3
雀の声を聞いて今が夜ではないことを
照明が消えた部屋はただただ暗い。マンションの廊下に響く黒い影の
黒い子供の影が部屋の前まで来ている――もう外には出られない。咲弥花はずっと部屋の隅でうずくまっていた。スマホが振動音を発した時もあったが、壁に投げつけてからはこの部屋で音を発するものはない。
屋外もしんと静まった頃、喉の渇きを覚えた咲弥花は顔を上げた。目の前のローテーブルに飲みかけのペットボトルがぼんやりと見える。手を伸ばすと思いの外体力が落ちていたのか
乗っていたペットボトルやチラシがフローリングに散らばる。その中の1つに目が止まった。それは
「――ああ」
絵馬を見た瞬間、咲弥花はあの神社のことを思い出した。
縁切榎――悩み事や困り事などの悪縁を断ってくれるという、榎を御神木とする大六天神。
その名前をネットで見つけたのはゴールデンウィーク中のこと。
きっかけも思い出せない些細なことで喧嘩をしてしまった咲弥花は、姉に言い負かされた鬱憤を晴らすために「縁切り」というキーワードでネット検索をしていた。
最初は軽い気持ちだったが、幾つかページを読んでいくうちに縁切り神社が全国にあることが分かった。更に調べてみると通学区間を途中下車すればすぐに行けるような場所に縁切榎があった。
榎が「縁切り」として祀られるようになったのは江戸時代の頃、武家屋敷にあったこの榎の下を花嫁が通ると必ず不縁になる、と噂が広がり信仰の対象となった。当時は茶屋の子供にお願いして榎の樹皮を手に入れ、それを煎じたものを縁を切りたい相手に知られないように飲ませた。「縁を切りたがっている」と周囲に知られると成就しないからだそうだ。現代では絵馬に詳細を書いて奉納するだけでいいらしい。
ちょっとした悪戯心が咲弥花の中で囁いた。そして好奇心がそれを後押しした。見れば気分が晴れるかもしれないし――そう言い訳をしながら縁切榎へと足を運んでしまった。
しかし、突然爆発した感情は時間と共に急速に萎む。先走った感情にようやく理性が追いついたからだ。なので、実際に神社を目の当たりにした時にはその小ささに気が抜けたし、絵馬を買ってみたものの使う気にはなれなかった。
物心ついた頃から、姉はおっとりした顔のまま上から目線で正論を言う。それが咲弥花の神経を逆なでする。口も聞きたくないし顔も見たくなくなる。それが嫌だとなぜ分かってくれないのか――しかしそれは、何も言わなくて自分のことを分かって欲しいと甘えているだけ。どれだけ姉を嫌おうが憎くはない、本当はその逆。
改めてそう気づいたのに、縁切榎を見に行ったせいで最後の喧嘩をしてしまい、黒い子供の影が現れたせいで消えてしまった。
――「守る」と言って消えてしまった姉の面影を求めて、咲弥花は部屋を見渡した。
玄関がすぐに見えるワンルーム、テレビはなく、シングルベッドとローテーブルと木製のチェストだけが薄暗がりの中に存在している。チェストの天板には姉と撮った写真が飾られていた。
咲弥花はよろよろと立ち上がると写真立てに手を伸ばそうとした。その時、
……ペタ……ペタ……。
軽い跫音が外の廊下に響いた。刹那、咲弥花の体が硬直する。黒い子供の影――咲弥花の呼吸が速くなった。
咲弥花は音の先を凝視する。薄闇に溶けこんでいた玄関ドアの輪郭が徐々に露わとなり……ペタ……跫音と重なった。
ドアノブが鈍く光り、下に向かって半円形を描く。無音でドアが開くと縦長の隙間が広がっていく。
ずるり――隙間から唐突に滑り出る異様に大きな頭。
咲弥花の呼吸が止まる。這い出た小さな手が隙間をこじ開ける。壁を伝って入り込んだ黒い影は、細い体に巨頭を乗せた黒い子供の形へと変化した。
