風と海との対話 ⑦
私に、人間の友達はいない。けれど、むかし唯一友達になれたかもしれない人はいた。
雪乃世
雪乃世さんと知り合ったのは、中学生になって間もなく。
当時の私は、父の機転により母からの執拗なフルート教育からようやく逃れられていた。もう辛いレッスンをやらなくていいという事実に安堵したのも束の間。それまでフルートの演奏しかしてきたことがなく、過度なレッスンから下りると妙な虚無感が生まれた。
フルートに対する感情の消化不良を起こした私は、フルートを続けるべきかやめるべきか考えあぐねた。父はやめたかったらやめてもいいと言ってくれたけど、そうなったらただでさえ精神を病んでいる母が完全に壊れてしまうのは明白だった。
やめるという選択肢を選べない以上、続けるしかない。だが、それほど難しい曲演奏をしても、新しい曲に挑戦をしても、満たされることのない日々を無意味に感じた。
惰性でしかなくなったフルートに終止符が打たれたのは、母のレッスン代わりに通うようになった音楽スクール。母が用意した教師とのマンツーマンレッスンに比べて洗練された教えとはいかなかったが、母とは異なり生徒の自主性を尊重する方針で、のびのびと演奏ができた。
そして雪乃世さんとの出会い。彼女は私より遥かに耳がよく、手先の器用さも相まって、どんな曲でも一度聞けば完璧に演奏できた。
母のレッスンしか受けず、競争相手がいなかった私にとって雪乃世さんという存在はまさしく青天の霹靂。私自身それなりの腕を持っている自覚はあったが、プロの施しを十年以上受けてきた私を軽々と凌駕する天才。
悔しかったけれど、同時に言葉には言い表せない高揚感もあった。勝ちたいと初めて思える人に出会えたから。
そもそも、母の緊密なレッスンに付いて行くことばかりに必死で、兄以外の演奏者を意識したことがなかった。いや、兄だけを意識するようにさせられていた。
だから、同年代の子に興味を持ったことがなく、友人など皆無だった。
初めて
それ以降、習慣でしかなかったレッスンを自主的に行うようになった。義務として始めたフルートを吹いてもなんの感情など起きなかったが、必死に取り組む内に演奏することに意味を見出せた。雪乃世さんに勝つという意味を。
辛い印象しかなかったレッスンも好きになって、結局私にとってフルートは切っても切り離せないものだと思い知らされた。
それだけでなく、私の演奏に個性というものが芽生えた始めた。音楽は精巧を重んじているが、ただ完璧に演奏するだけではCD再生と変わらない、誰かの模倣だ。巧緻を極めつつ、感情や想いを表現することこそが音楽の真意なのだと理解するようになった。このまま自由な音楽ができると思った。
私の中でのフルートを改めさせ、なおかつ
なにより、気さくな彼女には友人が多く、スクールでも一目を置かれた存在だった。無愛想でフルートの腕も劣っている私は眼中にされていないと諦め、せめて同じ土俵に登れるようレッスンに励むことだけに死力を注いだ。
彼女となにかしらの縁が生まれたのはそれから二年後。中学三年時に出場したコンクールで、雪乃世さんと同率で金賞をもらった。金賞をなんどかもらったことはあったが、それは雪乃世さんが出場していない場合で、彼女と一緒のときは決まって銀賞だった。
表彰台での賞状授与を済まし、舞台裏へ下がると雪乃世さんが『瑠海ちゃん』と声をかけてくれた。
『金賞おめでとう。ドビュッシーの『海』すごく素敵だったよ。特に第三楽章の風と海の躍動感を表現できていて。思わず息を呑んじゃった』
『そんなことないです。本当にギリギリで、金賞もまぐれのようなもので―—』
『そんなことない!聴いていて、瑠海ちゃんが本気で金賞を狙っているのがわかったよ!それで、聴いていると楽しくなって、波と遊んでいる気分にさせられた!』
こうして雪乃世さんが話しかけてくれることすら信じられないのに、自身の演奏を賞賛してもらい、言い知れない歓喜で溢れた。
『ありがとうございます』
『同じ年なんだから敬語はいいよ。これからもお互いにがんばろうね!』
差し出された手に、自然と自身の手を重ねてしまった。
『う、うん。がんばろう』
憧れの存在と握手をして、本当の意味で雪乃世さんの
それから、雪乃世さんとは一緒にレッスンをし合う仲になり、彼女は私の悪い点や伸ばすべき所を指摘してくれた。私もお返しとして、お互いの知見のために父の伝手で有名な音楽家のコンサートに彼女を連れて行った。レッスン以外でも交流の機会ができ、傍から見れば友人と言っても差し支えなかっただろう。
