最後の刻 Rust Record

鈴ノ木 鈴ノ子

最後の刻 Rust Record


 息を注ぎ込む音が室内に響いていた。

 不規則に触れるモニターに皆が最後が近づいているかもしれないと病室に集まってくれている。妻の奏の手を握っているのは立派な医師になってくれた娘のしずくで、隣には担当医グループの宝田先生が寄り添うように立っていた。

 先ほど慌ただしく今田夫妻がアメリカから駆けつけてくれたことは正直に嬉しい出来事だった。



 5月の初夏の木漏れ日が差し込む公園に夫婦で散歩に出かけていた。娘が一人暮らしを始めて2人で過ごす時間が増えて、失いかけていた会話が戻ってきていた。


「久しぶりに近くの総合公園にでも行かないか?」


 食器を洗いながらリビングで雑誌を読んでいる奏に誘いをかけてみると、驚いた顔をしながらも嬉しそうに笑って頷いてくれる。


「うん、着替えてくる」


 久しぶりに聞いた妻というより、1人の女性としての可愛らしい声に、少し恥ずかしくなりながらも、同じように頷き返すと慌ただしく部屋を出て行く。


「久しぶりだよなぁ」


 子育ては途中から奏に任せっきりになってしまっていた。育児休暇などを使い手伝える範囲で行い、それ以上に自らが第二子の子供になって迷惑をかけない様にしたつもりだが、その結果は聞けていない。

 しずくが小学校を卒業する頃、提出した論文が国際的なジャーナルに掲載され、幼馴染を苦しめた病気の最先端研究で有名なアメリカの大学からお誘いを受けて渡米した。6年ほどを向こうで過ごして、なかなか帰れぬ日々を頑張って支えてくれた奏には感謝しかない。一緒に渡米出来なかったのは奏にも目指している夢があり、その資格の第一歩を歩み出したからだった。帰国しで病院に戻ると、今田先生が入れ違いで渡米して行き、しばらくして自らの体にも癌が見つかったのだった。


『先生、しばらく治療に専念してください。まだ、先生の無理をする刻ではないと思います』


「そうかもしれないね…」


 ヤケになっていた訳ではないとは思うが、完成間近の論文にのめり込みすぎていた、奏としずくの言うことに耳を貸さず、治療を受けながらやっていたが、専門医となった宝田先生から、深刻な顔でそう伝えられた時、過信していた大丈夫から抜け出せたのだった。


 入院して手術を受け放射線治療を続けて、ようやく再発もなく落ち着きを体は取り戻した。体験すると変わるとよく言われるが、その通りだと今は思っている。治療においてあれほど大変だとは考えもつかぬほどで、担当していた患者さんに申し訳ないと思ったほどだった。カルテ指示を出して話をして、の後ろに隠れた部分に気をつけねばと改めて誓った。


 自室に戻りちょうど準備を終える頃、柔らかな声が背中に聞こえてきた。


「あなた、行きましょ」


「その姿、懐かしいね。あ、でも、少し違うかな?」


「あのままじゃ、デザインが若すぎて無理よ、少し手を入れたの」


 若い頃にデートで行ったショッピングモールで、奏と2人で一目惚れして買ったワンピースと黒のカーディガンを羽織った奏は、いつにも増して美しくて思わず見惚れてしまうほどだ。


「なるほど!似合ってるよ」


「ありがと、さ、行きましょ」


 スッと手が伸びてきた手を優しく掴むと、まるで一輪の花ような素敵な微笑みが咲いた。


「なに?」


「綺麗だなって思ってさ」


 じっと見つめてから素直にそう伝えると、花に薄っすらと紅色が混じる。手を離されることはなかったから、嫌がれていないようでホッと一安心だ。

 自宅を連れ立ってでて、川沿いの道を歩いてゆくと、土手に植る桜の木の新緑が陽の光に照らされて美しく眩しい。犬の散歩やウォーキングを楽しむ人々と共に20分ほど歩むと、やがて、総合公園の噴水が見えてきた。


「しずくも大学生よ…。ここで水遊びしていた頃が懐かしいわ」


 水辺に駆け寄り噴水の上がる様を見つめた奏がそう呟く、手を惹かれたまま隣に立って同じものを見つめながら、深く頷くと奏が寄り添ってきた。水遊びをしていた頃はまだ時間に余裕があったのに、刻はいつの間にか加速度的に進んでいて今に至っている。


「懐かしいね」


「覚えてるの?あなた、噴水で転んだわよね」


「ああ、ずぶ濡れになって、最後はしずくと2人で水遊びを楽しんだっけ」


「そうよ、翌日、2人揃って熱を出したわ」


 そうだった。しずくと遊ぶのが楽しくて、色々なことに気が回らず、翌朝、起きてみれば動けないほどの高熱を出して奏に怒られた。


「あの時…なんの音?」


 公園の駐車場の方向からけたたましい音が響いてきた。続いて連続して何かが衝突する音、そして叫び声や怒号が聞こえてくる。それに混じり『助けて!』と訴える金切り声が耳を劈いた。


「行こう」


「うん」


 手を離して全力で公園を声のする方向へ走ってゆく。

 やがて見えてきたのは凄惨な現場だった。

 フロントが電柱にくの字に変形するほどの勢いで衝突している路線バスと反対車線に横転したパトカー、きっと急ブレーキを踏んで玉突き事故を起こした数台の車が目に入る。ただの事故かと思ったが、事態はより悪い方向に傾いていた。


