第05話 ひとりきりの夜
シャルファ伯国首都にサディーク軍より奇襲あり。
城門炎上、開門済。救援求む。
シャルファを出て8日。なんとかその日のうちに、夜が来る前に、諸々揃えて手紙を出すことに成功した。小型の翼竜が青紫の空を南へ向かって飛んでいく。小さくなる影を長々見送った二人は、竜の姿が雲に入った辺りで目で追うことを諦めた。
ハドリーがくるりと
「さーて、返事が来るのは早くても明日以降だな。そんじゃ返事が来るまで遊ぶかぁ〜」
「お前まだ遊ぶのか? 呑気だな……」
「焦っても良くない。果報は寝て待て、だ」
そう笑顔で告げるハドリーの足取りは軽い。とりあえず1つ目の大きな目標を果たしたことで、肩の荷が降りた気持ちになったのだろう。もちろんそれはエッケハルトも同じこと。あとはしばらく待機か、と思った瞬間。がくりと膝が折れた。
「おわ?! 大丈夫か」
「悪い……なんか……気が抜けて…………疲れが、」
突然地面に膝を付いたエッケハルトの異変に気づき、少し先を歩いていたハドリーが戻ってくる。支えるようにエッケハルトの両肩に触れて、
「……お前、熱があるぞ」
慌ててエッケハルトの首、そして額へと手を当てたハドリーは、大きく目を見開いた。一方、体調不良と告げられた本人はよくわからない、と言いたげに胡乱げな表情を浮かべている。
「ぇ……? 私は、寒いのだが」
「だから一人称……もういいやこの際。とにかく、辛いなら肩貸すぞ。おぶってやってもいい」
「いやいい…………なんとか、歩けるから」
どうやら、ほっとした瞬間これまで無理した分が一気に体調不良として現れたようだ。それもそうか。故郷から遠く離れた、しかも荒れ果てた砂漠で、何日もろくに休めないまま馬を走らせた。ずっと緊張と心労で心をすり減らしてきた。
一度しっかり休むといい。
神がそう告げてもおかしくはない。
ハドリーは悩んだあげく、エッケハルトの背中に手を当てて歩いてくれた。ゆっくりゆっくり。先程とは打って変わって、そっと歩き続ける。
「……熱以外の体調不良は?」
「そういえば……腹痛と吐き気、がするかも……」
「わかった。今夜の飯はどうする? なんか食べられそうか?」
「食欲は、あまりない……」
「そうか。ならとにかく水分。吐かないようにちょっとずつ飲めよ」
「…………随分、手慣れているな」
あまりにテキパキ処理してくるので、エッケハルトがハドリーを見上げると。彼は存外に柔らかな笑みを浮かべていた。
「ああ、俺長男なんだ。下に弟妹が何人かいてさ。しょっちゅうそういうのの面倒見てたから、慣れてるんだ」
「へぇ…………私は、いや俺は……? 次男で、上に兄が居るから、兄を思い出すよ……。強くて優しい、自慢の兄だ」
「…………そうか」
ゆっくり海岸沿いを歩くうちに、街が本格的に闇に包まれてきた。暗い。潮風が湿って冷たい。明日は雨になるかもしれない。
「エッケ、ほんの少しでいい、急げるか。今夜はやたらに寒い。体調が悪いなら、早く寝るといい」
「そうだな、ありがとう……」
そうこうしているうちに、腹痛が激しくなってきた。早くしないと色々間に合わないかもしれない。エッケハルトはなんとか足を動かし、アレクサンドレッタ二度目の夜を迎える宿屋に辿り着く。鎧を置いた部屋に戻り、ハドリーが燭台に火を灯すと。彼はぎょっとした顔でエッケハルトを見た。
「うわ、ガチで顔色悪いよお前」
「うん…………腹痛い………………」
「水か飯に当たった可能性もあるな。今夜は覚悟しろよ」
「わかった…………」
こんな薄暗い、曖昧な視界でハッキリそうとわかるならかなり重症なんだろう。エッケハルトはなんとか寝台に潜り込み、布団を肩から被った。
滑らかな金髪が寝台に広がる。真っ白な手はあからさまに冷たいのに、身体だけが熱い。恐らくまだ熱が上がる。発熱は長引くだろうか。とろりと濁る思考で、なんとか考える。エッケハルトの視界の中で、ハドリーが心配そうに眉根を寄せている。
「吐き気今どんな感じ? 桶持ってこようか」
「ありがとう……あると、安心する」
「だよな。じゃあちょっと待ってて」
ゆらりと燭台の炎が揺れて、ハドリーが部屋を出ていく。真っ暗な室内で、小さな炎の小さな明かりだけがひっそり輝いている。
(なんか……夜、体調不良の時明かりがこれだけって、ちょっと不安だな…………)
徐々に増す吐き気、腹痛に加えて、体温がぐんぐん上がっていく。くそ、その辺の奴から変な病気をもらったとかじゃないよな。知らない土地に行くとコレが怖いんだよ……。エッケハルトがかつて
どこから持ってきたのか、戻ってきたハドリーによって大きめの木桶が枕元に置かれた。
「これくらいあればだいじょぶそ?」
「ああ……ありがと…………」
なんとか答えを返し、ぼんやり見上げたハドリーの顔は。何故だろう、ほんの少しだけ。かつての兄とダブって見えた。父に似て顔も身体も
「…………にいさま…………?」
小さく声が漏れる。それに気づいたハドリーは、さも可笑しそうに両目を細めた。
「おいおい、幻覚でも見えてんのか。しっかりしろ縁起でもねぇ」
