その前の記録
「その前」の記録1
私、高橋明希という存在を見てほしかった、愛してほしかった人生だった。
私が生まれた年、恐らく初めて六月に休みが生まれた。何度も何度も母が言っていたことを考えるに、母は今の皇太子妃に憧れていた節があったのだと思う。それよりも衝撃を受けたという方が近いのかもしれない。彼女はハーバード大を卒業後、外交官として活躍し皇室に入ったのだから最早雲の上の人という感覚であっただろう。だから母は私と妹に完璧を望んだ。教育方針として学校教育に期待していなかった。だから高校まで安い公立に通い、それ以外は家庭教師と顔を突き合わせる日々だった。
私は学校ではひたすら「優等生」であることを演じたし、実際そうだったと思う。部長、学級委員長やら生徒会長に全て自ら手を挙げた。何かやらなければいけないことがあればそれを遂行し、何かがあれば私が責任を負った。私が知らないことでも、私がしなくても良いことでもそれをすることが役目だと思っていた。そして誰に対しても優しく接していた。それも八方美人として言われないように。
親からは絶対に恋愛しないように、と厳命されていた。理由は単純に勉強の効率が下がるからだ。私には結構誰かを傷つけない、事に長けていた。中学から高校まで妹を使ったり、直接告白したりした人もたくさんいたが、ちゃんと断った。相手の傷つかない範囲を観察し、それ以上の話は躱していた。
特に思春期に入ればクラスの中でも下ネタだとか誰々が好きだ、という話題が持たれるようになっていた。本当は私だってそれに混ざりたかった。自分の性的なものへの芽生えはいつからだったか、多分そういったところは他の人と変わらなかった、と思う。その欲求そのものは何も恥ずかしいことじゃないと保健の教科書では言っていたのに、現実はかなり違かったのだ、と思う。その会話に混じろうと思えば「え、学級委員長なのに興味があるの?」と言われるから、私はそれに無知で無関心を貫かなければならなかった。
私はその「学級委員長」とか「部長」としてでしか接されないことが物凄く嫌いだった。学級委員長という看板を背負った「私」にしか興味がない、ように思ってしまう。
だからだろうか、私は孤独だった。いつも周りには人がいた。けれどもそれは多分、委員長だとか会長として、何かを頼るために接してきた人間だ。だから皮を剝き続ければいずれ出てくるタマネギの芯のような「私」と話してくれる人はいないのだ。
私はクラスの会話を少しずつ拾いながらとある情報を集めた。スマホはほぼ子どもケータイのようなもので、ネットを閲覧することはほぼできなかった。もちろん親に頼めば見せてもらえるが、それでも「自慰」というものはどうしようもなかった。
初めての自慰はそれからしばらくした時にようやくできた。最初は気持ちよい、というより変にムズムズするようなものだったが、一か月もすれば時のごとく「慰められる」ようになっていた。けれどもいつも家庭教師がいるから自慰は週に一回できるかどうかだった。
修学旅行は関西だった。そこでも私は例のごとく「……長」としての働きしか見られていなかったように思う。そのホテルの中、私以外の班員はトランプをしていた。
「罰ゲームで好きな人の名前―。良いでしょ?」
「やろやろ」
その中私は一人で本を読んでいた。その時好きな人はいなかった。けれどもそういう話自体、私は嫌いじゃなかったし、むしろ好きな方だった。けれど班員、いや私と学校で関わるようなほぼ全ての人がタマネギの最初に捨てるような部分だけでしか私を見ていなかった。それが私の孤独を一層強めていた。
勉強だけは良かった。良くなければ話にならない、と言えばそうではあるのだが。中学が終わるころにはもうセンターが受けられる程度には。だからほとんどその対策をせずに高校に上がった。高校に上がるとき、少しだけそれに期待していた。もしかしたら私の芯の部分、そこを理解してくれる人がいるのかもしれない、と。
けれど結局は良くも悪くも何も変わらなかった。家庭教師は相変わらずついて回るし、私はその会話に混ざることもできす、ただ「長」に甘んじていた。
私は男になりたかった。その高校にいた男子の中で成績トップだった人が昼休み中普通に下ネタ入り混じる会話をしていた。それにひどく衝撃を受けた。ああ、成績とかの看板を持っててもそういう話を普通にしても良かったんだ、と。けれど今まで厚みを増し続けてきた看板というのが私を苦しめた。もうイメチェン、とかそういう話でも無かった。もう二度と私がその性的欲求を示すことはできない、と半ば諦めていた。
親は多分私たちのことを愛してはくれなかった。人間というよりお人形で、それをいくら着飾れるか、ということにしか興味が無かったのだと思う。だからあの親の元から離れたかったのだと思う。初めて何かのために努力しようと思えた。
私は私立のとある大学に現役で入った。自分は多少なりとも頭がいい方だとは思っていたがそれでもこの大学には自分と同じレベルなんてごまんといる。だからこそここがとても気持ちがよかった。これまでの私を知らない友人もできた。その人が「芯」に辿り着くわけではなかったが、それでも今まで接してきた人よりはるかに心地の良い関係だった。
ある夜、友人は私を海へと連れて行ってくれた。
「ここは初めて?」
「うん」
海は月夜に照らされ、街の光も美しく反射していた。涼しい風が私と友人の間を抜け、しばらくその場に立ち尽くしていた。いつか妹を連れて見せてあげたい、そう思った。
友人は振り向き、
「ねえ、この足でホスト行ってみない?」
なんて言い始めた。私は最初吹き出してしまったが、もうお互い酒を飲める年齢ではあったし、その場のノリ、というのもあって歌舞伎町へ向かうことにした。
歌舞伎町は初めてだったから、その威容に思わず声が漏れた。
「これが日本?」
「バチカンじゃないんだから」
友人は慣れているからだろうか、特にその姿を形容することなどなく早足でその景色の中を抜けていた。でも本当に感動したのだ。ここは自由、ここは素晴らしいほどに自由、私が求めていた世界がここにあるような気がした。
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