「その後」の記録C

 姉が自殺した。幸い私は夏季休暇で、喪に服すため実家へ帰省した。

 父と母は会話中一度も姉の話題を持ち出すことは無かったのだ。普段通りの生活で、弔問客に対しては哀しみの表情を見せたが、家族だけの時間になればただ普通の表情を私に見せていた。


 姉はシスコンの気があったように思う。だから姉妹ケンカらしいケンカをしたことはない。それは私が大学に入っても同じだった。姉も私も学校は違えど都内の大学で、一緒に住んでいなかったがご飯を食べることも多かった。

 そんな姉が自殺した。それに追い打ちをかけるように姉が風俗業をしていた、と報道されたのだ。それ自体は知っていた。姉は私になんでも話していたから。けれどもその理由だけは話してくれなかった。だから私の記憶の断片を繋ぐだけでは、ただ姉が突然大学を辞め風俗に転身し、そして自殺した、それしか分からない。


 ただ姉には男がいた――、それを私は何年前だろうか、私が東京に来てすぐの食事中に聞いたことがあった。

「私さ、初めて恋人ができたんだ」

「へー」

 その時私は姉の恋バナに興味が無かった。その時には私はもう彼氏がいたし、むしろ遅いな、と思っていた。

 姉はやはり美貌だった。中学や高校時代、姉にお近づきになるために私を伝書鳩扱いする男もいた。無論全員断っていたが、それでも断り方にはかなり配慮はしていた。姉はとても優しい人だった。どんな人に対してもまず怒らせることはしない。ただ、相手が傷つかない「妥当」な線引きをしていたように思う。実のところ姉は孤独だったのではないか、と思う。だから、その孤独を埋めるために恋人へと走った。恋人へ最大限の愛を与えて、それを同じように受けられると信じていたのかもしれない、そう考えた。


 なぜか両親は姉の自殺に対して哀しむという表情を出さなかった。それが平静を保つという意味だけなら自室に戻れば涙に暮れるものだろう。ただ、盗み聞きから聞こえたのは姉への憎悪だ。

「子どもが自殺したなんてどう出世に影響するのか分かっての自殺か? しかも穢れた仕事だろ? いい加減にしろ、という話だ」

「そうよ。いったいどこで間違えたのかしらね」

 両親はその部屋でひたすら呪詛とも呼べるような愚痴を放っていた。その姿はもはや狂気とも呼べるようなものがあった。私はその時急に背筋が凍るような気がするのだった。この家には「愛」が無い。自分の子どもの自殺を侮辱する親が果たしているのだろうか。少なくとも健全な家庭環境ではない、そう思った。一瞬骸骨が並べられたかのように美しい白い壁の廊下を私は歩いていく。


 私は大学に戻った。百万石の栄華を伝える門ではないが、やはり威厳の残るキャンパスのカフェテリア、私はとある友人と会う約束をした。

「それで、相談って?」

「いや、ね、ほら……」

 私はその後の言葉に詰まってしまった。私は「孤独な人間が特定の人を愛しすぎてしまい、その人のために風俗に転身することはあるのか」、「その愛した人に裏切られたら自殺するのか」、それを聞きたかった。けれども私はその「風俗」という言葉に詰まってしまった。幸い大学にいる人からその自殺した人が私の家族だとバレていない。なぜなら私はTから始まる有名な名字で、別人だと思われてもおかしくないからだ。それでも私はその言葉に詰まってしまった。その時私は気づく。本当は私も両親も同じで、姉を心のどこかで否定していた、ということに。

