海の夜明けから真昼まで ②

入り江には、いつものようにアイがいた。だけど、なぜか翼を広げて飛び立とうとしている。


「アイ、相談したいことがあって来たんだけど」


「悪い、瑠海。これから、一時的に天国に帰るから」


「えっ!そんなこと聞いていないんだけど」


「上半期の活動報告まだしてなくて、上からドヤされたんだ」


「天使ってそんなこともするんだ。でも、それはサボったアイの自業自得なんじゃ――」


「今年は色々忙しくて、忘れてたんだ。仕方ないだろ」


それでも、上半期って三ヶ月は過ぎているよ。いくらなんでも迂闊過ぎる。


「ってわけで、相談は帰ってからするから」


「あっ、ちょっと」


いつになく慌ただしい。いつも私や浦風くんを振り回しているアイがあんなに慌てるなんて、よっぽど上司(?)に怒られるのが嫌なんだ。だったら余計に仕事をちゃんとしたらいいのに。


でも、こんなことならもっと早くに相談に行けばよかった。いまさら後悔したって、どうしようもないけど。


いつアイが帰って来るかわからない以上、浦風くんのことは自分でなんとかするしかなさそうだ。




その日。担任に頼まれて浦風くんと二人、理科の実験道具を準備室まで運んでいた。


『……』


お互いに相手にかける言葉が見つからず、会話が成り立たない。


結局一言もないまま運び終わり、教室に戻ろうとした。


「ここにいたのね」



―ゾッ……―



聞き覚えのある声。一見優しそうだが、私のすべてを否定するような声音。


恐る恐る振り返ると、私が一番会いたくない人物がいた。


「お……お、母さん……」


「校舎が広いから、見つけるのに苦労したんだから」


「どうして、ここに……」


「あなたを連れ戻すからに決まっているでしょ。一緒に家に帰ろ」


イヤだ。帰りたくない。でも、それを言えば、お母さんがなにをするかわからない。


「どうしたの?急に黙って。早く、帰るんだから」


手を掴まれ、引っ張られる。強い力で、私のことなど考えてないのがわかる。


誰かに……アイに助けを求めたくて、辺りをしきりに見回した。アイがいるわけないと、わかっているのに。


目が合ったのは、浦風くん。でも、無関係の彼に助けを求めるつもりなんてないし、特段感情も湧かなかった。強いて言えば、バンドに入るきっかけを作ってくれたのに、たった数ヶ月でやめる罪悪感。


