波の戯れ ②

持て余すだろうと思っていた夏休みは、白紙だったとは思えないほど緊密になった。忙しさに追われながらも、充実した日々を過ごしていた。


今日も海の家に出勤すると、既に三上先輩が準備に入っていた。


「瑠海ちゃん、おはよう!今日も早いね」


「それを言うなら先輩こそ。一番乗りじゃないですか」


「あたしのは、もう習慣みたいなもんだから。小さいころから叩き起こされて、手伝わされているし」


そんなことを言いながら快活に笑う先輩。


「そうそう。今日からいとこの子も手伝うから」


「先輩のいとこ?」


「うん。瑠海ちゃんとタメだから、仲良くしてね……って言っている側から来た」


裏口から聞こえてきた足音に、そのいとこが出勤して来たようだ。


私もそちらに視線を向けると扉が開いた。それは見知った顔で、思わず目を見開く。


。通称、たまちゃん。夏休みの間泊まり込みで働くから」


「ゆ、雪乃世です。よろしく」


「雪乃世さんね。私は潟湊瑠海」


最初、雪乃世さんも私を見て瞠目していたが、お互いに初対面のフリをする。


「他のやつらにも言っておくけど、たまちゃんは前に怪我をして少し腕がうまく動かせないの。だから、なにかと気にかけてあげてね」


「はい。先輩」


三上先輩。そのことは私が一番知っているんですよ。雪乃世さんの怪我は、私の罪だから。


だが、そんなこと言えるはずもなく。周囲の人に怪しまれない程度に私たちは一定の距離を保ちながら働いた。


そんな気まずい空気のまま一週間くらいが過ぎた。




今日も今日とて、蒸し暑い日々。太陽光で熱せられた砂でより気温が上昇して、蒸し焼きにされそう。


だけど、私は常に冷汗をかいていた。雪乃世さんが側にいるだけで、罪悪感に苛まれる。バンド練習にも身が入らず、寝不足が続いていた。


「潟湊さん。返却された貸し浮き輪やゴムボートを裏で洗ってもらえないか」


ここの海の家の店主である三上先輩のお父さんにそう頼まれた。バンドの練習場所を提供していただいた上に、バイト代までもらっている。断る訳がないが……


「一人じゃ大変だから、たまちゃんにも頼んだから。二人でよろしくな」


雪乃世さんと一緒に任されてしまった。ここ一週間、奇跡的に二人きりになることはなかった。だが、いずれこういうことになる可能性は予測していた。


言いようのない雰囲気の中私たちは裏手に回り、浮き輪やゴムボートについた海水、砂利などをホースの水で洗い流す。ただ黙々と行なっているから、間が持たない。とにかく早く終わらせてホールに戻りたいと思っていると「いま、バンドでフルートやっているんだね」。


「……」


雪乃世さんが出し抜けに声をかけ、反応に詰まった。


「つばめお姉ちゃんから聞いた。新メンバーだけど、一番演奏が上手で、頼りになるって。当然だよね。瑠海ちゃんプロにも引けを取らないくらい上手だもん」


表面上は褒めているように感じるが、内心は私のことなど憎くて憎くてたまらないはずだ。けれど、雪乃世さんは優しいから、遺恨を晴らそうとはせず、内にため続けているんだ。


いっそのこと恨み節の一つでも言ってくれた方が、いくらか気が休まる。しかし、本当に言われてしまったら、私は今度こそフルートを完全に手放さなければいけない。ようやく前に進む決心が付いたのに。


