海の夜明けから真昼まで ⑤
家で、歌詞に入れる言葉を考えていた。三上先輩にどういうのがいいですかと訊ねたが、『思い浮かんだ言葉でいいの』とだけ言われた。
思い浮かんだ言葉……
いま作っている曲は、ドビュッシーの交響詩『海 第一楽章 海の夜明けから真昼まで』。繊細で緩やかな音で神秘的な夜明けを告げ、次第に壮大なメロディーに変化する様は昼へと移り変わる海を表現する。
『海』や『波』は当然のこと。『夜明け』、『昼』などの言葉を既に他のメンバーも考えているだろう。他の曲だと、バンド名に因んで、青を連想するワードを入れたりもしていた。
考案している最中に父から電話が来た。
「お父さん、どうしたの?やっぱりお休み取れない?」
父も母も多忙だ。母は幾らか融通が利くが、父は難しい。文化祭に二人で来れるのかわからないが、期待しないでくれと以前言われた。
『予定はなんとかなりそうだが、やはり明佳乃を文化祭に連れて行くのはできなくなった』
「突然、どうしたの?なにかあったの?」
『おまえが通っていた音楽教室に、雪乃世さんって子がいただろ』
「うん……」
『その子とは色々あったが、手紙が来ていたらしい』
いまごろになって、父が珠衣から手紙が来ていたことをどうしてしっているのだろう。
『その手紙、おまえが見るまえに明佳乃が隠していた』
「……嘘」
『本当だ。しかも、私が見てない所でそれを毎日読んでは引き裂いてを繰り返している。『おまえの所為で、瑠海がフルートをやめた』と恨み節を言いながら。しかも、細切れになれば、わざわざテープで繋ぎ戻している』
「……」
母の精神状態は、思っていた以上に常軌を逸していた。
『流石にあれを放置しておくわけにはいかず、今日付けで精神病院に入れた。こんな形で、約束を破ってしまった』
「お父さんに非はないよ。それだけ精神が病んでいる人を外に出す訳にはいかないから、仕方がないよ。私、文化祭の準備で忙しいから、連絡はまた今度して」
『……わかった。根は詰めるなよ』
「うん。それじゃあ、また」
『あぁ。またな』
電話を切り、大きく溜め息をする。
改めて母を恐ろしく感じた。あんなのが母親でなければと思うほどに。
「という訳で、手紙がなくなったのは私のお母さんがやったことだったの。ごめんなさい」
あれから、気持ちを落ち着け珠衣に手紙の行方を話し謝った。
電話口に『瑠海は悪くないし、当然だと思う。娘のいじめの原因の相手を憎むのは』と自分が悪いと主張する。
「でも、私のお母さん、心が可笑しくなっているから……」
先日の浦風くんの一件だけでなく、珠衣にも害をなしていた。母はもう、精神が壊れている。
『私が薮下さんにいじめられていた理由、言ったことなかったよね』
珠衣はなにを思ったのか、薮下さんのことを持ち出した。いじめのことなんて忘れたいはずなのに。
『うちの両親、離婚しているの。ママは私が物心付くまえに、外で男作って出て行った』
更には、父子家庭だと告白する。
『小学校のころはなんともなかったけど、中学生から父子家庭を理由にいじめられるようになった。原因になったママのことはいまでも恨んでいるし、若い男と駆け落ちしたから軽蔑している』
躊躇なく母親を悪く言う珠衣を以外に思うが、知らなかった彼女の強さに感服した。母が病んだのには理由があるからと、母を責められない私にはない強さだ。
『いまはいじめられなくなったし、パパとお姉ちゃん、お兄ちゃんはよくしてくれる。だけど、母親という存在その物が憎くて仕方ない時期もあった。実は、いまパパが付き合っている人がいて、来年再婚する話しも出ているの』
「その話し、私にしてもいいの?」
『大丈夫だよ。瑠海だって海の家の裏手で、家のこと話してくれたでしょ。私、その母親になる人のことも最初、よく思えなかった。だけど、優しくて、私がいじめられているって知ったら、弁護士まで紹介してくれた。だから、いまはその人のこと信用しているし、母親になってほしいって思えるようにすらなった。だけど、ママはいまでも嫌い。むしろ、これから母親になる人と比べて見たら、ますます軽蔑した』
珠衣は産みの母への怨嗟と、今後母親になってくれる人の雄大さを語る。
『お母さんを恨むのは、瑠海の自由だよ。でも、自分のことまで嫌わないで。私は最初、優しくしてくれたあの人を拒絶して後悔したし、ママを嫌う自分が醜く思えた。だけど、彼女は母親を嫌うのは悪いことじゃないって言ってくれた。『そんなのは反抗期でよくあることだから、自分を侮蔑することはない』って』
「珠衣……ありがとう。でも、私はお母さんが嫌いなんじゃなくて怖いの。精神が壊れたお母さんが怖くて、もしかしたら私の存在がそうさせていると思えることすらある」
