もう、泣かないんだね
強い日差しの中、清川と守護者はバスに揺られていた。
しばらく乗り続けていると、やがてバスが海の近くにある停留所で止まる。
多くの乗客が真直ぐに海や更衣室へと向かう中、清川は例の洞窟を目指して黙々と砂浜を歩き始めた。
海辺の太陽が何故か町にいた時よりも強く、激しく感じる。
清川がハンカチで額の汗を拭っていると、トートバッグの中にあるお茶が不自然に揺れた。
どうやら清川の熱中症を心配した守護者が、水分補給してね、と呼び掛けているらしい。
清川は微笑んで、
「ありがとう、守護者さん」
と、小さく礼を言うとペットボトルのお茶を両手で持って数口飲む。
数週間前に誘拐され、洞窟に連れ去られた清川だが、彼女は現実世界における洞窟の正確な位置を知らない。
そのため、守護者に軽くトートバッグを引っ張ってもらい、洞窟まで道案内をしてもらっていた。
『意外と距離あるなぁ』
体中を軽く火照らせながら歩き続けていると、他の空間から切り離されてしまったかのような酷く静かで冷たい、異質な場所へとたどり着いた。
海に背を向けた小さな丘のような洞窟は、ぽっかりと大口を開けて来訪者を待ち続けている。
かまくらのような洞窟には「奥」など存在しないはずなのに、一度入ったら最後、二度と出られないかのような恐怖をまとっていた。
清川の背中にゾクッと怖気が走る。
「あの、博士さん、いる? いたら、私を洞窟に入れて」
小さな声は怯えというよりも緊張によるものだろう。
清川が入りたいのは現実世界にある洞窟ではなく、幻想世界にある洞窟だ。
門を通って幻想世界へと行くことができるのは導き手の能力を持つ者だけであるため、能力を持っていない彼女は他の導き手に連れて行ってもらえなければ幻想世界に入ることができない。
清川を強制的に住処へ招いたくらいなのだから、博士も導き手なのだろう。
声が届けば、きっと中に入れてくれる。
そう思って博士を呼んでみたのだが、幻想世界に入る際に感じる世界が反転するような感覚がない。
『いない、のかな? それとも、声が届いてない? もう一回、声を掛けようかな? でも、恥ずかしいや』
見渡す限り周囲に人間はいないが、それでも、どうしても人目が気になる。
清川がモジモジしていると、不意にトートバッグが強く引っ張られた。
「守護者さん?」
トートバッグの導きに従って洞窟の中に足を踏み込むと、世界が足の裏からクルリと回転するかのような、覚えのある奇妙な感覚がした。
立ち眩みを押さえながら瞳を開けると、そこにいたのはニコニコと嬉しそうな笑みを浮かべた白衣の少年だった。
「博士さん……」
クラクラする頭を押さえながら周囲を見回せば、灰色の砂に薄い青の壁、そして、辺りに浮かぶ水面のような淡い影が見えた。
海のような美しさと不気味さを併せ持つ異様な空間は、まさしく博士の洞窟だ。
また、今回の清川たちは金森たちのように洞窟の入り口へ飛ばされたわけではなく、直接、彼の部屋へ招かれたらしい。
ぽっかりと空いた場所には黒い机やベッドなどの見覚えのある家具が並んでいる。
「こんにちは、藍さん。どうしたの? 僕にご用事? 藍さんも守護者さんも、僕には二度と会いに来ないだろうなって思ってたから、ビックリしちゃった。ところで、どうしたの? まだ僕が怖いの? 僕はもう意地悪しないって決めたから、怖がらなくてもいいんだよ?」
博士は独りで洞窟に引きこもっている割に酷く寂しがり屋だ。
突然の来客にテンションを上げていたのだが、ギューッと守護者に抱き着いている清川を見て困ったように首を傾げた。
「ううん、えっと、その、守護者さんを見ることができるのも、触ることができるのも此処だけだから、なんか、ちょっと惜しくなっちゃって、つい」
指摘された清川は照れて頬を真っ赤にし、そっと守護者から距離をとった。
湯気の出る頭を守護者が翼で優しく撫でている。
「そっか、それなら好きなだけくっついていたらいいよ。お母さんなんでしょう、君が作った」
意地悪をしない。
そう宣言しつつも博士の言葉には棘が潜んでおり、視線もどことなく冷たい。
守護者は清川が関わることについては敏感だ。
また清川が泣かされるのでは? と身構えたが、彼女の方は特に気にしていない様子で頷いた。
「うん、あのね、そのことで話があったんだ。えっと、机を借りるね」
清川は真っ黒い机の上に一冊、分厚い本を乗せ、その隣に小学生の頃から少しずつ書き溜めてきた読書記録ノートを置いた。
「前、守護者さんの私を、『清川藍を守りたい』っていう願いは、本当に守護者さんから出たものなのかって、聞いたでしょ。契約で強制的に持たされた願いなんじゃないのか? 保護者として接する守護者さんの家族愛は偽物なんじゃないのかって」
清川の口にした問いは博士の純粋な疑問だが、それを彼女に投げつけたのは嫉妬心による八つ当たりだった。
「うん、そうだね」
淡々と出される清川の言葉に博士は知らず知らずのうちに苦笑いになると、素直に頷いた。
「それでね、私、あの時、泣いちゃったでしょ? 何も答えられなくて。あれね、後からすごく恥ずかしくなったの。自分よりもちっちゃい子に泣かされちゃったのも恥ずかしかったんだけどね、一番、恥ずかしくて悔しかったのは、守護者さんに守ってもらったことだったんだ」
