死後の虚無

九葉ハフリ

主観


 日暮れの境界線にて蒼白い雲がわらう。


 まるで怪物の訪れを告げる号笛サイレンの如く、踏み切りが喧しく慟哭を上げている。驚愕にあたふたと周囲を走り回る童のようで、その規則的な音は滑稽でさえある。だが無理もない。怪物がやってくるよりも先に、性急せっかちが悪運を背負わせたか、ビルから飛び降りた愚か者が線路に瑞々しい花弁を散らせていったのだから。


「───五臓六腑に月並みの知識を供えてみては如何か、憐れな君よ」


 唐突に。

 私の隣に佇む老人が訳のわからない戯言を虚空に向けて呟いた。地蔵にありったけの芸術性を込めてやれば、このような不気味な思念が肉体を得るのかもしれない。その老人は人好きのする笑みを浮かべてはいるが、肝心の焦点が定まっていなかった。それでは誰に手向けた言葉かも不明瞭だ。


「おや? これが屍に捧げた言葉だとなぜお思いに?」


 喪服の老人が、今度は紛れもなく私にそう問いかける。


 だが私は聞く耳を持たず、線路に散らばった骨と肉片とを拾いに遮断機を跨いだ。


 わかりきっていることをわざわざ訊ねないでほしいと、私は拾い上げた骨と肉片の代わりにその述懐を線路へ置き去る。思えば今日は真夏日だった。鉄の線路に昼の熱がまだ溜まっていたのだろう、それらからは腐爛した命の薫りが込み上がり、鼻腔の奥をぐらつかせた。

 すると、一瞬ばかし、世界が眩むような純白に染まった。閃光が私の眼球を容赦なく食い潰す。甲高い呻き声を高鳴らせながら、定時の電車がとてつもない速度をもって私の目の前に迫らんとする。

 私はそれに向かって、ゆっくりと歩み出した。


 もちろん、骨と肉片は忘れずに──。


 

 

 堅牢な岩戸に印を刻み杭を打つ。


 私は彼岸の花束を胸元に抱えて、宇宙の虚に橋を渡すような、密閉された回廊をつかつかと進んでいく。それは地中深く、前人未到の惑星の深奥部へと足を踏み入れていくようでもあった。凸凹でこぼことした岩盤を丁寧に削り取り、そこから峻厳と威光とで塗り固められ飾り立てられたと思われる回廊には、当然窓という窓がどこにも見当たらない。鼠一匹這入りこむ隙間さえないだろう。そのさなか、私の足下には一匹の黒猫がトコトコと歩いている。私の無遠慮な足幅に食らいついている。はて、私共々何処からやってきたのだろうか──などというツマラナイ懐疑は、疾くに永久とわよりかけ離れた漆黒のうろの綴じ蓋にぶら下げてきた。見送られる際、皆は一様に顔を伏せて跪拝していた。


「───目眩めくるめく空虚ないとま口火くちびでも取り替えたら如何か、怠惰な君よ」


 唐突に。

 私の右肩に乗っかりながら、黒猫が要領の得ない戯言を途方もない暗闇に向けて囁いた。不吉にありったけの愛嬌を込めてやれば、このような闇夜に潜む恐怖が悠々自適を満喫するのかもしれない。その黒猫はぺろぺろと私の頬を舐め続けており、一向に降りる気配はなかった。それでは慰藉いしゃ狼藉ろうじゃくの堰も切れぬというもの。


「おや? これが御霊を斥ける言動だとなぜお思いに?」


 白々しくも妖しげに黒猫が瞳を光らせる。

 だが私は畜生の言には取り合わず、渦巻く回廊の終点を目指した。


「流転を欠くのがお好きなようだね、君」と、黒猫が満開の彼岸の花束に落ちながら咲った。

 途端に彼岸花は燃え上がり、花弁の一枚一枚、花序の一本一本が壊死するかのように漆黒へ萎びる。

 果てしなく思える回廊には灯りと、岩石を削り磨いた壁にはゆらりと彼岸花の火影が整列する。


 まるで生前の影が忘却を咎めている。


 私を導くつもりのようだが、それは大きな間違いだ。

 そういう気の遣い様は、迷える留魂るこんに差し向けるべきなのだから。


 間も無くすると行き止まりに差し掛かり、闇を形骸化させ、あたかもそのまま仕切りに仕立てた暴挙が、私を堂々と待ち構えていた。光さえも呑み込んで離さず、長方形をした凹凸おうとつのない門。その門前には、吐き気を催すほどの異臭が漂い、変色し融けた動植物の死骸のような汚泥が小山となって積まれていた。

