風と海との対話 ⑥

今日のお昼は、学校の屋上で祖母お手製のお弁当を食べている。煮物は好きじゃないけど、本日は洋風で鳥胸肉のレモン煮なんて物を詰めてくれた。いつも濃いしょう油味で飽き飽きしていたけれど、こういうさっぱりとした味付けは真夏でも食べやすい。きっと祖母なりの気遣いだ。


レモン風味の鶏肉に舌鼓していると……



―ガチャ……—



屋上の戸が開く音とともに、浦風くんが目に映る。


「隣、いいかな?」


彼の手には購買のビニール袋。今日は惣菜パンかなにかを買ったらしい。


「別にわざわざ許可を取る必要ないので。好きに座ってください」


私の横に座り、袋から惣菜パンを取り出した。


そういえば、こうやって誰かと並ぶのはアイ以外でずっとなかったな。あったとしても、団体演奏くらいで。


でも、一人はいったっけ。結局、あんなことになってしまったけど、雪乃世さんと一緒にいれた時間は楽しかった。だけど、彼女はそう思ってはいないだろう。


ぼんやりとむかしを想起していると、浦風くんがビニール袋を握り締め、それを私に突き出す。袋にはまだなにか入っているようで、黄色いものが透けて見えた。


「これ、この間の焼きそばパンのお礼」


「それはどうも」


中に入っていたのは、購買で争奪率が高いプリン。わざわざあの混雑の中から取って来てくれたらしい。


ふと、一緒に添えられているメモ用紙に気付き、開けてみた。



『どうしても、バンドへの加入を諦められません。

一度、僕たちの演奏を観に来てください。今日の放課後、旧校舎の音楽室で練習しています。』



読み終えると、隣で浦風くんは顔を真っ赤にさせていた。


「とりあえず、考えてはおきます」


私はそそくさと残りのお弁当とプリンを食べ、教室へ戻る。


もらったプリンはとろとろでもう少し味わって食べればよかったと後悔した。




プリンをもらったし、他にも掃除や無罪証明などお世話になっているから、顔だけは出そうと旧校舎の音楽室を目指す。


現在は七月。クーラーのない建物だと、蒸し暑くて、数分いるだけでも干からびてしまいそう。


こんな中で、楽器を演奏する浦風くんを純粋に尊敬したくなる。私はいままで空調設備の利いた場所でしか演習したことがないから。


「勝手なこと言うな!」


音楽室へ近付くと、なにやら激しい物言いが聞こえてきた。


浦風くんが所属するバンド内で、揉めごとでも起きたのかもしれない。面倒なことに巻き込まれたくないから、やっぱり引き返そうとする。


「こっちは正論を言っているだけなんだけど」


しかし、浦風くん以外に聞き覚えのある声がした。もしやと思い、音楽室の廊下窓からこっそり中を覗くと、二グループの対立する集団がいた。


一方は浦風くんと見知らぬ男女数名。もう一方は汐後さん率いる一年の吹奏楽部。


「本校舎の音楽室の修繕工事の間。吹奏楽部がこの教室使うから」


「それはいいとしても、それ以降も私たちには使わせないってのが可笑しいでしょ!」


「別にいいんじゃないの」


「先輩たちとそこの根暗くんは帰宅部なんだから」


「そもそも校則で、旧校舎の利用は申請した部活優先ってことになってるだろ」


「でも、吹奏楽部には本校舎の音楽室があるだろ!修繕のあとそっちはどうするんだ!」


「もちろん使うに決まっているだろ。本校舎は練習用。こっちのボロいのはたむろする用にだ」


「そんなの横暴ですわ!」


「そうだ!それに俺らがいままで使ってきたこの教室を貶しておいて、使うなんて許せねぇ!」


「なんとでも言ったら。部活動でもない先輩たちが旧校舎を使うこと自体許されてないのに」


「くっ……」


「さて、話し合いも決着したし、部活中に食べるお菓子でも買いに行こ」


「せっかくだし、先輩たちに行かせない」


「そうだね。そしたら、先輩たちにも使わせてあげようよ」


「もちろん浦風抜きでな」


「だれがおまえらのいいなりになったり、大事な後輩をハブるかよ!」


「行こう。もうこんな子たちと同じ空気を吸いたくない」


浦風くんたちが教室から出て行く。このままだと鉢合わせるので、隣の教室に隠れた。


とほとほ沈んだ足音が響く。


「ぎゃははははは‼いい気味‼」


「あの根暗、こんなことやってたんだな‼」


「根暗の癖して、バンドなんて似合わな過ぎ」


「言えてる」


壁越しに穢らしい罵詈雑言が聞こえる。


胸糞悪くなるようなその会話を遠ざけるように、旧校舎をあとにした。




やるせない気持ちで入り江に入った。


「アイ、いる?」


「……呼んだ?」


声をかけると、アイの暢気な声が響いた。まえに私の過去を話して珍しく辛気臭くなったが、その次来たときアイは変わらずマイペースだった。弱音を吐いたことも、私の膝で寝入ったことも掘り返さず、なにごともなかったかのようだ。


「どうしたの?そんな辛気臭く顔して?」


いまも、以前の自身の振る舞いを棚に上げて、私が同じ顔をしていたら踏み込んでくる。


「ちょっと、色々あっただけ」


「色々?具体的には?」


ほら。わざわざ藪をつつくように根掘り葉掘り聞き出す。あとから蛇を出てくるとは思わないの?