浦風くんとの距離が開き、彼から目を逸らす。


母から逃れることを諦めかけたそのとき。反対の手を誰かに掴まれ、そのまま母から離れた。男子の制服を着た人物が、私と母との間に入る。


「じ、事情はしりませんが、潟湊さんはイヤがっています。帰ってください」


声を聞くまで、浦風くんだって信じられなかった。


「きみ、なんなの。人の家の事情に首を突っ込まないで。これは、私と娘の問題よ」


「すみませんが、聞けません」


「クッ……」


そのとき、母のなにかが切れたのがわかった。


「どきなさい」


「ムリです」


「どけ!」


「絶対にイヤです」


「いい加減に――」


母が手をあげようとした。反射的に目を瞑ってしまうが、しばらくしても浦風くんが叩かれる音は聞こえてこない。


恐る恐る目を開けば、日本にいないはず人物が母の手を止めていた。


「明佳乃、やめなさい。よその子にまで、手をあげるなんて」


「あなた……」


「瑠海、すまない。私が明佳乃を止められなかったばかりに、また同じ思いをさせた。きみもすまない。妻が取り返しのつかないことを」


「いえ。まだ、叩かれていないので」


「そうか。きみ、名前は?」


「う、浦風です」


「浦風くん。娘を守ってくれてありがとう。後日、改めて今回の謝罪に伺う」


そう言って父は母を連れて、その場から去った。


なぜ二人がここにいるのか知らないが、母に会ってから体がこわばってその場に座り込んでしまった。


そんな私を浦風くんは保健室まで連れて行ってくれた。


母とのやり取りを見て、私たち親子の関係が気になるはずなのに、浦風くんはなにも聞いてこない。


その日は授業が終わるまで、ベッドで横になっていた。




放課後、深い海ディープ・ブルーの先輩方がお見舞いに来た。


「瑠海ちゃん、大丈夫?」


「先輩たち、どうしてここに?」


「浦風くんから、潟湊さんが貧血で倒れたと聞かされたんだ」


浦風くん、私のことを気にして貧血ってことにしてくれたんだ。


「まだ、顔色がよくなさそうですが、大丈夫ですか?」


「見舞いに菓子持って来たけど、食うか」


「いまはやめとけ、ベッドに菓子の粉が付く」


このように大勢から心配される経験がないから、戸惑ってしまう。むかしは体調を崩しても、家に家族はいないし、友達もいなかったから。


「まだ、体調悪そうだから、穐葉に家まで送ってもらったら。建昭と早勢は、曲作りで忙しいし」


「でも、穐葉先輩にも都合が――」


「俺は、全然いいぞ」


「本当はこんなあんぽんたんに瑠海ちゃんを任せるなんて、不安なんだけど―—」


「ここぞとばかりに、俺をディスるな!」


「浦風に頼むつもりが、あいつ帰っちゃったから」


「そうですか……」


そういえば、お礼できてなかったな。


「あっ!そうそう。他にも用事があって、歌詞の要望を聴きに来たんだ」


作曲は建昭先輩と早勢先輩の担当だが、作詞はボーカルの三上先輩が作ると聞いた。先輩は、歌詞のアイデアメモを取り出しながら、「曲の方だいぶできたみたいだから、あたしもぼちぼち考えているんだ。でね、毎回メンバーに入れたい言葉とか聞いているの」と楽し気に話す。


「歌うのは三上先輩なのに、私が要望していいんですか?」


「オッケー、オッケー。そんなの気にしないから。みんなで考えた方がいいのができるし」


他の先輩方も頷いていた。


「まぁ、ゆっくりでいいよ。時間あるんだし」


「わかりました」


「それじゃあ穐葉、瑠海ちゃんのことお願いね」


「おーう!」




「三上と建昭は、いつも俺に辛辣なんだ。ひどくない」


「そうですか」


「うちの親も、場を考えろって言うんだけど、場ってなに?」


「時と場合を考えろ的な意味ではないかと……」


「ふーん。でね、このまえ早勢が……」


帰り道、ずっと穐葉先輩が語りかけている。お陰で居心地の悪さはなかったが、大した返事ができず、不快感を与えていないかと案ずる。


「ねぇ。せっかくだから、駄菓子屋でアイス買って食べよ」


なにを思ったのか、唐突にそんな誘いを受けた。


「買い食いなんて……。それに、余計なお金持っていません」


「金なら俺が貸すっていうか、奢り。だったら、いいだろ」


『よくないです』と言いたいが、断るまえに駄菓子屋まで引っ張られた。


「九月だけど、まだ熱いから。アイスがうまいなぁ~」


奢ってもらったアイスは、なぜかいつもよりおいしく感じた。


「このアイス、まえにも食べたことがあるのに、そのときよりおいしいです」


「買い食いって、最高だろ!」


買い食いってことがおいしさに影響しているってこと?それより、誰かに買ってもらったっていうのが重要な気がした。


「少しは顔色よくなったんじゃないか」


「……もしかして、私の体調を気にしてアイスを……」


「体調悪いときはアイス。むかしからの決まりだ」


それは風邪のときは、アイスのようなのど越しのいい物を食べることが多いからなんじゃ……。


「先輩って、私の知り合いに似ています」


「へぇー。どんなところが似てるんだ?」


「明るくて、私を元気付けようとしてくれるところが」


穐葉先輩はアイのようなおふざけはないが、こんな感じでバンド内のムードを上げてくれる。アイと通ずるところがある。


「そいつ、いまいなくて。おちゃらけた性格だから、普段なら清々するんですけど。悩みごとがある上に、今日少し……いや、かなりショックなことがあって、保健室にいた理由も本当はそれで……会いたいなって思っちゃいまして……」


似ている先輩に言ったからって、なんになるんだ。本当に、母のことになると、自分の弱さが浮き彫りになってますますダメになる。


「悩みごとってなに?俺が聞いてやろっか」


「あっ……すみません。相談するつもりはなくて――」


「いいから、話せ。悩みごとだけなら力になれるかもしれないし」


「悩みごとだけ?」


「それは、きっと俺みたいなただの高校の先輩には話せないことなんだろ。話したくないことを無理に聞くのは野暮だから、俺でも背負える軽い荷物なら背負うから、少しだけ手を貸すぜ」


やっぱり、アイと穐葉先輩は違う。アイなら、誰だろうとデリケートな話しにズカズカ入っていった。


三上先輩は穐葉先輩のことを空気が読めないやつだと言っていたが、私はけっこう読めている方だと思う。直身先輩のときは根ほり葉ほり尋ねていたが、少なくともアイよりは相手を配慮している。


だが、軽々しく話せる悩みではない。


「でも、私個人の悩みじゃなくて――」


「なんとなくわかるよ。浦風だろ」


「なんで、知っているんですか?」


「ってか、一年のいじめの件は知っているよ。中学時代、浦風がいじめられていたこともな」


知っていたの。だったら、それで浦風くんは自殺しかけたことも……。


「俺らと浦風が知り合ったのって、中学でいじめられているあいつが不憫でバンドに引き入れたんだ。常日頃、先輩の俺らが絡んでいるから、汐後たちも浦風にあまり手出さなくなったと思ったら、高校では俺らに気付かれないようにコソコソやって、本当にムカ付くよな。浦風も俺らに相談しないで、水臭せえ」


