第二話 七日目の夜
引っ越してからの七日目の晩、午前二時になると、ひゅいひゅいと雅楽のようなもの悲しい笛の音色が響き、目が覚めた。
風もないのに、鎮守の森から木々のざわめきが聞こえ、冷たい空気が耳元を通り過ぎていった。
窓から差し込む月明かりが部屋の中の赤いシミを浮き立たせ、部屋全体は静寂に包まれた。その沈黙が障子に奇怪な影を投げかけ、その影は突然現れ、そしていつの間にか消えていった。
シングルマザーの部屋からは、この上ない薄い壁を通じて子守唄のような声が聞こえてきた。その歌は、何か呪われたような未来を予感させるものだった。
彼女は洗濯物をベランダに干すとき、いつも黒猫にしか見えないぬいぐるみを抱えていた。私が「こんにちは」と声をかけても、返事は戻ることはなかった。赤ん坊の声は聞こえず、その姿は一度も見かけたことがなかった。本当に彼女自身が子守唄を歌っているのだろうか……。しかも、深夜だというのに。
ねんねんころりよ おころりよ
闇に潜む魔物が しのびよる
憎き男の首は どこへ行った
あの川を越えて 橋へ消えた
里の土産は 呪われたもの
でんでん太鼓が響く夜
笙の笛は 死者の呼び声
子猫が起き上がり 裁くのよ
しかし、その声はおぞましく、耳に残る不協和音がきみ悪い響きを奏でていた。毎晩となくおぞましい同じ唄が繰り返され、眠れない夜を過ごしていた。
そして、ついに引っ越してから四十九日目となる夜がやってきた。それは、私にとっても初めて見聞きする、ぞっとするような運命の日となった。前の居住者となる南野剛さんの怪しい死体が沈下橋で発見されたのだ。
突然、大家が黒い服のまま線香を持ちながら私の前に現れて、あたかも亡き人を見送る葬儀に参列した帰りのように告げてきた。
「あの男、亡くなっていたのよ」
その言葉の後に、「ざまあみやがれ」と微かなささやきが聞こえた気がして、私は自分の耳を疑った。
そして、この世のものとは思えない話をしてきた。蛍火のさまよう沈下橋の陰に首だけが吊られていた。橋の上では太鼓がでんでんと轟いて、
松明や高灯篭を持つ狐が先導し、続いて狸がのぼり旗を持ち葬列を囲んだ。黒猫は
南野さんは部屋の中から何かを覗き見て呪われ、命を奪われたのだろうか。それとも、子守唄の声に取り憑かれたのだろうか……。いや、大家が言っていた通り、サラ金の蛆虫どもに喰われたのかもしれない。いくらそうでも、信じられない話ばかりだった。
私は、調べられるだけの資料を集めた。
大岩間の地では、遥か昔から「野辺送り」という風習が時代を越えて続いていた。それは、故人の遺体を自宅で執り行う葬儀が終わると、近親者たちが
そして、それはかつておくりびとになる近親者にとって「最も大事な儀式」と言う人もいるほど、重要視されたものだったという。
右隣の部屋に住むOLの
その日、彼女の叫びにおののき、窓越しに年老いた霊媒師が訪れて祭壇を設けている部屋の中を覗き見ていた。そこには、南野剛居士と書かれた位牌が置かれている。うす汚れた壁には、「
謎に包まれる魔界に魅入られたように、またネットで調べてみた。
「玄武万鬼」は邪気を追い払って、悪霊を遠ざける力を持ち、「急急如律令」は呪文の効果を速やかに叶えるための言葉だった。
霊媒師は、白い法被を羽織り、その手にはムクロジの木で作られた特殊な数珠がある。スカーフの黒い布で顔を隠しているので、その素性はわからない。
けれど、時おり蝋燭の火が風になびきスカーフをまくり上げ、その顔はドクロに成り代わり、その身体はミイラの姿が垣間見える。そこはかとなく、雰囲気が大家に似ている。
彼女の脇には熊の爪や狼の骨、鯨の頭骨、古銭などがぶら下げてあり、辺りの空気がピンと張りつめる。
これは魔除けの準備なのか、それともすでに憑りついた除霊の始まりなのか。いずれにしても、誰の呪いから身を守ろうとしているのだろうか……。思い浮かぶのはふたりとなる。ひとりは女性、もうひとりは男性だ。
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