 私の腕には、それと酷似した物体がおとなしく収まっている。

 私はどろどろに燃え残る襤褸ボロクズと化した花束を川水を掬う要領で口に含み、おそれを躊躇わず嚥下した。それが紛れもなく正しい行いに思えた。刹那、神経繊維を力任せに引き千切られるかの如き耳鳴りに襲われ、眩暈が足下を泥濘にし、我知らず金切り声にもならぬ半端な呼気を吐き出し、感覚は指先から風化していくようで……。


 突風が吹き荒れた。それは遥か後方から送り込まれた追い風のようであるが、その実、眼前に聳える虚からの誘いだった。


 異界の門が私を認め、ようやく招き入れようと口を開けたのだ。

 受けて私は、急き立てられるように足を浮かせた。

 今度は、身一つ持たぬまま──。

 

 嗚呼、屹度この瞬間より。

 ───正真正銘、魂の髄まで、私はしかばねとなった。

 

      …

 

 碧空に柔な白。刻々と雲が去っていく。

 果てを持たない死後の時であれ、停滞はなく、かといって緩やかに浪費されるでもなく、この風景は有限であり、貴重だという。良くも悪くも現実あちらと遜色がない。退屈はしない。


 一陣の風が吹き、日を照り返しながら草花が波打つ。

 私の見渡す限り、牧歌的な田園風景が萌え立っていた。

 そうして、風が鳴り止むと共に、ばさりと優雅に一羽の鳥が私の隣へ降り立った。


「お前の望みは、えらく原始的のようだ」


 いかにも艶の良さそうな青鷺が私の眼を覗き込む。

 口は開かない。その嘴は、ここでは何物も含まない。


「野を駆けたいのならばこの俺が翼を広げるように、お前も脚を解き放つがいい。何故そうしない?」


 意地の悪い野鳥がいたものだと私はむっとする。

 その鋭き眼光をもって途方もない価値を渡ってきた者とは思えない、あまりにも不躾な台詞だった。

 それは貴方が最も解し、幾許も見届けてきた様相の筈なのに。


「そうか、お前は新参か。ここに至ってもまだ喪う事を恐るか。しかし、元々喪うも詮無いこと、それに気づかぬほど愚鈍なお前でもないだろうに」

 さもなければ黄昏る空も赦しを得なかった、と青鷺がまるで人間が掌を差し出すかのように灰色の翼を広げ、微かに脚を畳んだ。この野鳥もまた、未だに元の世界を忘れられないでいるようだ。


 青鷺の指摘を契機に、架空の陽が傾き出した。

 そろそろと蒼が朱へ替わろうとしている。


 風が凪ぐ。音が絶つ。明が離く。時が止む。


 それを見て、野鳥が発する。

「馬鹿は死んでも治らない」──と。


 だがそこで言葉は止まず、こう続けられた。


「それでも芽吹く兆しが、この暗闇にはある」


 太陽のように力強い赤い光点が遥か飛び立っていく。

 皓々と尾を引きながら遠ざかるそれは、不吉な箒星のようでもあり。

 その二面性に思いがけなくも励まされた。

 消え失せるまで見上げた後、私も立ち上がり、往くあてもない旅へと乗り出した。

 



 前触れ、前兆の類はなかった──。

 満天の虚飾を散りばめた、水平線を駆ける彼岸の列車。

 ふと瞬きをした後には、私は座席の窓から幾許かの銀河を望んでいた。

 波紋は羽ばたくように水面を掻き分けて、水平線の彼方まで縒り拡がる。それが後へ後へと尾を引くさまは、僅かでも前を向く意義を見出す為だろうか。まるで此処が世界の中心であると誇示するかのように、周囲は茫々と何もない。ひたすら永久の示唆に富んで、それはどこか、うらさびしくもあった。