フルートを手放すことを惜しむ私は、やはり自分勝手な人間だ。


「それでね……音楽スクールでのことなんだけど……」


自虐思考に入っていたら、とうとう件のことを切り出した。


結局、私は彼女からフルートを奪ったことを責められたいのか、なかったことにしたいのか、自分でもわからない。


雪乃世さんの次の言葉で、私の今後の音楽活動が左右される。切迫感で心臓の音がうるさいほどに鳴り、私の胃をキリキリと痛め付ける。


「あのときは――」


「二人ともー!浮き輪とか、洗うの手伝うよー!」


『⁉』


勢いよく裏口の戸から穐葉先輩が現れて、話しが遮られた。


「あれ?もしかして、大事な話しの最中だった?」


罰が悪そうに頭をかきながら、穐葉先輩は申し訳ない顔をする。別に怒ってはいない。だから、私と雪乃世さんは大した内容ではないから、大丈夫だと取り繕う。


「そう。なら、よかった!早く終わらせて、お昼食べよう!今日の賄いラーメンだって!」


穐葉先輩の乱入によって話しは流れたが、内心私はほっとしていた。しかし、燻る罪悪感は肥大化するばかり。


雪乃世さんの顔をまともに見る勇気もなく、彼女がどんな顔をしているのかわからなかった。




陽が沈むとその日の手伝いは終了して、練習の時間。


私は自分の練習だけでなく、他者の演奏の修正アドバイスなんかもやっている。フルート以外は専門外だけど、音のズレには敏感だったから、その都度指摘してくれないか先輩方に頼まれた。


だけど、今日は自身の演奏すらままならない。雪乃世さんのことでここ数日感情がブレて、演奏にも影響が出ていたが、今日は比にならない。


「潟湊さん。ここ最近調子が悪いようですが、本日は特によくなさそうです。どこか具合が悪いのでしょうか?」


直身先輩の目から見ても私が本調子でないのは明らか。


「ちょっと気分が優れなくて……」


「だったら、今日はもう帰ったら。あと片付けは、僕らがやっておくから」


早勢先輩にもそう言われ、お言葉に甘えることにした。


別室で自身の荷物の整理をしていると、建昭先輩が入ってきた。


「建昭先輩?練習を抜け出して来たのですか?」


「……」


建昭先輩とは、あまり会話らしい会話をしたことがない。本人が無口なのもあるが、私も極力しゃべらない方。しかも、建昭先輩はバンドメンバー内で私の次に正確な音程が取れるから、私が彼に指摘することも少ない。


「潟湊おまえ、三上のいとこの子とまえから顔見知りなのか?」


「⁉」


「その反応。やはりか」


「……どうして、先輩は雪乃世さんと私のことを知っているのですか?」


「昼間、店の裏手での会話をたまたま聞いた。なにか大事な話しの最中だったのに、穐葉のやつが邪魔をして悪かったな」


「いいえ。建昭先輩の所為ではありませんから」


「そっか。なんか確執とかがあるみたいだが、とにかく話し合ってみたらどうだ。また、邪魔が入りそうになったら、俺が止めておく」


あまりに世話を焼くような人には見えなかったから、わざわざこうして声をかけてくれて、雪乃世さんとの仲を気にしていて、意外だった。


「なんで?わざわざ先輩が……」


「潟湊は貴重な新戦力だからな。まだ、バンド歴は浅いが、俺は自分の音がズレたときはわかるけど、他のやつのまでは流石に無理だから。なのに、潟湊は複数の音が同時に響いている中、気付けていて驚いた。だから、早く本調子になってもらわないと困る。それだけだ」


建昭先輩は、思っていたより私のことを買ってくれていた。三上先輩たちも私のフルートの腕を見込んでいるだろうけど、実際は私ではなく、親の話題ありきで迎え入れているのではないかという疑念があった。バンドに誘ってくれた浦風くんも三上先輩も、私のフルートの腕を褒めていたけれど、具体的にどこを評価しているのか言ったことはない。浦風くんに問い詰めても恥ずかしがって言ってくれない。三上先輩に関しては、本人は詳細に言っているつもりなのだろうけど、大雑把であるため抽象的な回答しか返ってこなかった。だから、いまの建昭先輩の言葉に少し背中が軽くなる。


