咲弥花さやか風莉かざりが上京したのは3月下旬のこと。同じ大学の同じ学部に合格したことで、両親は姉と一緒ならばと東京での暮らしを許してくれた。

 姉の風莉とは双子だけあってよく似ていた。咲弥花はそれが面白くなく、髪を結い上げて頭の上で丸めていた。肩まで伸びた髪が綺麗だった姉は、おっとりとした雰囲気もあいまって上品な美しさを隠しきれなかったからだ。

「人は見た目で印象が変わるから。咲弥花だって髪を下ろせば可愛くなれるわよ」姉が目尻を笑みで滲ませる。

 そう言って笑っていた風莉が消えたのは、黒い影を見るようになった直後のこと。

 最初に黒い影を見たのは大学の講義が本格的に始まったゴールデンウイークが明けた一週間前。

 灰色の雲が低く垂れ込めた夕方、先を行く学生が大学の校門を通りすぎようとした瞬間、門と人の間に異様に大きな頭をした影がちらついた。それはほんの一瞬のこと、咲弥花は気のせいだと思った。

 しかし、翌日の夕方にも同じ場所で黒い影を見た。

 2日続いたことに咲弥花は漠然とした胸騒ぎを覚えたが、3日目は何も見ることなく校門を出ることができた――が、それは単に、校門では・・・・、に過ぎなかった。

 その日の最寄り駅、薄明かりが照らす地下の改札を抜けた先で、重く湿った空気を感じた。それは通路に連なる柱の間に潜んでいるのだと気づいた瞬間、……ペタ……ペタリ……、跫音あしおとと共に柱の陰から黒い大きな頭が覗いた。

 あ、と声を上げて見直すとそこに黒い影はなかった。

 頭だけが目立つ、ひょろりとした子供のような影。そんな子供にこれまで会ったことはない。体の震えが止まらなかった咲弥花は翌日から使う駅を1つ変えた。



 大学の校門で2回、駅の改札で1回、そして今日はマンション近くの丁字路。子供の影は確実に近づいてきていた。

 帰宅した咲弥花はドアを用心深く施錠すると部屋の照明を付けた。LEDに照らされたワンルームの部屋、真新しいシンクとユニットバスの扉、奥には新品のベッドとチェストとローテーブル。窓は分厚いカーテンに遮られていて外は見えない。

 咲弥花は冷蔵庫からお茶のペットボトルを取り出し一気に飲み干す。ふう、と大きく溜息をつくとようやく落ち着いてきたのが自分でも分かった。

 結い上げた髪をほどきながら部屋に入ると、壁に立てかけてあった姿見に自分が映った。くっきりとした二重まぶた、細くて長い首、肩まで届いた髪、そこに映る顔は姉の風莉にそっくりだった。


   ◇


 ――駅の改札で黒い影を見た次の日、咲弥花は髙山と広野を呼びとめた。それが2日前のこと。いつもなら真っ先に姉に相談していただろうが喧嘩の最中で気まずかったのだ。

 髙山と広野とは同じ講義でたまたま知り合った。話してみるとお互い地方出身だったことから頻繁に言葉を交わすようになったのだが、

「はぁ?」

 いつもなら姉とふたりで来ている学生食堂で、髙山は露骨に嫌な顔をした。広野は微妙な顔をしながら愛想笑いを浮かべる。

「三日も続けて黒い影が『見えた』なんて、なんかあるのかも、かな?」

「ヒロ、いい加減、はっきり言ってあげた方がこの子のためなんだって」

 広野を制止した髙山は咲弥花に向き直る。

「そういうの、やめた方がいいと思うんだけど?」

 咲弥花を睨む髙山の顔はとても冷たい。しかし、彼女が何に対して怒っているのか咲弥花には分からない。いきなりオカルトめいたことを相談して気に障ったのだろうか。

 とにかく謝ろうとする咲弥花に髙山は首を横に振った。

「分かってない――『見えた』とか、いつも1人で誰かと話してるような素振りとか――そうやって人の気を引こうとするの、やめた方がいいって言いたいの」

 気を引きたい? そんなこと考えたこともなかった。ただ、本当に怖くなって話だけでも聞いて欲しかっただけなのに。

 3人の間に沈黙が流れる――と、

「もういい!」髙山が席を立った。

「タカちゃん!」広野は咲弥花に小さく頭を下げるとすぐに髙山の後を追った。

 髙山がなぜ機嫌が悪くなったのか咲弥花には理解できなかった。



 2日前のことを思い出し、今日と重ねる。

 思わせぶりな態度で気を引こうとするなと激怒した髙山は、今日、姉に会ったことはないと呆れた。

 そんなはずはない、4人で講義を受けた時もあったのだ。それなのに髙山と広野からは姉の存在が消えてしまっていた。これも黒い子供の影が関係しているのか。

 肩に掛けていたリュックをベッドに放り投げた咲弥花は、チェストの上の写真立てが倒れていることに気づいた。元に戻しながら、姉が消える前にきちんと話し合っていればよかったと後悔した。