「大人しくしろ!」


「動くな、みなさん危ないから下がってください!」


 制服を真っ赤に染めた警察官2人がそう叫ぶ。取り押さえられている男は意味不明な言葉を叫び狂っていた。


「助けて!子供が!」


「誰か!こっちに手を貸してくれ!」


 車外に投げ出された子供と半狂乱になっている母親、バスから伝え歩きで、または這うように出てくる乗客達、近所の人々が音を聞いて駆けつけてきて、中には看護師や医師もいた。公園前にある田中医院の田中先生が医院を開けてくれて、備蓄されていた救護や医療資材を隣近所の方々と共に駐車場へと広げて応急救護所を作ってくれたおかげもあり、救急車が一台、二台と到着する頃には田中先生や居合わせた医師とともにトリアージを行うことができ、重症度が高い患者さんから医師が同乗したりして、病院へと搬送されてゆく。


「奏、そっちはどう?」


「もう少し、あなた、手伝って」


 発見が遅れて今頃になって担架で運ばれてきた頭部外傷を負い意識の無いが反応があり回復の見込みがあると思われた小学生を救急隊員と共に処置を始めようとして、救護所内にパンパンパンと乾いた音が聞こえた。


「勝手なことをするなぁ!」


 驚いて音と声の方に振り向く、犯人は取り押さえられていたから安心しきっていた。押さえつけられた犯人の先には刃物が落ちていたから、と考えていたが、それは甘い考えだったと気がついた頃には事態は災厄な方向へと傾いてゆく。


「銃を捨てなさい!」


 近くにいた警察官が拳銃を抜いて犯人に向ける。犯人が撃とうとする刹那、警察官の構えていた拳銃から乾いた音が2発放たれると、もう1人の犯人はその場に崩れ落ちて動かなくなった。


「奏?」


 まるでスローモションを見ているようだった。

 咄嗟の音に反応して子供を守るように覆うように被さっていた奏の体が態勢を横に崩して、やがて駐車場の上に転がる。手を伸ばそうとした途端、腹の中から何かが込み上げてきてその場で嘔吐する


 真っ赤な鮮血が真っ黒なアスファルトの上に広がってゆく。直後には呼吸がしずらくなり、やがて胸腹部の痛みが激痛となって広がると、奏と同じように自らの体もまた崩れ落ち、意識が途切れた。


「雪島先生!しっかり!目を開けてください!」


 宝田先生の呼ぶ声が聞こえてくる。

 ああ、きっと病院からドクターカーが出て駆けつけてきてくれたのだろう。薄くしか開かない目を開けると太陽の眩しい光が見えた。


「子供さんは?奏は?」


「今先ほど救急車で搬送されました。先生が…最後です…」


「そうか、よかった」


 片手に違和感があった。

 力の限り上げるが上がっているようには見えず、頭をそちらへと動かしていくと、やがてトリアージタグが目に入ってきた。


 タグについた色は黒、宝田先生の悔やむような表情に申し訳なさと悔しさが募る。だけれど、すぐに意識は水中に沈み込んで溶けていくように定まりを見せなくなってきた。


「奏は助かりそう?」


 上手く声が出ない、リザーバーマスクから酸素が供給されているはずなのに、息苦しさが止まらない。


「大丈夫です。必ず助けますから!」


「うん…立派な判断でした…ありがとう。迷惑かけてごめんね」


「先生、雪島先生!」


 必死の呼びかける叫び声が遠く遠くなってゆく、やがてふっと途切れる。少ししか上がらなかった手がパタンと地面につく感触だけが最後の刻を告げるように分かった気がした。



 奏は闘病生活の末に日常を取り戻してくれた。

 しずくの支えもあり仕事にも復帰して頑張って暮らしていたが、仏壇に花を備えたり、お茶を添えたりした際に、声を押し殺して泣く姿には胸が押し潰されて抱きしめようとする両手は空を切るばかりであった。

 2人で助けたと自負しても良いかもしれない小学生は、無事に助かって今では消防学校で学ぶ学生になっている。


 妻を見守り見つけられなくとも余生を一緒に過ごしたが、悲しいが遂に再び出会う日が訪れた。


「…死亡とさせて頂きます」


 宝田先生の声にしずくがゆっくりと涙をこぼして、その隣に優しそうな男性が支えるようにして寄り添ってくれている。彼ならしずくを任せても安心できるだろう。


『あら、きてくれたの?』


『うん、長いこと1人にしてごめん』


『許さない、勝手に逝ってしまって…』


『本当にごめんなさい』


『でも、許してあげる。きちんと迎えにきてくれた。お姉ちゃんとと思ったけど…やっぱり嫌だった』


『ああ、もう、新しい道を見つけたみたいだよ』


『お姉ちゃんらしいね…。で、待ってくれてたんだ、そばにもいてくれたもんね』


『それくらいしかできないからね…』


『十分だよ。ありがと』


 久しぶりに手を繋ぐ、一輪の花のように素敵な微笑みが目の前に現れたのでしっかりと抱きしめると、奏からも手が伸びてきて我が身をしっかりと包んでくれた。


『最後の刻は一緒だね』


『ああ、最後の刻は一緒だよ』


 私達夫婦は愛しい娘のしずくの頭を幼い頃のようにゆっくりと撫でてから、集まってくれた方に届かないお礼を伝えて、先の見えない光る道をゆっくりと連れ添いながら歩みを進めて行った。

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