少女だったもの

「はぁー、やっと着いた!!」

 架空のゴールテープを切った金森はドサッと膝から地面に崩れ落ち、ゼエゼエと荒い呼吸を繰り返す。

 肩が激しく上下しており、顔も体全体も真っ赤な上に汗まみれになっていて、非常に苦しそうだ。

 金森自身はもちろん誰にも触れられたくないだろうが、他の人だって誰も汗も滴る良い女(笑)になってしまった彼女に触れようとは思えないだろう。

 しかし、女性は金森の姿を確認すると躊躇なく彼女の弱った体に覆い被さり、ペタペタと頬や髪、体に触れ、もみくちゃにし始めた。

 加えて金森の汗が煌めく頭髪に鼻先を埋め、スンスンと嗅ぎまわす。

 疲労が蓄積している上に突然女性に襲われ、激しい混乱に見舞われることとなった金森だが、こんな時でも、いつでも、彼女の精神と肉体はかなり強い。

 そのため、

「わあぁ! なになになに!? 嗅いでる! 嗅いでる! 嗅いでる! ちょっと、どこ触ってるの! なんで子供に絡まれた次は女の子に痴漢されなきゃいけないのよ! おまわりさーん!」

 と、確実に近くにはいないであろう警官に大声で助けを求めながら、ドゴッと女性の腹を蹴り飛ばした。

 渾身の力を込めた金森の蹴りは重かったらしく、女性は後方へと吹き飛び尻もちをつく羽目になったのだが、ムクリと起き上がった彼女は満面の笑みをみせている。

「汗臭いし暑苦しい! 何よりもキックが重すぎる!! よかった! お姉さん、生きてるね!!」

「ちょっ、え? なに? この失礼な変態!」

 自分に向かって両手でグッドサインを作る女性に金森は激しい困惑とそこはかとない怒りを覚える。

 しかし、すっかり疲労し、最後の力を振り絞るかのように女性を蹴り倒した金森では流石にブチ切れる元気がない。

 そのため、ホッと安堵のため息を吐きながら自分の方へすり寄り、

「本当に良かったよ~! とうとう、ゆうちゃんが人殺ししちゃったのかと思ったもん。うんうん、申し訳程度にお肉がついている良いちっぱいだ! これは、さぞ生意気だぞ~。いや~、汗臭くても女の子は良い匂いだな~。美少女な高校生と戯れられるなんて、役得! じゃなかった。君が生きてて良かったよー。ギャンッ!」

 と、控えめな胸に顔面を突っ込んで嗅ぎまわし、そろーっとお尻付近に邪な両手を忍ばせ始める女性の頭を無言でぶん殴る程度のことしかできなかった。

 己の足元でうずくまりウゴウゴと悶絶する変態を金森は両腕を組んで蔑みの目で見下す。

 凍りきった瞳は完全にゴミ虫を見る時のソレである。

『何? この無礼な変態は……というかこの人、今すごく物騒なこと言わなかった?』

 訝しげに女性を睨みつけていると、今度は四つん這いになったままソロソロと少女の方へ這っていく。

 怪しい動きをしたら、もう一発ぶん殴ってやろう! 子供は駄目だ、子供は! と、正義感を燃やした金森が両腕を組んだまま女性の後ろをついていく。

 はた目から見た姿は女王様と弱った犬という何とも情けない絵面だ。

 しかし、警戒する金森の予想に反して女性が少女に痴漢行為を行うことは無く、ムクリと体を起こすと屈んだ体勢になって小さな両手を優しく包んだ。

「ゆうちゃん、あのね、あの子、生きてるよ。ぎゅって抱っこしたら温かかったし、息もしてた。ゆうちゃんは導き手なのかもね。凄い事だけれど、生きている人を勝手に連れてきちゃ駄目だよ。ちゃんと、元の場所に返してあげなくちゃ」

 子供というものは、マボロシなどに干渉するための力を多く保有していることが多い。

 しかし、力は年齢を重ねるとともに段々と失われてしまうため、遅くても小学校高学年から中学生になる頃にはマボロシを見ることすらままならないほどになっている。

 そのため、子供の頃に作り出したマボロシを加齢とともに認識できなくなって忘れてしまい、消滅させてしまうというケースが多発していた。

 なお、博士は勿論このことを承知している。

 彼が激しい言葉で契約者、つまりマボロシを作り出した者を罵らないよう自制しているのは、こういった事情が関係していた。

 ともかく異常に力の強い子供だが、人間は死後、生前に持っていた力をそのまま幽体に引き継ぐため、子供の幽霊はたいてい非常に強い力を保有している。

 また、一度成仏しかけたとしても何らかの方法で自己を取り戻せば、それからしばらくの間は亡くなったばかりの頃と同じように力を行使することができるのだ。

 そして、幽霊は大量の力を消費する代わりに門を作り出すことができる。

 要するに金森は、少女が仲間欲しさ……というより、彼女が勝手に死亡したと勘違いしている金森欲しさに作り出した門をうっかり踏んでしまったのだ。

 女性は金森が幻想世界と現実世界を行き来できる導き手だとは露ほども思っていないため、少女が導き手なのだと決めつけているが、実際は導き手である金森がドジを踏んで幻想世界に迷い込んでしまっただけである。