   ◇


 ――姉と最後の喧嘩をしたのは一週間前、咲弥花が夕食当番に間に合わなかったからだ。

「ひとりで出掛けたことを責めてるんじゃないの、ふたりで決めた約束事は守らないといけない、そう言いたいの」

 おっとりとした表情とは裏腹の、鋭い言葉。言うことは正しい、しかし、約束を破った訳ではない。戻ったら夕食を作るつもりだった。それなのに姉がしびれを切らして作ってしまったのだ。これは自分が悪いのか。

 本当は言い返したいが「だったら遅くなるって連絡をくれればいいじゃない。夕食の時間は決まってるのだから」と正論で返されるのは分かっていた。だから咲弥花はこれ見よがしにふて腐れて夕飯も食べずに寝るしかなかった。

 意地を張ってしまうとますます話しかけづらくなる。姉も別に話しかけてこない。

 そのような状態が数日続いていただけに、咲弥花は黒い影について相談できないでいた。しかし、「そんな話で気を引こうとするな」と髙山に吐き捨てられた夜、何も言わずに夕食が用意されていたのを見て、咲弥花の中の緊張の糸が切れた。

 突然、子供のように大声で泣き出した咲弥花を、風莉は両腕で優しく包み込むと、無言で背中を叩いた。「大丈夫、分かってるよ」そう言ってくれたように思え、咲弥花はますます泣いた。

 姉はいつもそうだ、何も聞かなくてもいつも分かっていて、何も言わなくてもいつも許してくれる。常に厳しく、常に優しい姉だから、いつでも嫌いで、いつでも好きだった。

「それは怖かったよね。分かって貰えないのも辛いよね」

 咲弥花が落ち着くまで風莉はずっと抱きしめてくれていた。心地よさと恥ずかしさを感じた咲弥花が顔を離すと、姉のブラウスの胸元には涙と鼻水がべっとりと付着していた。

 ごめん、と手を伸ばすと、風莉はその手を掴んでうっすらと微笑んだ。

「話してくれてありがとう。咲弥花は頑張ったよ。わたしは咲弥花の話、信じるよ」

 その手はとても温かかった。



 咲弥花が見た黒い子供の影について、風莉は「咲弥花がひとりの時に現れるんだと思う」と言った。姉が言うのだからそうなのだろう、咲弥花はなんの疑いもなく信じた。しかし、次に続いた「だからね、わたし、これから少し間、隠れていようと思うの」という言葉は予想外すぎて頭に入ってこなかった。

「そして現れたところを捕まえる。ね? ほんのちょっとの間だから、わたしを信じて。咲弥花はわたしが守るからね」

 固まってしまった咲弥花に、風莉はおっとりとした顔で笑いかけた。それが2日前の夜。

 そして翌日となる昨日の朝、いつの間にか寝てしまっていた咲弥花が目を覚ますと姉の姿が消えていた。不安になった咲弥花はマンションの周辺を捜し回った。大学に行くために使っていた最寄り駅、ふたりでよく買物に行ったスーパー、「私たちの町と変わんないね」と立ち寄っていた小さな公園、思いつくところは全て行ってみたが姉の姿はなかった。

 もしかすると大学に行けば見つけられるかもしれないとすぐに家を出たのが今朝のこと。

 姉が履修している講義を覗いてみたが姿はなく、早めに学生食堂に行ってよく利用する南側のテーブルで人の往来を観察したがここにも現れなかった。

 時間だけが過ぎていき、ますます不安になった咲弥花が最後にすがったのが髙山と広野だったのだが、黒い子供の影のことも、姉が消えたことも信じてもらえなかった。

 全ては一週間前に黒い影が現れたことから始まった。最初は校門で、次に駅で、そして今日はマンションの近くで。黒い子供の影は着実に咲弥花の生活を侵食していった。髙山や広野には奇異な目で見られ、姉は存在を消されようとしている。

 自分の方がおかしいのだろうか? ――咲弥花はローテーブルの前に力なく座ると頭を抱えた。自分以外の誰かに妄想ではないと言ってほしい、そうでないと頭の中がおかしくなりそうだった。

 その時、咲弥花の脳裏に母親の顔が浮かんだ。そうだ、実家に戻ってるかもしれない。

 咲弥花は這うようにしてベッドの上のリュックからスマホを取り出すと、必死に指を動かして母親の携帯に電話した。

 ――トゥルルル、トゥルルル、ガチャッ

「お母さん!」

『…………』

 スピーカーの奥からは何も聞こえない。

 咲弥花は左耳に集中する。ブーン、微かに蛍光灯の振動音だけが聞こえる。しばらくして、

『……コツ……』

 振動音とは明らかに異なる短く響く音……コツ……コツ……徐々に大きくなるにつれ、それは廊下を歩く跫音だと分かった。


 ……コツ……コツ……コツ……。


 更にはっきりと聞こえる跫音に咲弥花は息を飲んだ。手に持っていたスマホがすべり落ちる。その跫音は右耳からも聞こえるのだ・・・・・・・・・・・

 咲弥花は薄暗がりの中に沈む玄関に目を遣る……コツ……廊下を進む音が真っ直ぐに咲弥花の部屋へと向かってくる……コツ……耳を塞ぎたいのにそうすることができない。


 ……コツ。


 跫音が扉の前で止まる。咲弥花は息を潜めて鉄扉を凝視する。心臓が激しく鼓動する。

 コン、コン――玄関ドアがノックされるのを聞いた瞬間、咲弥花は意識を失った。

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