「――――!!」
心臓が激しく脈打つ、息がしたいのに呼吸ができない。
……ペタ……黒い子供がキッチンを抜ける……ペタ……顔は闇色で覆われ何も見えない……ペタ……黒い子供は咲弥花の前に立った。
見上げることしかできない咲弥花の顔面に枯れ枝のような細い腕が伸びる。
「お゛え゛」
黒い子供の手が開く。乾燥した木の欠片が咲弥花の顔に降り注いだ瞬間、
「おねぇちゃん!」
――絞り出した救いを求める声、と……コツ――、
「榎の樹皮を渡すところ、
咲弥花の背後から探し求めていた声。同時に
「縁切りを成就させるには相手に見られちゃいけないんでしょ」
風莉の手を振り払った黒い影は怯えたように体を震わせる。
咲弥花を庇うように風莉が前に出ると、黒い子供は交互にふたりを見た。
「咲弥花との縁は切らせない」風莉が更に一歩踏み出すと、
「お゛え゛ん゛あ゛あ゛い゛ぃ゛ぃ゛……」
何も無い顔から濁った声が漏れ、黒い影の輪郭が大気に溶け出した。そして一瞬にして巨大な頭も細い肢体も霧散してしまった。
咲弥花は声も無くその場にへたり込んだ。
「もう大丈夫だからね、咲弥花」呆然とする咲弥花を風莉が優しく抱きしめる。
「ひとりで不安だったでしょ、怖かったでしょ、よく頑張ったね」
姉の優しい声が耳に流れ込んでくる。幼い頃、よくこうやってくれたことを思い出した。
自分がどんなことをしても最後は必ず受けとめてくれる存在、だから本当は大好きなのだ。
「ゴメンね。ゴメンね、お姉ちゃん。私が変なことお願いしようとしたせいで」
「いいのよ、わたしはちゃんと分かってたから」
「悪いのは私なのにいつもきつく当たってごめんなさい」
風莉は返事の代わりに背中に回していた手に力を込める。それだけで咲弥花は許された気持ちになった。
「――わたしの方こそ許してね」
抱き合うふたりの間に、ぽつりと風莉の言葉が零れる。
「本当は咲弥花が羨ましかったの。思ったことはなんでも口にして、周りにそれが許される。何をやっても咎められないし、なんでも出来ると思ってる」
「お姉ちゃん?」
風莉を見ようとしたが締めつけられて頭が動かせない。
「昔からそうだった。出来ないなんて夢にも思わない。だって、咲弥花にはどこにでも行ける足、どれだけ動いても元気な体があったものね。おんなじ双子だったのにわたしにはなかった」
咲弥花の背筋に冷たいものが走った。先ほどまで温かかった姉の体に熱を奪われる。
「咲弥花の自慢話を、わたしはいつも病院のベッドの上で聞いてるだけ。わたしはいつも笑う振りをしてたけど、本当はそんな話、聞くのも嫌だったの」
自慢話? 違うよ、いつも病院で寂しそうにしてたから笑って欲しかったんだよ――そう言いたいのに体が震えて声にならない。部屋の温度は変わらないのに体の中が凍っていくようだ。
「わたしは病院にいて何も出来ない、それなのに咲弥花はわたしの気持ちなんて知りもしないで外で愉しんでる――羨ましい、あなただけ――狡い、どうしてわたしだけ――憎くてたまらなかった、わたしの妹が――」
姉の声が呪詛のように咲弥花の耳に入り、激しく鼓動する心臓に絡み付いた。手脚の先から感覚が冷たく消えていく。
「やめてっ」最後の力を振り絞って突き飛ばす。
倒れた咲弥花を、立ち上がった風莉が見下ろした。
「やめない」薄く開いた口の端が吊り上がり、目の端と繋がる。
「縁なんて切らせない。死んでも一緒だよ、咲弥花」
……コツ……パキッ、傍らに落ちていた絵馬が2つに割れた。
チェストの上の写真立てには、病室で撮った咲弥花とベッドの上の姉が映っていた。
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