しかし、脳裏に雪乃世さんのことが浮かび、再び肩を落とす。


「雪乃世さんと対話した結果、私がバンドから脱退するようなことになったら、先輩たちは困りますか?」


私が雪乃世さんの存在に怯えているのは、もうフルートの継続は私だけの問題でなくなったのもある気がする。


以前なら、フルートをやめることになったとしても、母から叱責を受けるくらいで被害を被るのは私だけだった。しかし、バンドに加入したからには音楽活動の継続は、私個人の判断でしていい代物ではなくなった。


だが、バンドの一員としてまだ私は正式な場で演奏をしていないから、深い海ディープ・ブルーへの被害は最小限で済む。


私の問いに先輩は、「他人の言葉に左右されて、やめるくらいの覚悟で音楽やっているのなら。そんな軟弱はいらない」と辛辣な返答を返す。表情に目立った変化はなかったが、目元が鋭いため厳粛なオーラを放っていた。


その威圧感に委縮して、雪乃世さんと対等すらしていないのに、音楽を続けることに自信をなくしてしまいそう。


しかし、鋭かった建昭先輩の目元が元に戻ると、そのオーラは別のものに変化した。


「だけど、おまえほどの才能を眠らせるのは惜しい。やめたいと思うのなら、その根性を叩き直して、バンドにいさせる」


飾り気のない言葉。だけど、先輩なりに私を気遣っているようだ。


私は先輩にお礼を述べてから建物を出て、アイの元へ向かう。答えはまだ出ていないが、建昭先輩に発破を掛けられたことにより、せめて自身の感情を整理してから雪乃世さんと話し合おうと思った。アイに雪乃世さんとの関係を話せば、いい加減ながらも、私が求めていた答えをくれる。


私は、思うがままに駆け足で入り江を目指す。途中、足がもつれて転倒した。かなり膝を擦り剥いたが、そんなのは些細なこと。潮風で沁みる傷口を放置して急いだ。


「瑠海、こんばんは。今日はもう来ないかと思……って、どうしたの!そんなにボロボロに!息も上がっているし!」


「ハァ……ハァ……。こ、これは、気にしないで。ちょっと転んだだけだから。それより、アイ。私の話しを聞いてちょうだい」


急に改まった私に怪訝な表情を見せる。考えてみれば、アイにこんな際どいことを自分からするのは初めてだ。


母のことも学校でのことも、快弁なアイに舌先を丸め込まれたようなものだった。でも、不快感はない。寧ろ、話したことで肩の荷が軽くなった感じすらあった。


そんなアイだから、こうして自分から相談する気になったのかもしれない。


「例えばの話しだけど、アイから大切なものを奪った人がいたとして、その人がその大切なもので幸せになっていたら。アイはその人のことをどう思う?」


私の問いかけに対して「そうだな……」と首をひねるアイ。


「その人が好き好んでそうした場合は複雑だけど……そうとも限らない場合は、なんとも言えないかな。そもそも、俺はその大切なものをだから、どうこう言える立場じゃないし」


「……え?」


言葉の締め括り、顔に影が落ちていた。その表情は懺悔のようで、なぜだか私のことまでをも儚げに見つめる。


「それって、どういう意味なの?」


「ん~。ある程度なら答えられるけど、そこで隠れているギャラリーを退かせてからかな」


「?」


アイの指先は岩場の影を差している。そこに回り込むと、意外な人物が身を縮こませて隠れていた。


「浦風くん?」


「えっと……」


「どうして、ここに?」


「……」


「浦風くんって、この子だったんだ‼瑠海をバンドに誘った子‼」


アイの反応からして、浦風くんとは顔見知りのようだけれど、名前はいま知ったらしい。


「アイさん。お久しぶりです。お元気でしたか?」


「うん!ゲンキ!ゲンキ!」


「……浦風くんは、アイが見えているの?」


「う、うん……」


「そうなんだ……」


アイが見える条件から推測すると、二人が知り合った経緯はあまり穏やかなものではなさそう。普段俯きがちの浦風くんの顔だが、汐後さんたちのいじめを受けていたときとは比較にならないほど青白い。


