第06話 静かな雨の日
たゆたうような水音が響く。
ちゃぷちゃぷちゃぷ、ちゃぽ。
ひんやりした空気の中、屋外の水場から桶一杯分水を汲み上げて、小さな金属カップですくい取る。中で揺れているのはやや濁った水。それがふわりと光ると、驚くほど澄み切った水に変わった。確かな変化を確認してから口をつける。
……うん、美味い。
浄化の魔法がかかったコップ、高かったけど買って良かった。何度もすくって水分を補給しながら、エッケハルトはふうとため息をついた。
昨夜は一晩中苦しみつつトイレと部屋を往復し、うとうとし、気がつくと夜明けを迎えていた。彼の視界の先で、ぱたぱたさらさらと世界が音を立てている。けぶるようなアレクサンドレッタの雨。冬に降る雨は冷たい。かろうじて水場こそ屋根があるが、ここ以外は雨ざらしだ。早く部屋に戻ろう。
本館に通じる扉、廊下、そして自室。順に辿ってきたが、ハドリーが戻る気配はない。朝一度彼の部屋を覗いてみると、なんと空っぽだった。薄情なことに、夜中出かけたらしい。となるとあいつが動き出すのはまた昼だろうか。というか、こんなことばかりしているからあいつは昼から活動するのか?
水分もきちんと取れたし、そろそろ何か食べたいなと思いつつ。いや。まだ元気に動き回れる感じではない。……ふぅ。エッケハルトは気だるげにベッドに倒れ込む。
小さな窓の向こうで雨が降り続いている。
シャルファの城壁は鎮火しただろうか。
まだ燃えているだろうか。
……いや。気が滅入ることは考えないようにしよう。例えば飛竜。あるいは今日中に返事が来るかもしれない。この国の公爵が「援軍を送ります」と言ってくれるかもしれない。そうなれば、原因不明の体調不良でダウンしている場合ではない。
そうだ、どれにせよ一刻も早く元気にならなくては。やることはまだまだある。攻めるにせよ、引くにせよ。
エッケハルトが無機質な天井を見つめていると、
くるる。
小さな「声」が聞こえた。もしや。
バッと飛び起きた彼の耳に、コツコツという硬質な音が聞こえてくる。窓の外だ。慌てて内布を外し、確認する。
飛竜が来た!
その小さな生き物は、窓の隙間からにゅるりと室内に潜り込んできた。なんて賢いんだ、ちゃんと戻ってきてくれた。その足に丸めた羊皮紙がくくられている。外に巻かれた皮こそ雨に濡れてびしょびしょだが……中身は無事。さぁ読むぞ。
「………………ッ、」
震える手で麻紐を
落ち着け。落ち着け。
必死に深呼吸し、くるくると羊皮紙を開ける。
「シャルファ伯国西方援軍代表
エッケハルト・シュタウディンガー様
しかしアティオン公国は現在、そちらの要望を叶えるだけの国力がありません。
大変申し訳ありませんが、貴方の申し出には応えられません。
同胞の危機に馳せ参じられぬせめてもの償いとして、教皇様への陳情はこちらから行います。
シャルファ伯国勢力の今後の健闘を祈ります。
貴方に神の慈悲があらんことを。
アティオン公国公爵
コーデリア・ダヴェンポート」
駄目だった。
その事実がにぶく、じんわりと、エッケハルトの頭に染み渡っていく。
……いや、この展開は予想出来た。東西聖戦は苛烈だ。どの国もいつ
ならばそもそも、必死に隣国に渡ったところで望み薄だった。それでも縋らずにいられなかった。そして、やはり駄目だった。それだけのことだ。
「………………ッ」
ぐしゃり。
思わず羊皮紙を握り潰していると、ふいにエッケハルトの部屋の扉が開いた。ハドリーが帰ってきたようだ。
「おっはよ〜、起きてる? 昨日大丈夫だった?」
ご機嫌な千鳥足。しこたま酒でも飲んできたのか、むっとするほど酒臭い。ついでに女の香臭い。エッケハルトは荒れた今の気分そのまま、鋭く睨みつける。
「寄るな。酒臭い香臭い」
「あら〜〜、エッケちゃんたらご機嫌ナナメなんでちゅか〜〜。俺が居なくて寂しかったぁ?」
だらしない笑顔。やはり酔っている。放っておくと今にもふざけて絡みついてきそうだったので、エッケハルトは先に両手を出して突っぱねつつ。
「……寂しかったよ。ひとりきりだと余計なことばかり考えてしまったからな」
勢いでそんなことを言ってやった。
正直、隣に居られると気になるからと追い出したが、居なかったら居なかったで一人の空間が怖かった。ずっと側に居てもらえば良かった。自分の味方がすぐそばに居ることを感じられたら、あんなに不安にならなかった。
きっと孤独を感じることも無かったのに。
どうせすぐ忘れるだろうと思って戯言を言うと、ハドリーはすっと笑顔を引っ込めた。部屋の片隅に置いておいた、エッケハルトが汲んできた水をぐいと飲んで。彼は正気を取り戻したように落ち着いた声を出した。
「それ、公爵からの返事か」
ハドリーの視線の先には、エッケハルトが握り潰した羊皮紙がある。目ざとい。ならばエッケハルトが黙り込み、不機嫌な理由もわかるだろう。しばしの無言のあと。
「……返事、なんだな。その顔見ればわかる。やっぱ駄目だったろ」
ハドリーは微かな哀れみを含んだ表情で、小さく呟いた。彼からしてもこの結果は妥当だったようだ。ああ、そうだよ。その通りだ。
だがエッケハルトの心はこんなことでは折れない。援軍要請が却下されたなら、次の手を打つだけだ。
手紙で足りないなら直接嘆願しに行く?