 おそらく目的地はない。この列車はひとりでには辿り着かない。直観が語りかける。“壮麗”で“満ち足りた”風景を連綿として流し続ける映写機、この場は静謐なる舞台席でしかないのだろう、と。


「その通り」対面の席には金魚鉢。その水中に浮かぶ一匹の小さな錦鯉が私を見つめている。

「稀人の君、迷える君よ、歓待する。ここは君のような者の安息の域、あらゆる指向の導きを端とする境界線上。意思のまま降り立つまでの暫し、僕が君の案内を務めよう」


 鮮やかな紅菊の如く鱗の模様がその美白を彩る。

 迷える者、と淡水魚は高らかに言った。あの陰気な黒猫しかりこの金魚鉢の錦鯉しかり、それほどにも私が泣きじゃくる迷い子のように見えているのだろうか。

 すると、錦鯉がその場でくるりととぐろを巻く蛇のように回転した。


「此処では全ての心が例外なく剥き出しだ。そんな君の心に、僕の言葉はさぞ響くだろう」


 小さな錦鯉は金魚鉢の内縁を周回しながら、私を弄ぶ。

 車窓の奥では、流れ星の一群が淡白な軌跡を描いている。

 私がそれに目を奪われる姿が甚く茫然と見えたのだろう。


「夜空を埋め尽くす星々の瞬きに君の目が焦がれる事はあっても、焼かれる事はない。それが君なのだから。思う存分いとまのない空虚を堪能するといい。孤独に思惟を包み、その殻の中で堂々巡りするのは慣れっこだろう?」


 淡水魚の最後の発言には髭ほどの棘があった。


 ──永く、星々の煌めく湖を眺めた。


 幽かな揺れもない旅の列車に身を任せながら、私たちはあてどもなく進んでいるのではない。足を止めているのだ。心倣しか視界いっぱいに満ちた壮麗な景色から目を離せず、立ち止まっているに過ぎない。

 こうして列車の席に大人しく腰を下ろしていなければ、私はこの果てしない銀河の虚空に水泡の如く漂流し、いつしか途方に暮れ、後生の在り処を其処と見限ってしまっていたかもしれない。がらんどうゆえに、可能性の涯であり、全ての愚かしさを許容する甘美に満ち満ちている。融かされてしまう。それゆえに、水平線の彼方にさえ、何も見受けられない。


 錦鯉がちゃぽんと跳ねた。

「そろそろ見飽きたかな?」


 私は首を横に振る。見飽きるはずがない。彼方には全てが揃っている。満たされている。確信がある。しかし足るが故に虚無なのだ。果てがある。終わりがある。意味を喪い、底には何も残らない。

 叶うなら一生を捧げて焼きつけたかった景色だ。

 ゆえにこそ、それは目に毒だった。

 私は否が応でも立ち去らなければならない。

 後を引く風景から目を背けて、幕を引かなければならない。


「其れを求め、君は此処に流れ着いたというのに」


 小さな錦鯉が漆を塗りたくったビー玉の瞳をじっと固めて、「何故だい?」と私に問う。


 受けて私は、三度みたび果てに目を据える。名残惜しくはある。だが、此処はあまりにも淋しすぎた。決して触れられない遠景。それは貴方の言う通り、焦がれるばかりで、漂う灰にはなれないのだから。


 すると、列車が水面に沈み出した。ぶくぶくと泡を立て、水平線は徐々に姿を晦まし、銀河の夥しい光輝が遠ざかるようにしてぼやけていく。実際は沈んでいるのではなく、水位そのものが上がっているのだろう。

 あっという間に、窓の景色は深海の暗黒に呑まれた。


 列車の内部と共に。私は眼を閉じる。

 瞼の裏でほんのりと灯る、麗しい淡水魚が囁いた。


「──君の旅路に報いを。没後にも思い煩う、まばたく君よ」

 



