわけにはいかない。

 歩いてる道は治安の悪い場所でもないし、犯罪に巻き込まれたら巻き込まれたで別に構わない。それまででいい。


 とにかく、僕はこの夜がないと生きていけないのだと思う。


 春の夜は、日中の陽気がぼんやりと残ったような味がする。これから気温が上昇してくことが感じられる。

 今日はよく晴れていたので、月や星も夜空に居場所を作っている。綺麗だと表現する他ない。

 閑散としている駅を横目に、ひたすら歩を進めていく。

 なにも考えず、ただ空気中の物質として歩き続ける。


 しばらくして、一級河川をまたがる大きい橋に差しかかった。いつも通り、川を横目に歩こうとしたところで思わず足が止まった。


 橋の真ん中辺り、欄干の手すりの部分に人が座っているのが見えたからだ。

 車道用の灯りに照らされて、足を欄干からふらふらと垂らす大雑把なフォルムが見える。

 表情をうかがい知ることはできないけど、普通じゃない状況だというのは簡単に理解できる。


「自殺する気じゃないだろうな」


 視界の情報を処理するためにひとりでにつぶやいた。


 バタバタと駆け寄っても、変に刺激を与えるだけだと思ったので至極普通に歩きながら近寄ることにした。普通に考えれば、真夜中に橋を渡ってること自体が不自然だけど。


 もし、本当に自殺だったとしたらどんな言葉をかけようか。考えを巡らせながら一歩一歩進んでいく。

 緊張で背中に汗を感じた。いつもは気にも留めない自分の足音が響いて仕方ない。

 心なしか、早くなる鼓動の音が外に漏れている気がした。


 引き返す臆病な選択肢をかき消しながら人影目指して歩くと、欄干が出っ張った部分にたどり着いた。展望台のように半円形だ。手前には石製の冷たそうなベンチがある。


 近づいたことで人影の解像度が上がった。華奢な背中と肩より少し長めの後ろ髪が目に映る。

 背中から感じる雰囲気は、どこか飄々としていて川に飛び込む未来が見えない。

 杞憂だったかもなと思いつつ、放置するわけにもいかないのでどう声をかけようか迷いながら佇んでいた。


 すると、人の気配に気づいたのか、華奢な背中が急に振り返ってこちらを見た。


 目が合った瞬間、なぜか今日楓がしていた噂話を思い出した。


「伊東君だよね、なんでこんなところにいるの? 」

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