大岩間の謎 - 運命のアパート

神崎 小太郎

第一話 呪縛の長屋


「営業三課の野々村舞夢ののむらまいむ。●●●●の理由により、来る四月一日付けで高知支店に異動を命じる」


 オフィスの壁に、懲戒処分通知書が黒塗りのまま、風に揺れてうら寂しそうに掲示されていた。春の伊吹が目と鼻の先に広がる季節なのに、冷たい風が身にしみる。

 自分の身から出た錆となる黒歴史、『社内不倫』の代償とはいえ、突然に会社から地方への異動を命じられてしまった。


 私は、容赦なく世にも恐ろしい物語が伝わる、「大岩間」の地に飛ばされていた。それは島流しのように、もうひとつ私の恥ずかしい歴史を刻むことになっていく。



 大岩間は、最後の清流と言われる四万十川のほとりに佇んでおり、地元の人々からは悠久の闇夜に隠された奥座敷と言われている。


 まずやるべきことは、アパート探しだ。この町には、不動産屋が一軒しかなかったが、駅前の店に立ち寄った。そして、古狸のような店主からイチオシだと紹介された物件に目が留まり、「この長屋ならすぐに契約すれば、敷金礼金はタダ。家賃一万円だ」という胡散臭そうな誘い文句に飛びついた。


 山里の風景は、都会の喧騒から遠く離れ、心を静めるところとして理想的だった。突然の異動命令に戸惑いながらも、大岩間で新たな人々との出会いや、神秘的な自然との触れ合いを楽しみたかった。


 私は、少しだけ怖いもの知らずの女性だ。そこには、安物買いの銭失いの恥ずかしい顔を覗かせていた。


 この山里に足を踏み入れた私は、蜘蛛の巣だらけの古めかしい空き部屋にひとりで住むことになった。それは、私の運命に導かれた出会いだったかもしれない。


 しかし、そのアパートにはどことなく不穏な空気が漂っていた。



 大家の年老いた婦人は、見るからに不思議な雰囲気を漂わせていた。白い法被を羽織り、その手に数珠を握り締めている。鋭い目つきで私をじっと見定めるように、魔界へと案内する。彼女の眼差しには、警告のようなものが宿っていた。


「野々村さんでしたね。不動産屋が教えてくれましたから。きちんと聞いてください。前の住人、南野さんが不可解なものを目撃したらしいの。夜ごとに、幽霊のような影が脅かしたとか……」


「本当ですか?」


 私は、ドキッとして言葉に詰まった。


「うそうそ、心配しないで。あの男、ただサラ金から夜逃げしただけだから。はい、これあなたの部屋のカギ」


「大家さんたら、驚かさないでください。もう人が悪いんだから」


 けれど、どこからともなく忌まわしい呟きが届いてきた。「家賃だけ置いて、とっとと死ねばよかったのに……」と。


 私は、得たいの知れない不安に駆られて、はっと息を止めた。でも、幽霊なんて。今どきそんな馬鹿げた話があるのだろうか……。


 しかし、私がいくら怖いもの知らずでも、恐ろしいのは間違いない。心はワナワナ、足はガクガクと震えていた。


 大家さんは部屋の中を隅々まで丁寧に案内してくれた。ひと通り見渡すと、確かに不気味だ。白壁には赤いシミが浮かび上がり爪の跡が残る。畳は古びて湿気を帯びている。

 電球や蛍光灯はすべて取り替えたばかりと聞いたのに、怪しくチカチカと点滅する。窓から差し込む光は、部屋全体を薄暗く陰鬱な雰囲気を醸し出す。

 そして、裏庭の先には、鳥居のある鎮守の森が見えて、木立から狸や狐が現れてくる気配すら感じられる。見れば見るほど、この世のものとは思えない長屋だ。ぞくぞくするような驚きが身体全体を突き抜ける。


 風呂場やトイレの確認が終わり、大家と一緒に寝室へ戻った。彼女は天井の薄汚れた点検口を見上げながら、眉間に皺を寄せて奇妙な話題を口にした。


「あれは、絶対に開けないでね。ネズミのフンが裏にいっぱいあるから」


 その警告にも思える大家の表情に、なんとなくだが、ただならぬ気配を抱いた。もちろんのこと、天井裏などを覗くつもりはなかった。でも、言われてみれば、点検口のそばには手の平のようなシミ跡が残っている。

 ひょっとしたら、誰かが登って……。耳を疑う恐ろしいことを……。


 だけど、家賃一万円だと諦めるしかなかった。今さら八畳一間で風呂とキッチン付きなら文句はいえないだろう。駅にも近いし、契約書に印鑑も押してしまったし。

 ここまで来ては仕方がない。やるだけやってダメなら夜逃げすればよい。あとは野となれ山となれ。「敷金、礼金、タダ」と、自分に言い聞かせた。


「夏になると川のほとりに蛍が舞い降りて、橋げたが消え去る幻想的な景色が広がるの。とても素敵でしょう」


 大家は、不敵な笑みを浮かべながら、聞きたくもない話を続けた。蛍が飛び交うのは綺麗だけど、橋げたが消えてしまうなど聞いたことはない。想像もつかない奇怪な話だ。


「もうひとつあるのよ。しっかりと、覚えといてね。夜になると、川向こうから太鼓の音が聞こえてくるの。でんでんとね……。気にしないですぐに慣れるから」


 えっ、まだあるの……いい加減にして。思わず、心の中で呟いた。


 私の住む部屋の両隣が女性だと聞いて安心したのもつかの間、ふたりとも怪しげな人だった。左隣の麗子れいこさんはシングルマザーで、幼子を抱えているという。彼女はいつも急いで家に帰って、夜遅くまで何かをしているらしい。

 右側には美しいOLの祷叶とうかさんが住んでいるが、彼女もまた現実離れした雰囲気を漂わせているという。


 大家は、今どき前もって告知しないと「事故物件」の法律違反になるからと、まるで秘密を共有するかのように小声で呟いた。

 そして、説明が終わると、ふうとため息をついた。


 この山里やアパートは、想像もつかないそこはかとなく限りなく、どこまでも不思議なことばかりだった。


 明日の早朝、私はこの部屋に引っ越すことになる。ここには、不気味な謎が待ち受けているのかもしれない。それともただの噂に過ぎない都市伝説なのだろうか……。


 けれど、これが私にとっては、避けられない運命の分かれ道となるとは、このときは思いも寄らなかった。


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