 このような事態を避けるべく博士はしばらくの間、少女を見かけた場所の近くには行ってはいけないと金森に忠告していたのだが、彼女はすっかり聞き逃してしまった。

 聞き逃した忠告は他にもあるのだが、もちろん金森は何一つ思い出せていない。

 女性は咎めるというよりも諭すような口調で優しく丁寧に少女を叱っていたのだが、負けん気の強い幼い瞳にはみるみるうちに怒りが溜まっていく。

「みちびきて、わかんない! ひびきおねえさん、いきてないもん! しんじゃってるから、わたしといっしょにいくんだもん!!」

 ボロボロと大粒の涙を溢しながらワッと怒鳴り声をあげる。

 ペタンと座り込むとしゃくりあげて号泣し、不明瞭な言葉を喚き続けた。

 詳しい事情は分からない金森だが、お人好しな彼女は咳き込みながらも泣き続ける少女を放っておけない。

 そのため金森が心配そうに、

「ねえ、どうしたの?」

 と、おずおずと手を伸ばす。

 しかし、金森の綺麗な指先が少女の丸っこい柔らかな腕に触れる前に、

「駄目!」

 と、鋭く叩き落された。

 その刹那、金森の手があったはずの場所に黒いモヤのようなものが真直ぐと伸びたのが見えた。

 直接触れたわけではないが、鞭のようにしなって宙を掻くモヤからは妙に冷たい空気が伝わってくる。

 腕どころか頬までブワッと鳥肌が広がって、金森の鋭い直感が、

「触れたら死ぬ」

 と、強い警告を鳴らしていた。

 強烈な一撃をもらった手の甲は赤くなっている。

 しかし、痛みではなく恐怖と寒さで金森は叩かれた手の甲を擦った。

「ソレに触ったら死んじゃうよ! あの子も本当に化け物になる! 君もゆうちゃんも不幸になっちゃう。ここはあたしに任せて、君は下がっていて」

 酷く真剣な表情を浮かべる女性にコクリと頷いて見せると、彼女は腕を広げて金森をガードしながら、ゆっくりと少女に近づき始めた。

 そして反対に、金森には少女から距離を取るようハンドサインを送る。

 金森は音を立てぬように後ずさりしながら、女性の背中越しに少女の姿を確認してゾッとした。

 白かったはずの肌は真っ黒に染まり、愛らしい瞳があった場所には空洞ができていて内側にある底なし沼のような闇を覗かせている。

 同じようにポッカリと空いた口や目の中からは真っ黒いモヤとヘドロのような濁った粘着質の液体を溢れさせており、それがゾワゾワと這い上がって少女の全身に纏わりついていた。

