第5話 逃避行 1
顔が水に浸かる。そのまますがる物もなく流れにもみくちゃにされた。
鼻に水が入ったのか、つんとする。涙が溢れても、零れた瞬間に濁流に洗われてしまう。
(うそ、うそ、うそ!)
苦しい。怖い。息ができない。
身体が岩や流木にあたって痛い。水は冷たすぎて、とがった氷の上を滑っているようだ。
そんな状態でも、不思議とその声がはっきりと聞こえた。
「手を伸ばせ!」
無我夢中で右手を水の上に突き出すと、誰かに痛くなるほどきつく握り締められる。
リドリーもまた、藁にもすがる気持ちで左手も伸ばし、相手の手首を掴んだ。
相手の方へ引き寄せられ、渦をやり過ごした後で相手に抱えられる。すると、まだ波しぶきがかかるものの、顔が水面上に出て息が楽にできるようになった。
ひとしきり咳き込んで、空気をむさぼる。
ようやく普通に呼吸できるようになったリドリーは、改めて自分の状況を振り返った。
やはり自分は崖の下に落ちたらしい。谷底の濁流に呑まれて、流されたけれども、助けてくれた人がいる。
一体誰なのか知りたかったが、後ろから抱えられた姿勢では顔がよく見えない。
でもそれで充分だった。
濡れて黒く見える髪、首にまとわりついた灰緑の外套。間違いない、自分を攻撃してきた少年だ。
急に怖くなって、リドリーは彼から離れようとした。腕から逃れようとしたリドリーに、少年が短く告げる。
「死にたいのか!?」
その一言で、リドリーは動くのをやめた。
自分ひとりでは溺れてしまうと、嫌というほど思い知ったばかりだ。
少年はそれ以上何も言わなかった。
そのまま流されていると、少年が岸へ向って少しずつ移動している事に気づいた。岩を何度か掴みながら、やがて足のつく浅瀬へたどりつく。
「上がれ」
短い言葉に、リドリーは従った。
体中が冷たくて手も足も上手く動かなかったが、少年に腕を引いてもらい、なんとか浅瀬からあがる。
そのまま岸に倒れ込んだ。体の下の小石がほんのりと暖かい。
ほっと息をついたリドリーだったが、小麦の束を背負わされたように体が重たくて、それ以上身動きできなかった。
仰向けに転がったまま、リドリーは自分を助けてくれた少年の方を見る。
「あの、ありがとう……」
礼を言ったものの、少年もリドリーと似たり寄ったりの状況だった。
岸に四つん這いになって、荒く息をついている。
リドリーの礼を聞いてこちらを振り向いたが、それだけで彼は何も言わなかった。
水を吸った外套は背にぴたりと張り付き、目深にかぶっていたフードは背に力無く落ちて、中性的な顔に疲れた表情を浮かべているのが、はっきりと見える。
彼の視線がリドリー以外の方向へ向けられた。川岸にあがったもう一匹。黒猫のシグリだ。
体を震わせて水気を飛ばす黒猫を見て、リドリーは頭から血の気が引く。
(そうだった。私、猫をだっこしたまま落ちたんだ……)
抱き締められていたせいで、逃げようがなかったのだろう。無事だからよかったものの、ひどいことをした。落ち込むリドリーの前で、少年は黒猫に話しかけた。
「お前、まだそこにいたのか。逃げなくて良いのか?」
彼は穏やかな口調で尋ねる。さっき黒猫に攻撃されたはずなのに、一体どういう心境の変化だろうか。
黒猫は小首をかしげるような動作をして、たたっとリドリーに向かって移動してくる。そしてまだ倒れたままだったリドリーの頭に背中をこすりつけた。
どうやら道連れにしたことは、怒っていないようだ。
黒猫を追ってこちらへ視線を移した少年の方は、リドリーと目があうと少し眦をきつくする。そして膝をついて起き上がると、リドリーに命令してきた。
「立て。早くここから移動するんだ」
そう言われても、立つ力が出てこない。それに、どうして早く移動しなくてはならないのか、まったくわからない。
混乱してぐずぐずとしていると、少年は舌打ちしてリドリーの方へ歩いてこようとした。しかし、そんな彼の足取りも決して軽やかと言うわけではない。
少年は立ち止まると、そのまましばし瞑目する。
何をするんだろうと首をかしげたリドリーは、一瞬自分の目を疑った。
視界にふわりと青い紗がかかったかと思うと、青い大きな鳥の姿が現れていた。
体は水面の波紋のようにさざめき、燐光が小さな火花のように絶え間なく散り、その身を輝きで飾っている。
リドリーの脳裏に、再び『魔女の分身』という言葉が思い浮かぶ。
不意に、例えようもない熱気を感じた。炎天下の中のような、喉までカラカラに干上がるような暑さだ。ややあってその熱気が引く。
すると、さきほどまで重たげに濡れそぼっていたはずの彼の外套が、裾を払う手の動きにつられて軽くひるがえる。
彼の髪も乾いて、本来の淡い色をとりもどしていた。気づけばリドリーの頬にはりついた髪も、吹き込むそよ風に、さらりと揺れて落ちた。張り付いていた服も少し乾いて、冷えていた体も少しだけ熱を取り戻しているように感じる。
(本当にまほうなんだ……)
リドリーは呆然とした。
そんなリドリーに少年が近づくと、無言で腕を引っ張りあげる。それでようやく起き上がったリドリーだったが、足に力がはいらず、立てなかった。
少年は舌打ちすると問答無用でリドリーを背負い、歩き始めた。
とたんに足どりが重くなってよろめき、悪態とともに踏みとどまる。
彼は背が高くない。リドリーとケネスの中間位だろうか。小柄だから大変なのはわかるが、
「重……っ」
さすがにこの台詞には傷ついた。
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