博士の問いに守護者自身が答えたことを言っているのだろう。
守護者は、あの日キッパリと自分の言葉で博士の言葉を否定した。
それはあくまで自分の為であり、自分が答えても良い範囲内での回答という体をとっていたが、やはり行動の根源には清川がいた。
あれは不安がる清川への回答だったのだ。
守護者自身の意志が宿った言葉に清川は不安が解れて泣きじゃくり、その後も優しく慰めてもらっていた。
しかし、後から当時の自分を思い出すと恥ずかしくて仕方がなくなってしまった。
今も彼女は羞恥で目元を薄桃色に染めている。
「私ね、守護者さんに守ってもらえるの、凄く嬉しい。お母さんは、本当のお母さんがいるから、守護者さんをお母さんって呼ぶのはちょっと違うんだけれど、でもね、私の中で守護者さんは、やっぱりお母さんで、物凄く身近な神様なの。私ね、守護者さんのこと大好きなんだ。だから、私が自分の言葉で答えなきゃいけなかったの。あの時だけは、絶対にそうだったんだよ。でも、できなかった。それが凄く恥ずかしくて悔しかったの」
遠足の帰り道、バスで一睡もしなかった清川は悔しさと怒りでいっぱいだった。
勿論、怒りの対象は博士や守護者ではなく自分自身だ。
あの時だけは、自分の言葉で守護者を肯定しなければいけなかった。
あの時だけは、守られてはいけなかった。
そんな思いばかりが心臓の内で渦巻いて清川の脳を覚まし続けた。
彼女は珍しく本気で怒っていたのだ。
あの日以降、清川は守護者の家族愛と守護を証明する方法ばかりを考えるようになった。
初めは一人きりで悶々と考えていたのだが、上手く言葉がまとまらないし、煮詰まってしまう。
清川が思考の手助けとして選んだのは、図書館で借りた「愛」についての書物だ。
博士の元まで持ってきた本は一冊だが、実際には短期間で随分とたくさんの本を読んだらしく、手帳には大量に書籍のタイトルが書き連ねられていた。
「この、カギ括弧の部分は書籍の引用? 凄いな。僕は人間の心理に疎いから、興味深いや」
簡単な内容のまとめと考察、それに感想が書かれた帳面を読み、博士が目を丸くする。
何気に守護者以外に手帳を読ませるのは初めてだ。
清川は照れて頬を掻いた。
「うん、たくさん本を読んだの。お恥ずかしながら、内容が難しすぎてギブアップした本もあったんだけれどね。本を読んでいく内に、納得できる言葉や考え方が出てきて、答えと思えるような言葉も見つけられた。持ってきた本は、その中でも特にお気に入りなんだ。でもね、博士さんに説明するって考えたら、なんか違うなって思ったの」
机上の本を胸に抱いた清川がふんわりと微笑む。
それから彼女は手帳と本をトートバッグに仕舞い、そっと博士の手を取った。
「あのね、結局、上手い言葉は見つけられなかったんだけれど、それでも答えを言うね。あのね、『あったかいから』だよ。守護者さんに助けてもらった時、温かいと思ったから。今も、いつも。守護者さんの細かい気遣いには、私への愛情が滲んでいると思うから。確かに守護者さんの愛情の始まりは、私が『そういう風に』つくったからだよ。でも、私は守護者さんの私への言葉を信じたいし、私も、自分の胸に広がる温かさを信じたい。だから、愛情は本物だと思うの」
柔らかな唇で丁寧に言葉を紡ぐ。
真直ぐな光の宿った清川の瞳が、驚嘆と緊張の奥で怯えた博士の瞳をしっかりと捉える。
二度瞬きした数秒後、博士はバツが悪くなってフイッと目を逸らし、静かに逃げ出した。
「そっか……やっぱり、答えになってないね。でも、きっと藍さんは、もう泣かないんだね」
清川を見ることができないままで紡がれる言葉は呆れがちだが、降参したかのような弱った響きが混ざっている。
清川が真剣な表情でコクリと頷いた。
「良いと思う。納得できないけど、それでも、君の答えも守護者さんの答えも正しいんだと思う。本当は前に言われた時からわかってたんだ。でも、認められなかった。ごめんね」
博士は真っ黒い瞳をギュッと閉じて白衣を固く握り締めながら謝っていた。
絞り出すような「ごめんね」は、かき消えてしまいそうなほど小さい。
だが、
「ううん。私も、泣いてごめんね」
と、清川が謝り返した時にはキチンと彼女の方を向いて、
「いいよ、大丈夫。泣かせてごめん。本当に、ごめんね」
と、もう一度だけ謝って白衣から手を放した。
そして、トートバッグを肩にかける清川の服の袖をキュッと握った。
「それだけ話したら帰っちゃうのかい? ここには、いくつかゲームがあるよ。高校生の藍さんからしたら、あんまり面白くない物かもしれないけれど」
上目遣いになって捨てられる寸前の子犬のような表情で問いかけてくる姿が妙に可愛らしい。
清川は胸がキュンとなって、優しく頭を撫でた。
気分は困ったちゃんな弟の面倒を見る姉だ。
たまに、自分のことを妹のように扱ってくる金森の気持ちが少し分かった気がした。
「ごめんね。今日は用事があるから、帰らなくちゃいけないんだ。でも、もし良かったら、一緒に行かない?」
トートバッグから取り出して博士に手渡したのは、花火大会のチラシだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます