第2話 九度山閑居(かんきょ)と刺客
古今無双の大軍師、真田幸村の名は、三つ子でも知らぬ者はございますまい。
この人は、信州(現、長野県)上田城主、真田阿波守(あわのかみ)昌幸(まさゆき)の二男で、産まれつき知恵の優れたところへ、幼い頃から父昌幸と共に、千軍万馬の間を駆け回り、数々の実戦でその智謀軍略を磨き上げたために、まったく素晴らしい大軍師となり、日と呼んで「楠木正成(くすのきまさしげ)公の生まれ変わりだ」とさえ申しまして、その名は日本国中に鳴り響いたのでございます。
けれども、天下分け目の関ケ原の合戦に、大阪方が負けてからは、何思ったか幸村は、上田城を立ち退いて、多くの家来どもには暇(いとま)を出し、わずかに、穴山小助(あなやまこすけ)や猿飛佐助(さるとびさすけ)、三好(みよし)兄弟や海野六郎(うんのろくろう)などという十勇士の面々ばかりを召し連れまして、紀州(現、和歌山県)九度山(くどやま)に引きこもり、頭を丸めて、名も傳心月叟(でんしんげっそう)と改めました。
注 坂口より
「真田幸村は豊臣秀吉に恩を受けており、関ヶ原合戦でも大阪方に味方しました。大阪方が敗北して、九度山に配流となったのです」
その後は、とんと天下の成り行きなどには見向きもしない様子で、せがれの大助や家来どもを相手に、自分で工夫した木綿紐(もめんひも)をせっせと組んでは、これを穴山や猿飛などに命じて、諸国へ売り歩かせます。
この組み紐は、真田紐と呼ばれて非常に評判が良く、なかなかよく売れるので、とうとう幸村は紐屋の親方になって金儲けをはじめ、武士らしい性根さえ失くしたものか、まるで阿呆のような人間になってまいりました。
そんな風ですから、せがれの大助幸昌(ゆきまさ)にも、何一つ大将分の子らしいしつけをいたしません。したがって大助は勝手気ままに山を駆け回ったり川漁をしたり、まるで木こりか百姓の子供たちと、ちっとも違わぬようになってしまいました。
かねて、幸村たちの様子を見張るように、関東の徳川家康から言いつかっていた、和歌山の城主、浅野但馬守は、間者共からそれを聞いて、詳しく江戸表へ知らせますと、そこは古だぬきと言われたくらい抜け目のない家康ですから、なかなか疑り深くて油断いたしません。
「そんなことは信用できぬ。おそらく世間をあざむいて油断させ、大阪城へ味方して一旗上げる下心であろう。この上とも厳しく見張りをして、その本性を探り出せ」
と、固く言いつけました。そこで、浅野家では九度山の麓(ふもと)に関所を設けて、人の出入りを厳しく見張らせております。
それでも安心できないのか、但馬守はある日のこと、家中第一の忍術の名人、山本九兵衛(やまもとくへえ)を呼び出して、
「九兵衛、其の方、今夜にでも幸村の住まいへ忍び入り、よくよく彼の本心を探って参れ。万一幸村めの本心、大阪方へ味方と見極めがついたら、直ちに刺し殺してしまえ。不動国行(ふどうくにゆき)が鍛えたるこれなる一刀、貸し与えるであろうぞ」
「ハハッ、心得ました。幸村の本心を探ったうえ、もしもの時は、必ず父子の素(そ)ッ首打ち落としてお土産にいたします」
と、山本九兵衛、恐ろしいことを心得て、九度山さして分け上りました。夜になるのを待って、ソッと幸村父子の住まいに忍び込んでみますと、一間にともしびが明々とともっている。抜き足さし足、障子の外へ忍び寄って、その部屋の内を覗き込みますと、思わずアッと驚きました。
昼間のマヌケみたいな幸村は、この一間の内では、まるで別人のように威儀正しく、灯りの下でしきりに、張り抜き筒(づつ)という大砲(おおづつ)を作っているのです。
「ヤッ、さてこそ幸村は偽阿呆に違いない。して、せがれの大助は?」
と、見回すと、大助もまた、机に向かって、六韜三略(りくとうさんりゃく)の兵書をしきりに読みふけり、時々父に向かって質問を致している様子。とうてい昼間の大助とは思えません。九兵衛、九兵衛はいよいよ呆れて、
「ウウムッ、どうも驚いた。さてさて油断のならぬ父子だわい。よし、この上は二人の寝静まるのを待って、寝首を掻いてやろう」
と、そのまま床の下に潜り込んで、やぶ蚊に食われながら、夜のふけるのを待ちました。やがて、夜がしんしんと更け渡ると、頭の上に幸村の声がして、
「大助、今夜はこれくらいにして、もう寝ようぞ」
「ハッ、かしこまりました。ではお父上、お床をのべましょう」
と、寝床をのべる物音がして、挨拶をした大助は次の間へ下がり、幸村もどうやら、横になった様子。
「しめたぞ。寝入りばなをただ一刺しにしてくれよう」
と、九兵衛、ソッと床下から這い出し、雨戸の外へ忍び寄ると、慣れたもので、音もたてずに雨戸を一枚、四十センチばかり滑らして、その隙間から縁側へ這いあがりました。
