風と海との対話 ④

アイとの友人関係は、それからも良好だった。だけど、どうしても腑に落ちないことがある。


私がアイを見ることができる理由だ。


私には、霊感という類いは無縁だ。幼少期、いとこと肝試しにお墓に行ったとき、いとこは幽霊を見たなどと言っていたが、私はまったく感じなかった。それにアイ曰く、生半可な霊感では存在に気付けても、肉眼で捉えることはないそうだ。


生と死の間を彷徨ったというのも当てはまらない。今まで命にかかわるような事故にも事件にも巻き込まれた覚えはない。物心が付くまえならあるかもしれないけれど、親や親戚一同からそういった話しはまったくなかった。


そもそもこの二つのどちらかが原因だとしたら、アイと出会うまえに他の天使と会っていたはずだ。ここは田舎だから、天使はアイ一人しかいないらしい。都会だと人口密度にともなって、配備される天使も多いとのことだ。


残るはアイが人間だったころに知り合いだったという可能性があるが、アイが死んだのは十年以上もまえ。私はまだこの町に住んでいなかった。里帰りでこちらに来たときに顔を合わせたとしても、当時の私は最低でも幼稚園児、最悪物心すら付いていないころかもしれない。そんな幼児と当時高校生だった青年が顔見知りだったとは考えにくい。


だが、私が覚えていないだけで、本当に会ったことがあるかもしれない。アイに心当たりがないか問いただしたが、『そんなに人間だったときむかしの俺がどんな得難い人物だったのか知りたい』などとまともに教えてはくれなかった。


しかし、幼少期アイと繋がりがあったとして、いまの関係性に変わりはない。それに、本心から気にしていないみたいだが、生前のことを聞くのはやはり野暮だ。これ以上深掘りしないことにした。




今日は珍しく学校にフルートを持って来ていた。理由は、憂さ晴らしのため。


昨日、汐後さんが図工で制作した粘土細工が壊されていた。この犯人として吊し上げられたのは私だった。もちろん覚えはないが、汐後さんと同グループの人たちが私がやったと担任に告発した。そんな最中、粘土細工を壊されたはずの汐後さんは、大衆の前では流涕したが、私が職員室に呼び出されたときには嘲笑っていた。


私を陥れるために、汐後さんがわざと自分の作品を壊して、その犯人が私だと教師に報告するように仲間とグルになったのは明白だ。


幸い、粘土細工が破壊されたのは私が帰宅したのちだと証明してくれた生徒がいた。


だが、穢いやり口で私をハメようとした事実は変わらない。むしゃくしゃとしていて、気分直しにフルートを吹きたかったけれど、一人で演奏できそうな場所は旧校舎の音楽室しか思い付かなかった。


アイを友達だと認めてはいる。アイになら聴かせてもいいと思えてきた。それでも、あの入り江を選ばなかったのは、演奏を聴かせたらアイが図に乗りそうだから。聴かせるのはあのひょうきんな面が改善されたときだ。


旧校舎は文系の部活が活動部屋として使うことがあるようで割と綺麗に掃除されている。でも、吹奏楽部は本校舎の音楽室で活動しているらしいから、それなりに埃が溜まっていると見越していた。


しかし、実際に音楽室に入ってみると、埃などなく、机やイスも整頓されていて、他の教室と遜色ない。


あまりに散乱していたら掃除するつもりでいた。その必要はなかったようで、ラッキーぐらいにしか思わなかった。


イスを一つ拝借して、腰を据える。


奏でるのはドビュッシーの交響詩『海 第三楽章 風と海との対話』。順番からいけば、第一楽章だが、第三楽章は第一、第二にはない、風と海が荒れ狂う躍動感がる。むしゃくしゃしたときは、こういったテンポの速い曲で気分をすっきりさせる。まるで、風が海を巻き起こして、海上のものすべてをかき消すように。


激しい風と荒波立つ海は十分ほどで静まる。



―パチパチパチ―



ふいに小さな拍手が鳴った。扉の方には、浦風くんが立って両手を叩いている。


「すごかった。この場に立っているだけで、吹き荒れる海上にいるような迫力だった」


「浦風くん、聴いていたんですね」


「あっ……ごめん」


まずかった。いまの言い方だと責めているように聞こえる。


以前、『私のフルートは見世物ではない』とクラス全員のまえで演奏を拒絶したから、私が人前での演奏を拒んでいることに浦風くんは気付いているはずだ。


「立ち聞きするつもりはなかったんだ。でも、演奏しているのが潟湊さんだとわかった時点で声をかけるなり、立ち去るなりすればよかった。本当にごめんなさい」


案の定、罪悪感からいつにも増してうしろ暗かった。


「いまのは私の言い方が悪かったですよね。もう気付いているんでしょうけど、私は他人に演奏聞かれたくありません。でも、偶然聴いてしまったことに対して、批判的な態度とってごめんなさい。あと、ありがとうございます」


「褒めたぐらいでお礼なんて……」


「そのことに対してお礼をした訳じゃないです」


汐後さんの作品が壊されて、犯人扱いされたとき。弁明してくれたのは……


「浦風くんですよね。先生に私のアリバイ証明してくれたの」


「……っ‼わかっていたの……」


「状況的に浦風くん以外に心当たりがありませんから」


事件当日、例によって私は汐後さんたちに掃除を押し付けられた。場所は事件現場の図工室で、汐後さんたちが去ったあと、浦風くんがやってきた。このとき、彼も私もまだ粘土細工が無事であることを知っていた。