 腕からも液体が滴っていて、動かせばベチャッという汚い音と共に穢れを落として周囲を汚染する。

 少し距離をとったはずの金森でさえ、生き物が腐敗したような吐き気を催す異臭に鼻を突き刺された。

 彼女と距離の近い女性が感じる不快感については言うまでもないだろう。

 少女はかろうじて人の形を保っているが、それすらも失ってヘドロの塊になるのも時間の問題だ。

 彼女は既におぞましいバケモノに成りかけていた。

 止まっていた汗が一気に噴き出し、金森の全身を冷やし始める。

 呼吸音を上げることすらも憚られて、息が止まりかけた。

 辺りは酷い緊張感に支配されている。

「ねえ、ゆうちゃん、そんなに一人で逝くのが怖いの?」

 女性だって確実に恐怖を感じ、酷く緊張しているはずだ。

 しかし、柔らかな唇から出される声は優しく温かい。

 困ったように眉を下げる表情は駄々っ子に困る保育士のようだ。

 少女の形をした黒い塊がコクコクと頷いた。

「おねえちゃん、しんでるもん。いっしょ、いくもん。いっしょ、いっしょ、いっしょに……」

 えぅ、あぅ、と気味の悪い嗚咽を混ぜ込んで少女は言葉を発する。

 酷くノイズが混じったおぞましい声が脳を直接引っ掻いて縛り上げる。

 低音であるのに金切声や黒板の擦れる音よりも酷く、醜く、聞くに堪えない。

 言葉と共に広がって金森の足元に纏わりついたモヤと地を這うような声に怖気が走った。

 女性が鋭い瞳で金森の様子を確認する。

 そして、モヤが金森を直接害さないのを確認すると少しだけ安心を覚えた。

『ゆうちゃんは、あの子が死んだと思ってるから殺しはしないのか。でも、連れていくが強くなりすぎて無意識で殺す可能性もあるし、生きてるってわかったら、何をするか分からない。でも、ゆうちゃん自身かなり消耗してるから、もしかしたら、多分……』

 頭の中で素早く計算をし、作戦を立てる。

 そうして思い付いた策は不安要素の残る賭けのようなものだ。

『失敗したら、どっちも危ない。あんまりギャンブルは好きじゃないんだけどなぁ。でも、これくらいしか策がないや……』

 女性は脳内で小さくため息を吐くと深呼吸をする。

 それからニッと明るい笑顔を作り軽い足取りで少女に近づくと、ギュッと汚れた体を抱き締めた。

 真っ白いセーラー服やスカートに泥が染み込み、液体が肌を這って侵食し始めるが女性は臆することなく少女を抱き締め続ける。

「ごめんね、あたし、勘違いをしてたよ。あの子は死んでた。だから一緒に逝けるよ! ね?」

 明るい声色でおどけ、パチパチとわざとらしく金森にウィンクを送った。

 合わせろ、という意味だろう。

「う、うん。私、確かに死んでたんだ。今思い出したわ。アハハハ~」

 芸術的な才能の乏しい金森だ。

 演技力はかなり低く、小学校のお遊戯会を連想させるような出来だったが、少女は金森の言葉を聞いてパッと顔を上げた。

「ほんとう!?」

 可愛らしい声で笑うと両手を広げ、嬉しそうに金森の元へ駆け出す。

『うわっ! 危ない! って、あれ?』

 いつの間にか少女の体を蝕んだ黒は消え失せ、周囲に広がっていた黒いモヤや異様な空気も霧散していた。

 女性に纏わりついていた黒も異臭も何もかも消え失せ、辺りには到着したばかりの頃と同じ平和で長閑な景色が戻っている。

 一瞬で化け物のようになり、一瞬で人間に戻ってしまう。

 テレビのチャンネルを切り替える時ですら、もう少し間があるだろう。

 狐につままれたような、あるいは悪夢から急に叩き起こされたような奇妙な感覚を覚え、金森がコテンと首を傾げていると、彼女の無防備な腹に少女が体当たりをした。

「やっぱり、そうだとおもってたんだ! わたし、ひびきおねえちゃんとてんごくにいくんだもん。えへへ」

 満面の笑みを浮かべて金森の顔を見上げる少女の瞳はキラキラと輝いている。

 やはり、空洞も溢れる泥も存在していない。

 困惑して女性の方をチラリと確認するが、彼女はニコッと微笑むばかりだ。

 金森は訝しげな表情で少女の頭を撫でた。

「ねえ、ねえ、ひびきおねえさんはどうしてしんじゃったの?」

 随分と不謹慎な事を聞くが、もちろん悪意はない。

 ただ金森に興味を持って、彼女のことを知りたいと思っただけだ。

「え? えっと、交通事故かな?」

 適当に思い付いた死因を述べれば少女はさらに目を輝かせ、

「わたしとおなじだ! あそこはね、くるまのうんてんがあらいから、きをつけなきゃいけないのよ。とくに、あかいくるまがあぶないんだから」

 と、はしゃいだ。

 死因が同じだと喜ぶ少女だが、お揃いで嬉しいのはキーホルダーか文房具くらいだろう。

 また、轢かれた当人からの忠告は何よりも説得力がある。

 しかし、どのように反応するべきであるのか金森には想像もつかず、

「本当にね、アハハハ……」

 と、乾いた笑みを上げることしかできなかった。

 上機嫌になった少女が、あれもこれもとお喋りに花を咲かせ始める前に女性がパンと手を叩いて乾いた音を鳴らす。

「さて、二人とも、そろそろ成仏しようか。響ちゃん、ゆうちゃん、ついておいで」

「はーい、ほら、ひびきおねえさん、いっしょにいこう。わたしがいるから、こわくないよ」

 自信満々に差し出した手は少しだけ震えていたが、金森が握ると震えも止まった。

 温度は存在しない。

 けれど少女は「温かいね」と微笑んでいる。

 何故か胸が切なく締め付けられた。

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