だが、雪乃世さんは他者と交流的でありながら、それだけ親しくなった相手でも、人との間に壁を作っているようだった。プライベートはあまり話したがらず、音楽関連以外でも出かけないかと誘っても断られた。それは、私以外の音楽スクールの生徒も例外ではなかった。
私自身、家庭事情やフルートを始めた理由などを知られたくなく、言わないようにしていたため、うしろめたさがあった。そのため、雪乃世さんとの間にある隔たりを越えるようなまねはしなかった。
しかし、あるとき雪乃世さんが必至に隠していた秘密を知ってしまった。
雪乃世さんと親しくなって、初めての冬。あの日は、灰色の雲から雪が深々と降っていた。
『今日から、この音楽スクールに通うことになった
『はい、先生。みなさんもこれからよろしくお願いします』
音楽スクールに編入してきた同学年の女子。私には特にこれといった印象はなかったが、隣にいた雪乃世さんを見ると酷く怯えた表情をしていた。その顔で少なからず薮下さんとは以前から面識があるのだと察した。でも、雪乃世さん以外の同じ年の女の子と会話したことがほぼなく、こういうときになんて声をかけたらいいのかわからなかった。
雪乃世さんに異変が起きたのはそれからだった。音楽スクールでそれなりのコミュニティーを築いていたはずの彼女は、次第に人を避け孤立するようになった。見かけて声をかけても無視されてしまう。
けれど、雪乃世さんの表情からは罪悪感が漂っており、好き好んで人を避けているのではないことは明白だった。しかし、追っても追っても逃げられてしまい、一歩たりとも前進せず。その間、私は高校進学の件で母と揉めた。
雪乃世さんとの交流が途切れ、私も一人寂しくレッスンをする中。雪乃世さんが薮下さんと二人、廊下を歩いているのを目撃した。
このころの雪乃世さんは以前のような朗らかな印象は薄れ暗い影を落としていたが、あのときは普段以上に沈痛な表情をしていた。
気になってこっそり二人のあとをつけた。二人が入ったあまり使われていない倉庫の壁越しに聞き耳を立てる。雪乃世さんほどではないが、私も幼少のころより音楽を嗜んでいるから、聴力には自身があった。
『ほら。金よこしな』
『もう、これ以上は――』
『はっあ!あんたがここではいじめないでくださいって頭下げたから、金で譲歩してんのに。私に逆らう気』
『そんなつもりは――』
『あんたがそのつもりなら、潟湊さんに代わりになってもらおうかな』
『っ!』
『あの子もなんか目障りなのよね。親が有名人だか知らないけど、お高くとまっている感じがして』
『瑠海ちゃんはそんな子じゃない!悪口言わないで!』
『いい子ぶんじゃねーよ!あいつだって、おまえみたいなアホと友達だって思ってねーわ!』
これはもう、雪乃世さんが薮下さんにいじめられているのは明らかだった。いじめの現場に立ち会うなど未経験でどう動けばいいのかわからなかったが、私がこの場に出ても事態が悪化すると思い大人の人を呼びに行った。
事務室に報告すると、先生方は私をこの場に待機させて倉庫に向かった。あとから、薮下さんには叱咤し、スクールへの退会処分も検討するとのことだった。けれど、肝心の雪乃世さんのことは話してくれなかった。彼女があまり話さないでほしいと懇願したそうだ。
その一件から雪乃世さんは音楽スクールに来なくなった。噂で学校の方にも行ってない話しなどが耳に入った。
そして、私は……
『じゃま。どっか行って』
いじめられるようになった。
それまでいじめていた雪乃世さんがいなくなったのは私の所為だと、薮下さんに難癖を付けられたのがきっかけ。いい鴨がいなくなった責任を取れと言われ、雪乃世さんを貶したことに腹を立てた私は彼女と同時出場したコンクールで思い知らせようと圧倒的実力で完封した。雪乃世さんの足元にも及ばない薮下さん以上の結果を出すのは簡単だった。
より感情を害した薮下さんは、コンクールは親に頼んで八百長したのではないかとありもしないことを言った。私はそんなことを言うなら、それなりの実力を付けてからにしなさいと一蹴した。
ますます気に食わない薮下さんは音楽スクールの人たちをたらし込んで、集団で私をいじめてきた。もともと、親がプロの音楽家である私を気に食わない人はいたみたいで、その人たちを中心に仲間に引き入れた。そういう考えの人物は先生方の中にもいたようで、私が苦言を呈しても取り合わず、薮下さんの退会の件もなかったことにした。
いじめに賛同的でない生徒もいたが、断れば私の代わりにいじめると脅し、私を味方する者は完全にいなかった。