「そういうデリカシーのないところ改善したら。特に女子はこうしてぼかしたことを追求されるのイヤだから」


「それはそうだけど、俺と瑠海の仲だろ。別にいいじゃん」


「はいはい」


いまは会話する気になれず、ただじーっと海に浸かるアイを見ていた。


「そうだ!ちょっと待ってろ」


唐突にアイは潜り出した。大きな翼がある分、潜る際の水の抵抗力が人間より大きい。反動で繁吹く海水が私の方まで飛んできた。


頭にかかった海水を払いながら待っていると、海面からぶくぶくと泡が立つ。



―バッサン!—



海面に上がり、アイは翼に水漬いた海水を弾く。その動作はこの世のものとは思えないほどに神秘的だった。いや、この世に舞い降りた存在天使であるアイは、存在そのものが神がかっているから、至極当然なのかもしれない。


思わず見惚れていると、アイが近付きなにかを渡してきた。


「たまにここの入り江で見かける巻貝なんだ」


ホネガイだった。白く魚類の骨を思わせるような見た目からそういう名称が付けられている。また、櫛のようにも見えるため、英名で『ヴィーナスの櫛』と呼ばれている。


「耳に当てると波の音がするよ」


耳元にホネガイを添えると耳孔をさざ波が満たす。



―ザザーン。ザー―



目のまえの海の音と同調して、目を瞑れば全身海に沈んでいるような感覚。


「いい音」


「だろ。もっとよくできるんだ。ちょっと貸して」


一旦ホネガイを返すと、アイは自身の翼から一枚の羽根を抜いた。


抜いてもいい物なのかと疑問を抱いたが、藍に染まった羽根をホネガイの表面に押し付ける。普通なら硬い貝の表面に行く手を遮られ、羽根はひしゃげてしまう。しかし、形は歪まず、羽根は吸い込まれるように貝に溶け込んだ。羽根を内包したホネガイの白は藍へと染まり変わっていく。


「それ、どうやったの?」


「そんなのはどうでもいいだろ。とにかく、もう一度聴いて」


再びホネガイを耳に添えると、波の音が聴こえた。ただ、先ほどとは違い、波に規則性が生まれ、旋律を築き上げている。


「これって……ドビュッシーの『海』」


自然の音で作り上げたその曲は、海の中というより、海に溶け込むような……海そのものになっている気にされてしまう。


「天使の羽根には、その羽根の持ち主の記憶や思考を宿すことができる。その羽根に宿った情報は、羽根を取り込ませた物にも作用するんだ」


「そうなんだ」


「更に取り込ませた物の特性なんかが以前よりも強くなったりもする。波の音、さっきよりも強いだろ」


「確かにそうだね」


「だろ。しかも、天使の羽根は時間が経てば色が抜けるが、こうして羽根を取り込んだ物はそのときの羽根の色のままなんだ」


「じゃあ、ずっとこのままなんだ」


素敵だと思った。魔法のような天使彼らの御業に心打たれる。


「よかった」


「え?」


「少しは元気になってくれて」


アイは抜けているようで、割と感情の機微に敏感だった。事実、浦風くんのことで気落ちしていたけれど、ホネガイの音色や神秘的な現象に、若干感情が浮上した。


「瑠海にとっては余計なお世話かもしれないけど、元気がないと俺は心配だな。イヤならムリに聞かないけど、愚痴の一つでも溢せばいくらか気持ちは落ち着くから、話したくなったら言ってくれ。いつでも相談に乗ってやる」


その上、他者の感情のコントロールがうまい。結局は彼のペースに乗せられて、胸襟を開いてしまう。でも、悪い気はしない。


私は浦風くんのこと、汐後さんたちのこと、今日あったできごとを話した。


全て話し終えると……「瑠海はどうしたいんだ?」……


「……どうって――」


「瑠海がいま落ち込んでいるのは、その汐後さんって人たちにイヤな思いをしているからなのもあるだろうけど、自分が上手く立ち回れていないのが大きいんじゃないかな」


アイは確信を突く。


本当はわかっていた。私は、意地汚い汐後さんたちに対してではなく、また似たようなことを繰り返してしまうかもしれない自身に腹が立っていた。


でも、下手に動いて、事態がより悪い方向に行くことを危惧して、行動に移すことを躊躇していた。


「怖がって殻に閉じ篭ったら、ずっと同じままだ。瑠海は俺と違って冷静に物ごとを考えられる。だから、やりようはあるんじゃないのか」


やりようかぁ……

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