もちろん違う。本人なわけがない。暗闇の中エッケハルトを見下ろすのは、闇を吸い込む黒髪と青みがかった暗色の目の男だ。キリリとした目元は多少似ているが、同じ「凛々しい」でもハドリーは東方民族との混血なのか、若干華奢に思える。岩山のようだった兄とは似ても似つかない。だが。
「…………ッ?」
ふいに、大きな手がエッケハルトの額に乗せられた。そのままゆっくりゆっくり、まるで髪の感触を確かめるかのように頭を撫でていく。エッケハルトは抗えない。しばし黙ってそれを受け入れた。
何故なら、彼を見下ろすハドリーの顔が酷く寂しそうだったから。何かを思い出しているような、噛み締めているような。そんな彼に、触るなとか気持ち悪いとか、とにかく茶化す言葉をかけるのは憚られた。
1秒。2秒。無言の時間が流れる。困惑したエッケハルトがどうしたものかと視線を彷徨わせていると、ようやくハドリーが動いた。困ったように唇の端を上げ、小さく笑みを作っている。
「…………悪い。黙っててくれてありがと」
「……いや。なんか、ツッコミにくいな、って思って」
「うん、えーと」
一瞬言い淀んだ後。ハドリーは意を決したように口を開いた。
「俺の弟。丁度お前と同じくらいの年でさ。生きてたらこれくらいかぁ、こんな感じかぁと思ったら、ついな」
生きてたら。てことは、死んだんだな。
あえて確認はしない。彼の心の傷を抉るような真似はしたくない。
「なんかさ、例えば図体が大きくなっても、憎まれ口を叩きあっても、何かあればこうして寄り添うこともあったかもしれない、って思ったら。感慨深くなった」
「……そうか」
「お前も兄貴が居たんだろ。なんか似てるな俺達」
「…………」
静かに微笑むハドリーを見て。
そうだな、と和やかに返す場面なんだろうとは思ったが、どうしてもそう言えなかった。
兄貴が居たんだろ。
いいや兄は、まだ、死んだと決まったわけではない。から。
ごめん。エッケハルトは唇を噛み、眉間にシワを寄せた。
「おれの兄は、まだ、生きていると信じたい」
「…………」
「絶望的な状況なのはわかっている。こんなのはただの悪あがきだ。むしろ真実に対して、恐らく覚悟を決めておいた方がいいんだろう。
それでも今は……決定的な情報を確認するまでは。夢を、見させてくれ」
「………………。そっか」
エッケハルトの頬を撫でていたハドリーの手がするりと離れる。彼の拒絶で夢から醒めた。そんな仕草だった。
ごめん。俺はお前の弟になれない。
お前とは、違う。違うと思わせてくれ。
エッケハルトが押し黙っていると、ハドリーはすっと立ち上がった。その顔はどんな表情を浮かべているのだろう。もう闇に紛れて確認出来ない。
「……すまん、気分悪くさせたな。まだ家族が生きてると信じたいだろうお前に、縁起悪いこと言っちまって」
「いいや、俺の方こそ。厳しい状況だから、本当は夢なんて見ない方がいいんだろうに。俺の夢を守ってくれてありがとう」
「………………」
「………………」
お互い謝りあって、無言が落ちる。
その重苦しい空気を変えたのは、ハドリーの方だった。
「はぁ、辛気臭い空気って苦手だわ。今夜は楽しく過ごそうと思ってたのに」
「楽しく……?」
「あ? 女に決まってんだろ。お前が元気だったら、俺オススメの店に連れてってやろうと思ってたんだけどな」
「……うわ」
あけすけすぎる遊びの誘い。エッケハルトがあからさまに嫌そうな顔をすると、ハドリーはきょとんと目を丸くした。
「お前、もしかして女に興味ない……?」
「殴るぞ……人並みにある……」
ただ今は腹が痛くてそんなことやってられないだけだ。小さく付け加えると、ハドリーはげらげら笑った。
「あ、ちなみにもし男に興味があるなら、そっちも紹介出来るからな。好みがあればバンバン言ってくれよ」
「はぁ? 男? 最悪だ……絶対要らん」
「え、あ、そう。そんなに拒絶するとは」
男娼。話には聞いたことがあるが、世話になりたいと思ったことがない。エッケハルトはあくまで女にしか興味がないので、そっちの店は断固お断りだ。そういう意思を込めつつ彼が黙ると、ハドリーが動いた。椅子を持ってきてベッドの隣にドンと座る。
「まぁいーや。今夜はもうお前動けそうもないし、諦めるか。とりあえず俺のことはいい。体調整えるのに専念しろ」
「………………」
それからしばし。ハドリーはずっと側に居てくれたが、どうにも居心地悪い。何度も寝返りを打つエッケハルトの様子に、ハドリーが恐る恐る声をかけてくる。
「……え、寝れない? もしかして俺邪魔?」
「…………そうかもしれない。悪い、やっぱ一人がいい」
「わかった」
ハドリーが答えて、しばしの間のあと扉が開き、閉まる。
ちりちりと燭台の蝋燭が燃える微かな音だけが聞こえる。
静寂の到来。
ひとりきり。
そう認識すると、ふいに悪い想像ばかり浮かんできた。無事だろうか。やはりもう駄目なのか。虐殺か。捕縛されたか。追放か。あるいは最悪拷問死だろうか。父様、兄様……。
不安になって、胸元からネックレスに繋いだ金の十字架を取り出した。それをきつく握りしめ、1人ベッドに横たわる。
生きていて欲しい。
どうかどうか。
真っ暗な闇が、彼の世界を支配している。
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