穐葉先輩の言い分は最もだ。まえに親には心配させたくないと言っていたが、親以外で相談できる人がいたんじゃないか。しかも、頼りがいのある先輩が五人も。なのに、一言も相談しないなんて。


「まぁ、早勢は高校でバンドに加入したから、あいつだけ浦風がいじめられていたことしらないし。直身は心配症で、中学のときもあいつが一番気に揉んでいたから。またいじめられるようになったって言えば、二人が動揺すると思って、言えなかったのかもな」


先輩たちにも心配をかけたくないから、誰にも言わないのかな。


でも、既に穐葉先輩が浦風くんのいじめの背景を知っているのなら、あのいじめの詳細は知っておくべきだと判断した。いじめの被害者に私がいたこと、加害者である汐後さんたちを追い出したのが私であることを話す。


話している最中、穐葉先輩もドン引いていた。自分の身を犠牲にしてまで、彼女たちを追いだしたんだから当然だと思う。


でも、話しが終わると先輩は納得した顔をした。


「浦風と潟湊が時々、気まずそうなのはその所為か」


「それも、やっぱり気付いていましたか」


「浦風メンタル劇弱だから、普段から気にかけてんだ。でもまぁ、俺がなんとかしてやる」


「なんとかしてやるって、どうやって?」


「ん-ーー。そりゃあぁ……」


策は、考えてなかったらしい。


「と、とりあえず、バカみたいに騒ぐわ。そうしていたら、ヤなことなんて忘れる」


根拠のない理屈だが、その心理はアイで体験しているから否定できない。


アイスも食べ終わったので、家のまえまで送られた。


いくらか浦風くんの問題は解決の糸口が見えそうで、胸をなで下ろす。少なくとも、手を貸してくれる人が一人はいて心強い。


家に入ると居間では、父が座布団に座っていた。


「帰ったか」


「うん。ただいま」


「……」


父は無言を貫く。毎回私たちはこの程度の会話で終わっているが、今日は母のこともある上に、どうして家にいるのか疑問だ。


私も座り、父と対面する。


「いつの間に日本に来たの?仕事でしばらく、フランスだったんじゃなかった?」


「……明佳乃が勝手に日本に行ったと知って、急遽帰国した」


「そうだったんだ」


「あぁ。また、辛い思いをさせた。すまない」


初めて母の私への教育方針を知ったときのように、父は陳謝した。


「謝らないで。むしろ、ごめんなさい。仕事があるのに、私の所為で――」


「瑠海は悪くない。悪いのは、あの子に縋る明佳乃と、明佳乃を止められない私だ」


「本当に、あんたは頼りない父親だね」


襖を開け父を罵倒するのは祖母。祖母は基本優しいのに、息子である父と叔父には辛辣だった。


「おばあさん。お父さんを叱らないで、お父さんはなにもしてないから」


「だからだよ。なにもできないから、こうして瑠海ちゃんが傷付いているの」


祖母の言葉に父はただでさえ無愛想な顔を強張らせ、一見すれば小さい子を泣かせてしまいそうな恐ろしい形相だった。


そんな父をまた「娘のまえでなんて顔をしているの!」と罵倒して、頭を軽く丸めた新聞紙で叩く祖母。


「母さんもすまない……」


「……今日は、夕食食べていくんだろ。待っていなさい。直ぐ、作るから」


そう言って祖母は台所に行った。居間には、私と父の二人だけ。静けさが漂う。


まえの家でも父と二人だけのときはこんな感じだから、大して苦ではない。


父の方がしゃべらないことが多いから、父もこの状況になにも感じてないと思う。


「学校は楽しいか?」


「ふぇ……」


父からこのような質問をされたことがなかったので、思わず変な声を出してしまった。


「……楽しくないのか?」


「た、楽しいよ。先輩たちはよくしてくれるから」


「そうか。母さんとはうまくやれているのか?」


「おばあさんも優しいよ。このまえも、夕食にエビフライ作ってくれた」


「おまえはむかしから、エビフライが好きだったからな」


こんな簡素なやりとりがしばらく続いた。受答するも、父の意図がわからない。


すると今度は、「明日、一日空いている。一緒に出かけないか」と言い出した。


「えっ……。でも、お母さんは?そもそも、いまどこにいるの?」


母のことは思い出したくもなかったので言わずにいたが、知らないままどこかで鉢合わせするかもしれないから。


「旅館に滞在している。勝手に抜け出さないように、兄さんの嫁に頼んだから、心配するな」


義理叔母が見張ってくれているようで、一安心する。


「私も、母さんの夕食を食べたら旅館に戻るが、明日十時ごろ迎えに来る。それまでに、準備しておきなさい」


「うん。わかった」


断る理由もなかったので了承したが、父と二人で出かけたことがないから、妙に気恥ずかしい。

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