これを言ったのは、珠衣が初めてだ。このまえ浦風くんにまで手をあげかけた母親の姿に、私が原因でこんなにも理性を失ったのではないかと思った。多分、いままで気付かなかっただけで、内心ずっと思っていた。
「珠衣。私、どうすればいいのかな……」
『……瑠海』
それからも、珠衣は私を慰めてくれた。だけど、一向に心は休まらなかった。
しばらくして、ネットニュースで『潟湊明佳乃』の活動休止が報じられた。理由などは載っていないが、精神疾患を患っているのではないかという内容が海外スキャンダルで取り沙汰された。
「あっ、潟湊さんだ」
「あのニュースのあとなのに、平然としてる」
「普通に学校に来て、すごい度胸」
「冷酷無比だから、親がどうなっても興味ないんだよ」
私を軽蔑するような陰口は全部聞こえていた。
クラスの人のほとんどが私を避けているが、コソコソ噂しているのは知っている。汐後さんたちほどではないけど。直接言わず、陰口を言う人たちの方が人間としてどうかしている。
でも、私にはちゃんと味方してくれる人がいる。
「大変だったね」
「お母様のこと、聞きました。なにか困ったことがあれば頼ってください」
「辛酸を嘗めたようだが、レッスンはしっかりしてもらう。だが、無理はするな」
「まぁー、とにかく。元気出せ」
「僕も力になるから」
先輩たちは珠衣のように、労いの言葉をくれる。だが、先日母と邂逅した浦風くんだけは複雑な顔をしていた。
「潟湊。また、同じ個所間違えている」
「すみません」
「おまえの事情は知っているが、演奏にだけは集中しろ。本番で間違いなんて許されないからな」
「はい……」
ここ数日。母のことが頭を過ぎって、バンドの練習に集中できなかった。母の件があるとはいえ、何度も初歩的なミスをしていたから、建昭先輩に注意されてしまう。
家族のことで気を乱した私が悪いのに、「いま、潟湊さんは大変な状況なんです。その辺にしてください」と浦風くんが庇ってくれた。
「建昭、少し厳しすぎるだろ」
「先輩、潟湊さんのお母さんの件、知っていますよね」
「それと演奏は別だ。それを理由に甘くしたって、こいつのためにならない」
「ですが、先輩。もう少し、彼女の気持ちも考えてください」
「建昭、見損なった。こんなかわいい瑠海ちゃんに、あんなことを言うなんて」
なぜだろう?他のバンドメンバーも庇ってくれたのに、浦風くんのときは胸が熱くなった。母から擁護してくれたときの姿と重なり、逞しく思えた。
それからも全員が建昭先輩を非難したが、私が先輩の言い分は当然だと慰撫した。
先輩はいつまでも些細なミスを繰り返していたら、本番で大恥をかくのは私だからと敢えて峻厳に言った。だから、私もコンディションを整えないといけない。
でも、結局今日の演奏はグダグダで、自分でも恥ずかしくなるほど最悪だった。
そのまま帰る気になれなくて、寄り道で入り江に向かえばアイが帰っていた。
「よっ!ただいま!」
「いつの間に
「たったいま。上の連中の話しが無駄に長くて、肩凝った」
天国の上司(?)にぼやきながら、肩をポキポキ鳴らす。普段通りだらしないアイに、縋り付きたい自分がいた。
私はアイの胸に思いっ切り抱き付く。
「どうしたんだ?」
流石にアイも、困った声で聞いてきた。
私は、昨日の父の電話の内容をすべて話した。
母のことだと話した途端、アイは人差し指を顎に当て一言も言わず黙って聞いた。その仕草が先日の父と似ていて、不思議だった。
「俺がいない間、辛い思いをしていたんだな。ごめん」
「いなかったんだから、しょうがないのに」
「いなかった、知らなかったを理由に妹をほっぽいていい訳ないだろ」
もう完全に妹認定されていて、悔しい。
「とはいえ、母親をこのままにするのも、どーだか。せめて、文化祭ライブには来てほしかったな」
アイの言う通り、バンド活動を反対されるまえに一度でいいから、私のありのままを見てほしかった。母のまえで自分らしく演奏できれば、ようやく母の呪縛から解放されると思ったから。
母のことでウジウジしている時点で、解放もなにもないだろうけど、いまとなってはそれも叶わない。いずれ母はロックバンドに加入した私を罵り、最悪完全に見限られる日が来るかもしれない。
いや、母の精神状態が好転しなければ、もう二度と会うこともないかもしれない。母は精神病院に入ったのだから。
「あっ!そうだ!俺にいい考えがある!」
「?」
アイの考えにイヤな予感がしないこともなかったが、一応耳を傾けた。
最近、学校にいると可笑しくなる。
浦風くんのことを目で追ったり、彼の存在に心が騒付きを覚える。
