第1話 追放


「──おはようございます、ユリエッティ様」


「……おはよう、クレーナ。良い朝ですわね」


 出立の朝である。追放の朝ともいう。


 側仕えの侍女クレーナが部屋を訪れた時点ですでに、ユリエッティ・シマスーノ公爵令嬢はいつも通りに朝の鍛錬を終えていた。渡されたタオルで汗を拭いたあとは、やはりいつも通りの足取りでシャワールームへ向かう。鷹揚に、けれども手際良く自らの体を清めるその所作もまた、いつも通り。


 シャワーを終えれば、引き締まった裸体を惜しげもなく脱衣所の鏡に晒し。肩甲骨のあたりまで伸びた艷やかな黒髪を、やはり慣れた手付きで乾かしていく。その場に侍女はいない。何もかもを一人で終えたユリエッティ・シマスーノの格好は、いつもとは──公爵家の令嬢らしい姿とは程遠い、シンプルなズボンとシャツ一枚に平靴といった、平民というにも簡素なそれであった。


「──さて、と」


 そうして貴族生活最後のシャワーを終え自室に戻っても、やはり侍女はいない。それに文句を垂れるでもなく、ユリエッティは今日までのうちに用意していた質素なザックを肩にかけ、そして最後にぐるりと部屋中を見回した。もう二度と戻ってくることのない場所。高価ながらも嫌味のない調度品の数々。今までに連れ込んだ女たちにも好評だった大きく寝心地の良いベッド。何もかもを置いていく。いや、そもそもそれらは全てシマスーノ公爵家の所有物であり、真にユリエッティに所有権があるものなど、いま持っているザックに収まる程度しかない。

 これが貴族令嬢でなくなることなのだと肌身に感じながら、ユリエッティは17年を過ごした部屋を後にした。




 ◆ ◆ ◆


 

 

 身支度を整えたユリエッティが向かったのはこのシマスーノ公爵邸の主、シマスーノ公爵家現当主──つまり自身の父の元であった。


「失礼しますわ」


 今日日の王国貴族は誰も使わないようなけったいな物言いと共に、父の書斎へと乗り込むユリエッティ。堂々とそして飄々と、不遜にも見えるその態度を、父・ヘディルノード・シマスーノの威圧的な眼光が射抜いた。オールバックに固められた髪の色も、切れ長の鋭い眼差しも、高く芯の通った背格好も、全てがユリエッティと似通っている。しかしデスクを挟んで相対する二人のやり取りは、父娘というにはあまりに淡々としたものだった。


「ユリエッティ・シマスーノ。事前の通告どおり今日この時を持って貴様の家名を剥奪し、シマスーノ公爵家及び王国貴族界から追放する」


「あいかしこまりましたわ」


 デスクの上に一枚だけ用意されていた紙切れに印が押され、それだけでユリエッティ・シマスーノ公爵令嬢は、家名を持たないただのユリエッティとなった。

 

 この期に及んで彼女の方から異議を唱えることもない。

 生まれてからこれまでの貴族らしからぬ言動の数々。出生率低下が国難と呼べるほどに顕在化しているこの時代において、貴族令嬢たちに子を成さない同性性交を広め散らかし、その果てに第二王女にまで手を出したというのだから……むしろ追放で済んだのは温情なのだと、彼女自身そう理解していた。


「……用件は済んだ。さっさと出ていけ」


「ええ。今までお世話になりました、お父様。不肖の娘であったことを、最後にお詫びいたしますわ」


「お前は私の娘ではない」


「おっとそうでしたわね、わたくしとしたことが。ではごきげんよう、シマスーノ公爵様」


 最後まで微笑みを崩さないまま、ユリエッティはシマスーノ公爵の書斎を後にした。



  

 ◆ ◆ ◆




「──ユリエッティ様」

 

 シマスーノ公爵邸の外門から出たところで、ユリエッティは見知った女性に声をかけられた。


「家名も持たない根無し草に“様”なんて付ける必要はありませんわよ、クレーナ様?」


 ついさっきまでは側仕えだった侍女も、今では自分よりも遥か目上の存在……と、いうわりには茶目っ気を多分に含んだ声音で、ユリエッティはウィンクを一つ。


「それはそれ、これはこれというやつです。ユリエッティ様」


 対する給仕服の女性──クレーナ・イングルトも、元主人譲りの強かさで肩をすくめた。くすんだグレーのボブカットも、合わせて小さく揺れる。長年自身の側仕えを勤めてきた彼女が、これを機に侍女を辞し実家に戻るというのはユリエッティも知るところであり。原因たる身で何をと思いながらも、問うことを止められない。


「……本当に良かったんですの?」


「良いったら良いんですよ。それに私、実家に戻ってやりたいことがありまして」


「ほう?」


「地元の女抱きまくります」


「それは……最高ですわね」


「でしょう?」


 途端にニヤリと、捕食者の笑みを浮かべる二人。クレーナは側仕えであり友人であり、またユリエッティに幾度か抱かれた女であり、そしてその経験を以って女を抱くすべを身に着けた女でもあった。奔放な主人を隠れ蓑に同僚を何人か食っていたのはここだけの話である。


「イングルト子爵家の領地は王都ここから西の方でしたわよね?」


「ええ、田舎過ぎず都会過ぎず、程々に住みよいところですよ」


 そのうち遊びに行くのも良いですわね……と言いかけ、しかしその全てを飲み込み、ユリエッティはザックを背負い直した。


「貴女には感謝してもしきれませんわ、クレーナ。わたくしが言うのもなんですが、これからの貴女の人生が良いものになることを願っています」


「ありがとうございます、ユリエッティ様。私も」


「ええ、ええ。ではごきげんよう、クレーナ」


「はい、ユリエッティ様」


 いつまでも話し込んでいる訳にはいかない。

 努めて軽やかな足取りで歩みを再開したユリエッティは、側仕えだった女の視線を背中に感じながらも、振り返ることなくシマスーノ公爵邸を後にする。角を曲がり屋敷を離れ、そのまま貴族街を抜けるまでの1時間ほど、足を止めることはなく。


「──さて。これで名実ともに、自由というやつですわ」


 街道の舗装の質が明らかに落ちたのを靴裏に感じながら、ユリエッティはザックから干し肉のサンドを取り出し囓る。一週間前、追放処分が正式決定したその日から、平民の食事を真似て体を慣れさせようとしてきたが……やはりまだ、侘しさを感じないと言えば嘘になってしまう。貴族らしからぬ女というのは自他共に認めるところだったが、しかしなんのかんのと言って舌は貴族相応に肥えていたことを痛感させられる。


「歩き食いを誰にも咎められないというのは、まさしく自由を感じますわねぇ……」


 独りごちてもう一口かじり、そして自由に混じって感じる一抹の寂しさを、ユリエッティはゆっくりと飲み込んだ。

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