この国が頼れないならさらに隣へ行く?
そもそも、他の仲間たちはどうなったんだ。
次の手を打つためには、確かで多様な情報が要る。
エッケハルトは覚悟を決め、ハドリーを強い瞳で見つめた。
「ハドリー、確かにアティオン公爵に向けた救援要請は却下された。なら次だ。次の手を打つために。何か、手っ取り早くシャルファの現在の様子を知る方法はないか? あの日不在だった領主──シャルファ伯国伯爵の現在位置も知りたい。
俺は負けない。一刻も早く、サディークとやらの鼻っ柱をくじいてやりたいんだ」
味方が少なくても。仮にたった1人になっても。
俺は屈しない。
西方の騎士を名乗る者として、ゼウスを信仰する者として、この戦い決して投げ出すものか。
その想いの丈をハドリーにぶつけると、彼は驚いたように瞬きし、小さく口籠った。
「情報……か……。確かに腕のいい情報屋の一人や二人、知ってるけど」
「なら今すぐ教えてくれ」
「けっこうな金取られるぞ? また一日賭けで潰す気か?」
「いいや、それなら馬の防具を売る。現状あれが一番惜しくない」
「おおお……」
金で状況が動くなら、馬の鎧くらい今すぐ売ってやる。どのみちあれは、本格的な騎馬戦が無い限り無用の長物だ。今必要なのがどちらかなんて、火を見るより明らかという奴だ。
「わかった。なら……一旦湯浴みする時間をくれ。ニオイ飛ばすついでにアルコールを抜く。それが終わったら、即用事に付き合うよ。防具屋と情報屋の所へ行こう」
ハドリーはもうエッケハルトの言葉を小馬鹿にしたりしない。ん、と片手を差し出した。
「お前、まだ本調子じゃねぇんだろ。気持ちはわかるけど、あんま無理すんなよ。先はまだ長い。バテない速度で進むんだ」
「ああ」
そうしてエッケハルトは、諸々の支度を整えた彼に支えられて。ゆっくりだが確かに、必要な仕事を一つ一つこなしていった。愛馬から外した防具を売り、ハドリーの顔馴染みと紹介された情報屋に依頼を出す。
未だ止まぬ雨音を聞きながら、じゃらりと金貨を並べて。
真剣な顔でその男を見つめる。
「これで、シャルファの首都が今どうなっているか調べてくれ。出来れば伯爵が今どこに居るかも」
情報屋の男は、どんと積まれたその額とエッケハルトの真剣さに気圧されたようだ。ごくりと唾を飲み、ごくごく小さな声で答えを返した。
「……わかった。数日くれ」
「数日でわかるのか」
「ここまで出してもらって不義理はしねぇ。色々ツテを辿るんだ。任せてくれ」
「そうか。頼んだぞ」
これで、次に繋がる。繋がると信じるんだ。エッケハルトは再びハドリーに支えられて、よろよろと宿に帰った。
「全く、お前ホント無鉄砲だよな……。外套びっしょびしょ。熱はどうなった? 今日はもう大人しく休んどけよ」
「わかった…………」
宿の自室。呆れたようなハドリーが寝台の端に腰かけ、エッケハルトは大人しく布団の中に収まっていた。ハドリーの手には小さな皿。中には例の白いどろどろが入っている。彼に聞いたところ、これは米という穀物をたっぷりのお湯と調味料で煮て伸ばした、ジャリーッシュという料理らしい。
「ほら、これなら消化にいいだろ。ちっとでいいから食べて元気になれよ」
「……これは、大丈夫か……? 当たらないか……?」
「さてな。だとしても慣れるまで頑張れ」
まるで赤ん坊にするように、甲斐甲斐しく相棒に飯を食べさせるハドリー。そもそもエッケハルトとて、こんな悪天候の日に余計な無理はしないつもりだったが。ハドリーは昨夜から今朝にかけての軽薄さが嘘のように、何くれと世話を焼いてくれた。
窓の外からしとしとと雨音が聞こえる。ハドリーはエッケハルトの隣から離れない。……全く、どんな心境の変化があったやら。
否。きっと彼もようやく、この戦いに本格的に加わる気になったのだ。
例え今は雨が降っていても。
どんな長雨もいつか必ず晴れると信じて。
前に進まねば。
エッケハルトは決意を新たにした。
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