だけど、そんな感情の乱れは、入り江に立ち込める潮を含んだ冷たい夜風に当たれば冷めていく。
「今夜も来たのか?」
「うん」
「あんまり、夜遅くまで出歩くと危ないぞ」
「だって、帰るまえにここに立ち寄らないと、寝付けないの。それに……」
ここの来るのは、感情を落ち着けるためだけじゃない。
「ここなら、お母さんのこと少しは忘れられるから」
「瑠海……」
アイが側にいてくれるだけ、イヤな現実から目を背けられる。そうしていないと、まともに演奏できないから、明日もいい音が出せるように母に対する劣等感もすすぎ落とす。
「少しだけ、フルート貸して」
夜の海を眺めていたら、アイが返事を待たず私のフルートケースから勝手にフルートを取り出した。
その上、吹こうとするものだから、流石にキレそうになった。音楽家にとって、楽器は自分の分身のような存在。触られただけでも腹立たしいのに、演奏するなんて。
やめさせようとしたが、最初の一音に耳にして手が止まった。信じられないほど、柔らかて美しい。どこか懐かしいメロディが入り江に響き渡る。
奏でるは、ドビュッシーの交響詩『海 第一楽章 海の夜明けから真昼まで』。魂までをも揺さぶる戦慄に、心臓が鼓動する。
演奏が終わるとアイは「辛いことなんて、心から音楽を奏でれば忘れるよ。そのあとは、音楽からもらった元気で万事解決だ!」と笑顔で私にフルートを返した。まるで、音楽さえあれば、怖い物知らずだと言うように。
「アイ。フルートできたんだ……」
「まぁー、俺天才だから」
鼻にかけた台詞が癪に障るが、悔しいくらい魅了された。アイのフルート奏者としての腕は確かなものだ。
アイが生きていたら、絶対に世界を代表するフルート奏者になっていたに違いない。
「にしても、随分年季のあるフルートだな」
「これもともとは、お兄さんのフルートだから。もう二十年近くまえに楽器屋で購入したそうだから、確かに古いけど。手入れはしているし、珠衣にも診てもらったけど、ちゃんとメンテナンスしていけばまだまだ使えるって言っていた」
「そっか。よかったな」
そう言うアイは、夜明けどきのような淡く消える笑みを浮かべた。
「形見のフルート大事にして、お兄ちゃんきっと喜んでいるよ」
こんなアイらしからぬ儚い笑みは消え、真昼のような笑顔に元気をもらえた。
「三上先輩、遅くなりましたが、いくつか歌詞のアイデアを書いてきました」
「わぁー!ありがとう!どれどれ……いい感じ!」
「本当ですか?初めてで、拙い言葉しか思い付けなくて……」
「どこが?すごくいいよ!これ!歌詞を考える上で、モデルにした人とかいる?セレクトしたワードからして、そんな気がする」
実を言うと、アイをモデルにした。
アイがいると、静かに凪いでいた感情が騒ぎ出してしまう。それは、静かだった朝の海が昼とともに鼓するよう。
「いますが、内緒です」
「もぉー。瑠海ちゃん、かわいいんだから。さっそくみんなのアイデアまとめるね。要望全部通せないけど、いいのにするから待っていてね」
歌詞のアイデアメモを渡した翌日には新曲が完成した。
三上先輩に徹夜で大変だったのではないかと訊ねたが、「瑠海ちゃんのアイデアがあまりによくて、ハイペースで頑張っちゃった!」と上機嫌だった。
ほかのバンドメンバーも今回の歌詞を偉く気に入って、文化祭ライブへのモチベーションが上がる。
「ここの歌詞は、潟湊さんが考えたやつじゃない?」
浦風くんは、歌詞で私が考えた部分を推測した。ピタリと当たっていて、なぜか心臓がキュッと締め付けられる。
「よくわかったな、浦風。俺は、全然気付けなかった」
「いえ、まぁ。なんとなく……」
「どうした?顔を赤くして。潟湊も」
建昭先輩の指摘で、自身の顔が熱を帯びていると初めて気付いた。慣れない熱に動揺していると……
「建昭、空気読めよ」
「穐葉だけには、空気を読めだなんて言われたくない」
「なんでだ?」
「おまえの方が空気を読まず、変なタイミングで居合わせるから」
「えぇーーー……」
「ですが、いま潟湊さんと浦風さんは、微妙な空気なんです。だから、建昭先輩もお二人の心情は汲み取ってください」
「萠江ちゃんの言う通りだよ‼︎これで瑠海ちゃんと浦風が拗れたらどうするの‼︎」
「まぁまぁ、先輩たち落ち着いてください」
などという会話が聞こえた。あまり浦風くんは聞き取れていない様子。先輩たちも小声で話していたから。
今日ばかりは、自分の聴力が邪魔に思えた。余計に、赤っ恥をかいた気分にさせられたから。
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