 そこは、燦然と華やぐ深海都市だった。

 群生する珊瑚の燈篭。方々の石巌より差し昇る気泡が虹色に乱反射し、珊瑚礁と合わさり、闇を打ち消している。石灰にて造形されたビル群の間を樹海の天を塞ぐ枝のように通路が張り巡り、節操なくビル同士を中継する。谷底の見果てぬ先まで聳える岸壁には無数の窓硝子が彩り、日々の営みを想わせる暖がそこかしこに灯っていた。


 ──だが、純然な人々の姿は見られない。


 黒い靄のような煤けた人影が私の横を通り抜け、周囲を見渡せば他にも同様、より多くの無口な影共が目まぐるしく往来する。彼らは一様に私を避けて通り、こちらには見向きもしない。


 とん、と肩を叩かれた。


 唐突な接触に亡き心臓の鼓動を惜しみながら、私は無音の通りを振り返る。大人一人が通れるだけの横幅を持つ空隙が直線状に四、五メートルほど伸びており、その末端には、誰も立っていなかった。中心に塞がる巌が河川を泡沫に染め上げるように白く滑らかな地肌が晒されている。


「私が見えない。それでいい。深層では私を依拠とするあなたには、私の姿はさぞ目を焼くでしょうから。お互いにとって都合が良い」


 落ち着きを払った声音の節々に燥ぐ音色を滲ませながら、私の正面にいると思しき透明な対面者はそっと歩み寄るか、影共の作り出す余白が次第に狭まっていく。

 そうして、私は無意識に楕円を半分に切ったような余白を見下ろしていた。


「安らぎを拒むあなたがここに降り立った。蓋然と撞着、双方の交雑が示すところはやはり抹消に次ぐ回帰なのだけど、しかしあなたはそれをも拒むでしょう──この場合、どうそそぐべきなのでしょうね」


 そう言い、透明が私の胸に寄り添う。柔らかく、海月の傘を彷彿とさせる感触が手に触れた。


 彼女あるいは彼の語った言葉は、私にはせない。

 ……ただ。私は恐らく泡沫の夢と対峙している。限りなく透いた言動に抱ける感慨などたかが知れたもの。ひとたびこの透明から目を逸らした刹那には、私はここの一切の認識をめっきり失うのだろう。そして、再来の機会は断たれる。


「そう」と透明がくすくすと頷いた気がした。

「回帰を望むのなら、ここが最後の波止場。これを超えた先は無秩序の増殖があなたの飢えを促進させるばかり、そうに違いない。それでもあなたは、超然と不毛の地を巡り、いつか来たる変革の剋を待ち続けるの? この、私たちみたく」


 透明がゆらりと乱れる。そのほんの微かな揺らぎより垣間見せたのは、白い布を覆いかぶさった彼女の、底昏い微笑みに違いなかった。


「あぁ、私はあなたが羨ましい。戻れる機会を手に握るあなたが。同時にあなたが妬ましい。それを易々と手放してしまえるあなたの構造が。だからこそ、私はあなたを憐れに思う。そんなあなたが返り咲いたとて、またここに戻ってきてしまうのが落ちなのでしょうね、何も手にしないままに」


 その事をきっとあなた自身は悲しまないのだから──。


 水泡に帰するが如く腐心の末に命を見限った私には、彼女の言葉はあまりにも痛切に響く訴えだった。私にはあまりにも過ぎた、灌漑めいた感情だった。何も、そこまであなたが心を揺さぶる道理はないというのに。


 ふと、虹色に反照する気泡の行方を想う。泛ぶは先の星々を映す湖ではない。私が捨て去った、私を殺した、相対的な枷を根幹とした現実に行き着き、その儚い殻を脱ぐのだろう。それは彼らにとって、何物にも勝る至上の歓喜であり、そうして、幻想たる奥底のぬるま湯を忘却の彼岸に葬っていくのだ。


「行ってしまうのね」

 永久不変の退屈やすらぎ欲しさに、人一人の命を対価としたのだ。

 そんな私に余白があってはならない。


「さようなら」

 屹度。二度と会う事はないでしょう。

 


 小春日和の風が吹いた。

 一塊の雲が群れとなって青空を席巻する。

 結びつく日の来ない種を蒔きながら、私はたおやかな草原を風の向くまま追いかけ、日が傾く時を待つ。

 さて、次の出立はいつ頃になるだろう──。

 

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