年月

夢を見た。


そんな気がする。朝、起床の末、なぜか泣いていたから。悲しい気持ち、それが涙による脊髄反射か、本当に悲しいと思ったのか、それすら判断できない。涙が流れる。春の暖かさにも関わらず、涙は熱を帯びていた。忘れたから、何がこの涙を呼んだのかわからないけれど、とにかくわからないので、ただ、


「夢を見た。」


としか言えない。


「なに寝ぼけてんの」

「ごめん、今何時?」

「乾燥しているからだよ」

「暑い…。」

「そう、忘れていたんでしょう?タイマーをつけておくべきだったのに」

「暖房のせいか。」

「とりあえず加湿するから顔洗ってきな」

「年だからね。この年になると忘れてしまうのも一つや二つあっても。」

「いいから」


鏡。洗面台。水を流す。洗面行為は急に寒くなるから嫌だが、とりあえずのことで。


「やっぱシャワーの方が良かったな。」


なぜ洗面は冷水で、シャワーは温水になるのか。その決まりはないけど、なぜかずっとそうやってきたから、疑問を抱くこともなかった。今さらなんだ。45年ぶり、なぜ…。


「ご飯冷めちゃうから」

「はいはい。」

「はいは一回だけでいいの」


部屋を二つ借りるのは、経済的ではないという合理性の下で、この生活が始まった。


セミの鳴き声、朝のセミと夜のセミはなぜか鳴き声が違う。そもそもセミは夜に鳴かない?わからない。音を出しているセミと対面したことがない、かもしれない。僕が知っているセミの鳴き声は、本当はセミではなかったかもしれない。この季節、普通鳴いているのはセミという認識の下で、うるさくて止まらない鳴き声を響かせるあいつはつまりセミでござる。という定義が働いたかもしれない。


なぜだ。なぜ…。


「手、止まってるよ」

「はいはい。」


食事を前にして、そもそも意識が食事に入ってなかった。考えの延長、ずっと考えていて、惰性の起床、惰性の移動、惰性の洗面、惰性の食事をして、それは脊髄反射でやっているような。


「いただきました。」

「いただきますよりそっち派なんだ」

「忘れてただけ。どっちもできる人間だったのにね。」

「飯にありがたみを感じることが無くなったってこと?いい年して独り身なわけが毎日のように出てくるんですけど」

「バーカー。相手がある時には言うの。」

「さっき忘れてたくせに、出来ないのを出来るって言う男はもてないのです」


忘れていた。そう、夢も、暖房のタイマーも、いただきますも。


「そういえば、蚊取り線香の季節だね。」

「食後に煙を思い出すのも、おっさんポイント高いよ」

「結構好きなんだ。これ。」

「せっかくならアロマの方がいいのに」

「情趣があるんだから。情趣。」

「おじさん…古き良きも時代錯誤だから…」

「いいだんよ。これで。」


着火バーナーを取り出す。


「ライター持ってないの?」

「吸わないから。」

「意外」

「韓国はね。こういうの使わなくなったから。たまにお寺で嗅いて、しっかりお寺の匂い…」

「たまに出る昔話、それも減点ポイント」

「まあ、若者に共感をかう話じゃなかったか。」

「三十路に若者言ってもさ」

「と言ってもいつだ?90年代?『へえ、90年代にも人が生まれるんだ』と驚いていたよ。僕らは。」

「おっさんだけじゃなくて?」

「ある程度は。腹が減ったら飯をいただく。それが当たり前の世代じゃないか。」

「ストップ、昔話は聞きたくありません」


そうやって何もかも忘れていく。我らは、仕方なく前を向いて歩くしかなくて、昔話を忘れていかなくちゃ困る。好きだった何かは薄れていって、感覚で覚えているが言葉には出せない。


「この匂いが。」

「人が死んだときにも同じ香じゃん」

「懐かしさにまとめて良いものになるから」

「懐かしいものは良いものってより、『あの時は良かったよ』みたいなもんじゃない?」

「そこ、おじさんポイント高いよ。」

「しまった、私までおっさん化されちまうから早く出てって」


懐かしいものは、良いものだ。その時代に置いてきたものがあるから、普段は忘れていても、たまに思い出すくらいの、置いてきたものから香る何かに、浸るのも悪くない。


が、しかし、流石に喉に悪いかも。


「年だな。」

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