第4話 魔女と呼ばれた私の学生生活 3

 ぽっかりと開いた穴から見える空。

 そこから降り注ぐ光が、彼の姿を浮かび上がらせている。


 彼は濃い灰緑の外套を羽織っていた。肩幅や背丈からも少年だと分かる。

 外套のフードからこぼれた彼の髪は、黒に近いブラウン。自分とそう歳は変わらないとリドリーは見て取った。


 彼の暗い怒りを秘めた緑の瞳と、リドリーの灰青色の瞳がぶつかり合う。


「リドリー!」


 急に背後から呼びかけられた。振り返ると、どこを通り抜けてきたのか、カールが駆け寄ってくる姿があった。美しい白金の髪は乱れ、彼の慌てた様子がわかる。


「カール先輩!」


 仲間の姿にほっとしたリドリーは、岩の上に立つ彼から視線をそらして立ち上がると、カールへ向って走り出そうとした。


「……仲間か」


 声と共に、雷が落ちるのにも似た轟音が響きわたった。

 手を伸ばしたカールが、崩れ落ちてきた天井の向こうへ消えうせる。

 そこは岩に塞がれて、行き止まりになってしまった。


 リドリーはゆっくりと振り返り、再び自分に注がれる視線と目を合わせる。

 名前も知らない少年は、岩の上でゆっくりと腕を振るった。背後に、その背を覆って余りある大きさの青い鳥の姿がある。宗教画の神のように淡く輝いて見える鳥は、男が腕を振るのと同時にその翼を動かす。

 空気が動くのを肌で感じ、リドリーは怯えて立ちすくんだ。

 何なのだろうこれは。自分自身に問いかけながら、リドリーは魔女に関する文献の一節を思い出す。


 ――彼女の背後には、水面が揺らぐように煌めく女神のごとき精霊が姿を現していた。

 それこそが魔女の分身。世界の律を歪め、魔女の意志のまま破壊の力を振るう、あまりにも美しすぎる異形の姿だった――


「シャアアアアアアァァァッ」


 腕の中の黒猫が鋭い声を放つ。

 空気が張り詰め、弦をつま弾くような音と共に、男の立っていた岩が砕けた。

 破片がリドリーの方にも飛んできた。しかし半透明の白い綿に包まれたように見えたかと思うと、破片は彼女を傷付けることなく床に落ちる。だが少年も、動じた様子もなく同じ位置に浮かび続けていた。


「猫が……?」


 不可解そうな彼の呟きを聞くか聞かないかのうちに、リドリーは閃光に網膜を焼かれそうになる。顔を黒猫の頭にすりつけるように伏せたリドリーの耳に、圧力を感じるほどの轟音が襲いかかる。


 自分の悲鳴さえ聞こえない。しかし痛みも熱も感じない。そっと目を開いたリドリーは、自分を避けてゆく砂埃と風を見た。ややあって足元まで十数イベル、自分の腕の手のひら二つ分くらいしかない場所に、新たな陥没ができていた。


「なに、これ、だって……」


 リドリーは身震いした。

 こんなのは伝説の中や、童話の中でしか起きないことだと思っていた。魔女が空を飛ぶのも、オクセンシェルナの魔女の逸話も、同じように遠い昔の話のはずだ。

 リドリーはその場から逃げ出す。この状況を切り抜けるどんな方法も思いつけない。怖い。


 リドリーはすぐ左手にある部屋に入った。

 そこに脱出口があるなどとは思っていなかった。ただ、目の前の異常事態から逃れたかっただけだった。

 しかし少年は追いかけてくる。


「猫が契約者とは珍しいな、お前は。……ということは、やはりあいつらの仲間だな」


 その言葉から、わけの分からない論理で何かを決め付けられたのだけは理解できた。

 身に覚えのない『仲間』のカテゴリーに入れられて、だから自分が攻撃されそうになっているのだ。見たこともない力で。


「仲間って何よ! あなた一体何なの? 魔法使いだっていうわけ?」


 リドリーが叫ぶように言い返すと、彼は戸惑うように瞳を揺らした。


「何だ? お前もしかして認識できていないのか? 確かに俺の目には……」


 リドリーに答えている途中で、彼の背後で爆発が起こった。襲いかかる風圧にリドリーは吹き飛ばされ、背にしていた窓から外へ放り出された。


 瞬間、窓の下は崖だったことを思い出す。

 同じ窓から、相対していた少年も落ちてくる。


 つま先から頭の天辺まで、一気に寒気が駆け抜けた。

 どうにかしたくてシグリを抱えていない腕を振り回す。でも何も掴めずに空を掻くだけだった。

 恐怖にリドリーは目をきつく閉じる。


「……お母さん!」


 叫んだ後、リドリーは誰かに抱き締められた気がした。

 ほどなく全身を叩きつけられた水の冷たさに、心臓が強く拍動した。全身が硬直する。

 すぐにリドリーは息ができなくなり、意識が混濁した。

 

   ***


 ふと、冷たさが遠ざかった。

 崖の下には川があって、自分はそこに落ちたはずだ。運良く命を落とさず、誰かに川から引き上げてもらえたのだろうか。でも足はまだ冷たい。


 リドリーは目を開いた。

 そこは浅瀬だった。倒れもせず、自分は己の足で立っている。

 両岸は白い砂に覆われていて、木一本、草一掴みすら見あたらない。果てまで続きそうな白い世界の中、川だけが流れている。


 浅瀬では透明な水が流れ、ブーツを履いた足首を柔らかに洗う。しかし深い所では雨後の濁流のように、泥色の渦を巻いていた。


 これは、本当にあの崖の下なのだろうか。

 真っ白な世界に見えるのは、ただ濃い霧がかかっているだけだろうか。なら、霧さえ晴れたら落ちてきたはずの城砦が見えるのか?


 視線を転じたリドリーの目に、懐かしい姿が映る。渦の向こうにある中州に、一人の女性が立っていた。


「……おかあさん?」


 微笑んでいるのは間違いなくリドリーの母親だ。少し癖のある長い髪は、リドリーと同じ亜麻色。瞳の色は澄んだ蒼。最後に別れたときと同じ、茶色の旅行着姿だ。


 リドリーは何も考えずに、母親に向かって走り出した。

 川に踏み込んだところで、すぐに水の流れに足をとられそうになる。とっさに脇に突き出た岩にしがみつき、今度はその岩に引っかかった流木に両手で捕まる。そうしてリドリーはなんとか濁流を渡りきった。


 自分に有る限りの力を振り絞った後だったが、リドリーはよろめく足を叱咤して立ち上がり、母親に抱きついた。


「お母さ……え?」


 抱きしめた相手は、気付けば自分の腕に収まるような小ささになっていた。

 リドリーは腕の中にいる物を見て、息を飲む。


 金の瞳の黒猫だ。

 黒猫はリドリーのジャケットに爪を立て、顔を近づけると彼女の頬をちろりと舐めた。暖かくざらりとした感触の後、舐められた箇所が水でぬぐったように冷えていく。


 冷たい。

 そう思った瞬間、リドリーは我に返った。

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