「それに、この学校で私の見方をする人間も浦風くんだけです」


「……」


「なのに、イヤな思いさせて申し訳ありません。私は帰るので、浦風くんはこの教室使ってください。一人の方が気兼ねしないでしょう」


帰り支度を始めたら、「感謝しているのなら。一つだけ頼みごとがあるんだけど、聞いてくれる?」と問われた。


無罪を証明したことをダシに頼みを請うという浦風くんらしくない行為に怪訝する。


「……内容次第です」


だがしかし、彼が勇を鼓して頼み込んでいる様子だから、耳くらいは傾けた。


「僕、バンドやっているんだ。この音楽室が綺麗なのも、バンドメンバーとここで定期的に練習するためで……」


浦風くんは帰宅部なのに、私の掃除に付き合ったあとは帰宅せず、学校に残っていたのはそういうことだったんだ。この教室が綺麗な理由にも納得する。


「それで頼みたいのは、その……僕が所属しているバンドにフルート奏者として、入ってくれない?」


「⁉」


想像もしていなかった。てっきり、フルート奏者としての経験による音楽のアドバイスを求められるかと思っていた。


「バンドでフルートってミスマッチではないですか?」


「そんなことない!音楽って……自由なものだから……」


浦風くんが熱心に私のフルート奏者としての腕を求めているのはわかった。それに、浦風くんは本心から、私の演奏を褒めてくれた。


だけど……


「ごめんなさい。私はもう人まえで絶対にフルートは吹かないと決めたんです。バンドのメンバーが足りないなら他を当たってください」


「……」


あからさまに愕然としている浦風くんを捨て置き、その場をあとにする。罪悪感がないわけではないが、こればかりは譲れない。




「へぇー。そんなことがあったんだ」


浦風くんにバンドへの加入を断ったことをアイに話した。


「試しに入ってみたらいいのに。バンドなんて楽しそう」


あと先考えず、バンドへの加入を勧めるアイ。


「当事者でもないのに、無責任なことを言わないで。そもそも、私は自分のフルートを人に聴かせるつもりはないから」


「なんでなんだ?俺にも聴かせてくれないし、つまんないよ」


「聴かせたくないものは、聴かせたくないの」


「そんな意固地にならないで、理由だけでも話せよ。そしたら、俺もそのバンドの子も納得するかもだろ」


一理ある。理由も言わずに、断固拒否したところでアイの場合逆効果だ。


「……親よ」


「おや……?」


「うちの母親、私のフルートじゃ満足しないの」


私の母……潟湊明佳乃は私を理想のフルート奏者に育てようとした。母の中での理想のフルート奏者とは、自分の息子……つまり私の兄だ。


兄と言っても、私には兄に関する記憶がない。兄は私が小さい内に不慮の事故でこの世を去った。


私は兄の名前も顔も知らない。兄が亡くなり、心を病んでしまった母のために潟湊家では兄の名を禁句とし、写真も仕舞い込んだ。


だが、それでも母の兄に対する執着はやまなかった。私に兄のようなフルート奏者となるべく徹底的な教育が始まった。遊ぶ時間を与えずひたすらフルートの練習。出場したコンクールでは必ず金賞でなければ罰として、食事を抜かされた。


金賞でも褒められたことなど一度もない。兄ならこれくらい当然だと、吐き捨てる。音楽関連以外でも、テストで百点を取れたとて、勉強の時間をフルートの練習に充てたらなどど非難された。


見かねた父は、私と母の距離を置こうと以前にも増して母にピアニストの仕事が来るようにしてくれた。


母が家にいる時間が減り、ようやく平穏な生活ができるようになった。しかし、親子の反発はやまず、家の外でも潟湊の娘として見られ、私はそれが堪らなかった。


なにより、許せなかったのが自由に演奏できないこと。強制的にさせられてきたことだけど、私にとってフルートは十年以上の付き合いで、切っても切れないものだった。好きかどうかは別として、私は私らしい演奏がしたかった。


けれど……


『お兄ちゃんはそんな演奏はしないわ‼』


『そんなに強く吹かない‼』


『もっと優しい音を出しなさい‼』


ただ兄の模倣をしてほしい母の指導に我慢できず、逃げるようにこの町に引っ越した。そして、もう二度とフルートを人前で吹かないと心に誓った。


「これが理由よ」


根本的な理由はまだあるのだが、そこまで言う必要もないだろう。


「……」


珍しく湿っぽい顔なアイ。


「っ!」


ふいにアイに抱きしめられた。


「なにするの‼苦しい‼」


いきなりのことに目くじらを立てるが……


「ごめん。なにもできなくて……」


いつもひょうひょうとしているアイの悲痛な声。それが浦風くんの声と重なる。


「もっと早く会いたかった……もっと早く瑠海の気持ちに寄り添ってあげればよかった。ごめん、ごめん……」


「……」


浦風くんなら気にしなくていいって言えるのに、アイがこんなだと調子が狂ってしまう。


アイには言葉でなく、態度で慰めた方がよさそう。そっとアイの背中に腕を回し、ゆっくりとしたペースで撫でる。


「すぅ……」


何度も浜辺に打ち寄せる波のように繰り返し、繰り返し撫でていたらアイが寝ていた。人の膝の上で図々しく。でも、こういうふてぶてしい感じなのがアイだ。いつものアイに戻ったようで少し安心した。

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