親に相談すればよかったのかもしれないが、私がいじめられていると母が知れば、『お兄ちゃんなら、いじめられたりしなかったのに』と言われるのを恐れた。
いじめを放置してやり過ごしていくことを高校入学まで続けた。
高校生になって最初のコンクール直前。それまで見かけなかった雪乃世さんが階段前で薮下さんに迫られていた。
『久しぶりだね。珠衣さん』
『……』
『私、珠衣さんがいなくて寂しかったんだよ』
『私はできれば会いたくなかった』
『じゃあどうしてここに来たの?』
『人伝で瑠海ちゃんが私の代わりにいじめられているって聞いたから』
『へぇー。それじゃあ、珠衣さんも潟湊さんいじめに参加する。そしたらもういじめないであげる』
『そんなことするわけないでしょ。もともとは私がいじめられていたんだから。もう瑠海ちゃんをいじめないでよ』
『それだと、また珠衣さんがいじめられることになるけど、いいの?』
『えぇ。もちろん――』
『雪乃世さん。言うこと聞く必要ないよ』
『瑠海ちゃん!』
『潟湊さん。いたんだ』
『これまで通り、いじめるのは私にしなさい。だから、雪乃世さんは安心してここに通っていいから』
『そんなのダメだよ!これ以上、瑠海ちゃんに辛い思いさせたくない!』
『麗しい友情だこと。でもね、そういういい子ちゃんな振る舞い、目障りなのよ!』
薮下さんは雪乃世さんを突き飛ばそうとした。咄嗟に庇いに出たが、薮下さんの押す力が強すぎて二人一緒に階段から転げ落ちてしまう。
『ちょっと!なんの騒ぎ!』
『雪乃世さん!潟湊さん!大丈夫!』
『これ二人共骨折れてない!』
そのあと、私と雪乃世さんは病院へ連れて行かれた。幸い私は軽い捻挫で、コンクールの出場は辞退せざるを得なかったが、数週間ほどで完治する程度だった。
しかし、雪乃世さんの方は打ち所が悪く、更に押し倒されるときに私がまえに出たため、落下の際彼女を下敷きにしてしまった。特に指先の骨が完全に歪んでしまい、一生フルートを満足に演奏できないと申告された。
怪我人が出るまでいじめを放置していた音楽スクールは私両親や雪乃世さん両親に訴えられ、裁判の結果スクール自体が解体された。
私はその間、怪我の療養のために家に引き籠った……というより、させられた。
両親は私の指が負傷したと知るやいなや、海外公演を中断して日本に戻って来た。久々にあった父は白髪が増え、愁眉を寄せていた。問題は母の方だ。
『なに、雪乃世って子のために怪我なんかするの!コンクールのまえに指を痛めて、フルート奏者としての自覚はあるの!』
心配をするどころか、指の負傷を非難された。
『その子を見放せば、今後はあなたが一番だったのに!他人にかまう暇があるのなら、新しい曲の一つでも覚えなさい!時間はいくらあっても足りないのよ!』
しかも、雪乃世さんのことを貶して。これでは薮下さんと変わらない。
悪態を吐く母を父は宥めるが、自分勝手な母には愛想が尽きた。
私と母の軋轢は治まらなかったが、父が間に入っている間は母も目立ったことはしなかった。しかし、父も母も世界的な音楽家。二人して、長いこと仕事を放棄する訳にもいかない。
どちらか一人が家に残ることになり、父は私を母と二人きりにすることを承服できないでいた。しかし、母が譲らず、父の仕事が立て込んだのもあって、家には私と母だけとなった。
それからが監禁生活の始まりだった。指以外に支障はないため、学校には普通に登校してもいいと医者が言ったにも関わらず、しばらくの間休学させらた。一歩でも外に出ようものなら、手と耳を避けて殴られる日々。
家に閉じ込められている間、雪乃世さんに事態を大きくしてしまった謝罪をしたかったが、母が許すわけもなく。指を動かせない分、大量のクラシックや有名なフルート奏者の曲を聴かされ続けた。
いじめなんて起きなくても、私は一生母に兄の代わりをさせられる。私自身の居場所なんて、初めからなかった。
指が治ったら、以前にも増してレッスンを強制させられるだけ。私は夜中、母の寝ている隙に単身で家を飛び出した。
向かった先は祖母の家。引っ越すまえに一度、私はこの港町に来ていた。夜行バスに飛び乗り数時間。未明に家を訪ねた祖母は酷く驚いていた。
事情を説明している内に、なぜか私は涙が出ていた。必死に堪えていたが、祖母に抱きしめられ我慢できず、慟哭してしまった。大声を上げて泣くのは恐らく幼少期以来だった。
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