そして障子の隙から、ジッと覗き込むと、部屋の真ん中に、紙帳(しちょう)といって、紙で作った蚊帳が吊るしてあります。だが、その紙帳の中は、蚊帳トリガって透かして見ることができないばかりか、寝息はもとより、何の物音も聞こえてきません。いつまでたっても、起きてるのか眠っているのか、見当さえつかないから、さすがの忍術名人も弱ってしまいました。
「はてな、これはおかしいぞ。どんなかすかな寝息でも、拙者の耳で聞き逃すことはないのだが? いったいあの紙帳の中に幸村はいるのかしら?」
「おやすみ」という父子の挨拶までは聞いたはずだのに、どうも不思議でなりません。
「ちぇっ、かまうものか。思い切ってやってみよう。今がちょうど、寝入りばなのはずだから」
と、ようやく決心した九兵衛。一センチ、二センチと少しずつ灯火の障子を押し開けます。やっと、身体がとおるだけの隙間ができると、スルリと部屋の中へ踏み込み、殿から拝領の不動国行の目釘をしめして、柄に手をかけ、ジリジリと、紙帳の側に近づいてゆく。もう一メートルばかりで紙帳というところまで無事に忍び寄ったのは、さすがに忍術の名人山本九兵衛、ジッと間合いを図って、ただ一刀に幸村を刺そうと身構えます。幸村の一命は、まことに風前の灯……。
が、今、一刀を引き抜こうとした山本九兵衛、なぜかこの時、サッと顔色が変わったとたんに、静かだった紙帳の裾が、ごわごわッと鳴るよと見る間に、サッと中から閃き出たのは氷のような白刃。目にも止まらぬ速さで、九兵衛の脛(すね)のあたりを薙ぎ払おうとしたから、仰天した九兵衛、夢中で敷居際(しきいぎわ)まで飛び下がりました。
すると、刃はまた静かに紙帳の中へ引っ込んでしまいました。さあこうなると、気味が悪いのなんのって、さすがの九兵衛も、敷居際に立ちすくんだまま、どうすることもできず、立ち往生です。
下手に動けば、また紙帳の中から、あの恐ろしい刃が飛び出してきそうです。紙帳の中の様子こそ分からないが、天下の大軍師幸村が、そこで自分の様子を見守っているのだと思うと、もう体が自然にすくんで、蛇に見込まれたカエル同様、身動きすらできません。
九兵衛は、シンとして物音ひとつしない紙帳に、金縛りにされたようになって、脂汗(あぶらあせ)をたらたらと流しながら、心の内で、
「ああ、しまった。この上は破れかぶれだ。思い切ってやってしまえ」
死に物狂いの決心をして、いきなり一刀スラリ引き抜き紙帳目がけて躍りかかろうとした一刹那、
「無礼者ッ」
思いがけないすぐ後ろで、凛とした声が聞こえたかと思うと、九兵衛のえりがみを恐ろしい力の手先がグッとつかんだ。
「アッ、おのれッ……」
驚いて、振り返ろうとしたとたんに、九兵衛の身体は、もんどりうって畳の上に投げ倒され、ハッと思う間に、組み敷かれてしまいました。
「おお、大助。曲者は取り押さえたか?」
落ち着き払った声をかけて紙帳の裾をはぐり、静かに幸村が姿を現しますと、九兵衛を組み敷いた少年大助が、ニッコリ笑って、
「お父上、ずいぶん弱い曲者でございましたよ」
と言ったが、なに、曲者が弱いのじゃない。自分たちが強すぎるのです。
幸村はキッと九兵衛を睨みつけて、
「こりゃ曲者、汝は何者の命を受けて、この幸村を狙ったのだ? ありていに白状いたせ」
「黙れ、誰の言いつけでもない。貴様たちが大分金をためたと聞いて、強盗に押し入ったのだ。が、残念にも捕まったからには、もう詮方ない。早く首を斬れ!」
「ハハハハ……強盗とは考えたな。よしよし、白状したくなければ、しなくともよい。が、天地を見抜くこの幸村。汝が何者の家来であるか、誰に頼まれて何しに参ったか、とっくに知っているのだ。これ佐助、参れ」
「ハッ」
と答えて、次の間から顔を出したのは、忍術で名高い猿飛佐助。
「其の方、調べ上げたこやつの素性を言い聞かせてやれ」
「かしこまりました。オイオイ、山本九兵衛」
「エエッ、ど、どうして拙者の名前を知っているな」
「アハハハ、そのくらい知らなくては、我が君始め、この猿飛佐助の名が廃る。待て待て、だんだんともっと驚かしてやる。いいか、貴様は浅野但馬守の家来で……」
と、佐助が、和歌山城中で但馬守から命を受け、不動国行の一刀を授かって、九度山へ分け上ったことまで、順序正しく語り聞かせましたから、九兵衛は開いた口がふさがりません。自分が一かど、忍術で幸村父子の様子を探った気でいたところ、幸村の方では、さらにその上を行き、猿飛佐助の忍術で今夜自分が忍び込んでくることまで、すっかり知り抜いていたのです。
目を白黒させて恐れ入った山本九兵衛は、幸村にいろいろ説き諭され、心を改めて幸村に仕えることになり、その後たびたび手柄を現しました。
本日はここまで。明日はいよいよ、幸村が徳川の手先と戦いまする。さあ、いかなる活躍をいたしますか。楽しみにお待ちくださいませ。
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