「大丈夫? 顔色悪いよ?」

「あ、ああ……。ごめん」

 私は言葉を幾分選んで友人にその質問をした。友人は心理学を専攻している学内でも珍しい人だった。だから何か良い回答が得られる、と思った。


 友人はしばらく考える素振りを見せた。先ほどまでずっと集中したせいで最近流行り始めたシティホップのメロディが流れていたことに気づけなかった。

「まあ……あるとは思うよ。でもね、私も色々勉強してから分かったけど、人の心なんてどこまでも分からないんだよ。結局浅いところまでしか分からない」

「申し訳ないね」

「いや、要領を得なくてごめん。でもそういう人は確かにいるよ。私は恋愛専門家じゃないけど、でもそうやってお水をしている人はきっといるよ。この人とかもきっとそういう類なんだと思う」

 友人は一見邪魔そうなチャームを揺らしながら画面を触っていた。その画面には姉の自殺報道が映されていた。私の鼓動はまるで心臓が外にでも付いているかのように鳴っていた。友人に話す時私は多少のフェイクを入れていた。それがきっと暴かれてしまうだろう。それであれば私はごまかさない。姉の人生を全て否定しない、と決めたから。

「この人……。もともと優等生だったそうだし、だから多分そういう感情になる人もいるんだと思う」

「そっか。ありがとう。コーヒー奢るよ」

「いいよ、申し訳ない」


 友人は観葉植物に視線を移し、私は回る、何という名前かは忘れてしまったが三本のプロペラを見つめていた。姉はなぜ自殺したのか、結局のところ人の心は分類できないという事実が私を無残にも切り刻む。

 自殺という物自体何も意味がない。ただの死因だ。だからこそ警察だってそう断定したら、殺人でなければそれ以上民事不介入、というわけではないが触れようとはしない。それも当然だ。自殺は平均すれば一日五〇人少しだ、さほど不思議なことじゃない。それにいちいち突っ込んでいては警察も機能不全に陥るだろう。だから自殺、とただ処理される。別に自殺の真相をもっと調べてくれ、と警察に訴えようと思っているわけではない。ただその真相を知らなければこれから先私はどうやって生きればいいのか、それが分からなかった。

 自殺したついその前日の夜も、私は姉と食事をしていた。

「大学はどう?」

「もう夏休み入ってるよ。お姉さんはお仕事大丈夫そう?」

「なんとかやってられてるよ。相変わらずキモい客もいるよ。仕事終われば説教するやつもいるし」

「それは単純にキモい」

 私は姉の言ったことに笑ってしまった。感謝すべきはどっちだ、と。

「これこれ。彼氏から貰ったんだー。ネックレス」

 姉は私に真珠ではないと思うが――、それなりに高そうなネックレスを私に見せた。

「可愛いじゃん」

「でしょー?」

 姉はその時笑っていた。私のような不純な笑いでなく、純粋な。正直あの姿からどう姉は自殺してしまったのか、それが全く分からないのだ。もしかしたら理解できなくてもいいのかもしれない。心理学を専攻する人でさえ、心の奥まで分からない。メンタリストも脳をハックできるとかそんな人も占い師も人間の誰でも持っているようなアーキタイプを言っているだけなのだ。だからもういいんだ、そう思った。


 私が初めて東京に来た日、まだ姉は在学しているはずだった――姉は私を東京湾へと連れて行ってくれた。東京湾は静かな音を立て、街の光が海に投影されている。

「綺麗」

「でしょ? 私も友達が連れてくれたんだよね」

 あの時姉は笑っていた。楽しげな眼をしていた。私のことを愛してくれていた。それだけがきっと真実だ。だからそれを信じればいい。もしかしたら姉には私の知らない面があったのかもしれない。けれども私に見せたあの眼と表情が嘘だ、と私は断じることはきっとできないし、しようとも思わない。だから、それでいい。

 バイトの後、私は姉に連れて行ってくれた海へと歩いていた。今晩も海は風になびいていた。人が死のうが死ぬまいが海は変わらない。見る人の受け止め方が違うだけだ。

「綺麗」

 私はあの日のように呟いた。本当に美しく見えた。辛い記憶を全て吹っ飛ばすほど、美しい海だった。これ以上言ってしまえば安く思えてしまうほど、美しい海だった。

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