「二人とも、顔を合わせるのは久々なんだよね。だったら、私は一足先に帰る。男同士の話しもあるでしょ」


せっかく汐後さんたちのいじめから解放されたんだ。浦風くんにこれ以上、受けなくてもいいストレスを……気が弱くて根が優しい彼には分不相応な心労をかけないように、この場から立ち去ろうとした。


アイもそれをわかってか、なにも言わなかった。私との話しが中途半端になったけど、 ブルブルと縮み上がった様子の浦風くんを見たら、こっちが最優先だ。


あれでいて、アイはメンタルケアが得意。この場は、任せても心配ないだろう。


だけど、帰る私の足を止めたのは、意外にもこの場で最も危うい浦風くんだった。


「僕が自殺しようとしたとき、アイさんに助けられたんだ。それから、たまに色々相談に乗ってもらっていて……」


予感的中だった。アイたち天使を見る条件の一つに、生死の境を彷徨った経験を持つというのがある。そして、浦風くんの自殺未遂経験。これだけあれば容易に予想できた。


「私なんかに話してよかったの?そんなデリケートなこと」


「か、潟湊さんには、さんざん迷惑をかけた上に、いまもアイさんとの会話の邪魔をしたから。この上、アイさんが見える理由を誤魔化したら、信頼関係なんて一生できない!」


唐突に声を荒げた。浦風くんからこんな荒げた声を聞くのは初めてだった。


「いじめに巻き込んだり、無理にバンドに誘っている時点で、信頼関係以前の問題だけど。バンドは、野球やサッカー同様チームプレイみたいなところがあるから。ちゃんとしたくて……その……」


けれど、次第にその声は震え、最後には尻すぼみになっていた。


「だから……潟湊さんが三上先輩のいとこのことで、悩んでいるみたいだから……ほっとけなくて」


掠れ掠れに紡がれる言葉は、私を気遣うものばかりだった。


「そしたら、アイさんの所に行くみたいだったから、思わずここまで付いて来ちゃって……」


「でも、今日だけじゃないじゃん。隠れていたの」


「あれは、久しぶりにこの入り江でアイさんに話したいことがあったからで……そしたら、潟湊さんがいて思わず……。でも、今日は行為がありました。潟湊さん、さっきの話し盗み聞きしていました。ごめんなさい」


誠意の籠った謝罪。でも、彼の行動の根幹は私を慮ってのものだ。


「浦風くんってもしかして、瑠海のこと好きなの?」


『……⁉』


アイの突拍子もない発言。場の静寂とした空気がかき乱された。


「変なこと言わないでよ‼浦風くんに失礼でしょ‼」


「えー、でもー――」


話題に耐え切れなくなったのか、浦風くんはその場を去った。


「浦風くん……。もう‼アイの所為だから‼」


「え?俺?」


アイのことは放置して、浦風くんを追った。しかし、洞窟から出ても、彼の姿は捉えられず、その日は家に帰った。




シャワーで今日かいた汗を流して、ベッドに倒れ込む。労働による疲労より、精神的に効た。


雪乃世さんのことはもちろんだけど、最後のアイのバカ発言に無駄に体力を消耗させられた。


そして、私を心配してくれた浦風くん。汐後さんたちのときもそうだったけど、彼はなんだかんだ私を気にかけてくれた。


彼だけでない、思い返せばここ数日バンドの先輩方は、本調子でない私に配慮していた。思っていた以上に私は、他人に心配をかけていたのかもしれない。


ここまで周りに迷惑をかけているんだ。個人的な理由で、雪乃世さんを避けるのはやめよう。


そして、さんざん心配をかけた浦風くんに感謝しなければ。しかし……


「アイがあんなことを言ったあとで、なんて言えばいいの~」


アイが変なことを言ったから、明日普通に会話する自信がない。


私は、アイへの憤懣を八つ当たりするかのように、枕をぽかすか叩く。

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