7,眼上雨界

 三澤は先程とは真逆にゆっくりと、穏やかな気分で道を歩いていた。まだ何も解決していないのにかかわらず、呑気に。


「この辺だっけ……」


 但野、南、木村、木原。

 ——この事実さえ伝えれば、木原さんも安心できるだろう。あとは明日まで護衛するだけ。完璧だ。


「あった……。——あ」


 三澤は目を合わせた。目も無ければ、人間ですらない、ただの刀と。

 ——なんでだよ。

 互いに固まる。コンマ数秒の沈黙を打ち破ったのは、妖刀の方だった。

 見られたからには仕方ないとばかりに、宙を浮かぶ刀は空を裂く。

 空を舞う太刀筋はおよそ人間にできるものとはかけ離れた、隙間ない太刀筋。

 それをかろうじて躱しながら、三澤は携帯を操作する。


「——もしもし」

「佐伯、全開で、頼む」


 言い終わると同時に、冷たい鉄が肉を裂く。

 肩口からの袈裟切り。

 それに対し、三澤は一歩、前へと飛び出した。

 肉を破り、刀は体を貫通する。


「——捕まえた」


 同時に、傷が一瞬のうちに消え去った。刀を腹に咥えたまま、三澤の体は再生し続ける。

 腹の中で暴れる刀を、再生し続ける肉体が抑えつける。

 絶えず流れる血は瞬きする間に体内に戻っていく。

 受動的な不死身の体。三澤の体に未だに残った異常、その在り方は変わってしまったものの、不死身そのものは健在だ。

 

「——痛いな――」


 三澤は噛みしめるように呟く。

 視界は点滅している。過剰な痛みは脳を焼き焦がす。焼けるような痛みを大切に抱えながら、三澤は路地裏へと歩いた。

 その場に座り込み、三澤は携帯を開く。


「……もしもし。妖刀捕まえたから、——。うん、了解」


 簡潔に連絡を済ませ、携帯をポケットにしまい、目をつむる。

 ——痛みにはまだ慣れない。でも、それほど悪くない。

 

 数十分後、猫車を押しながら、路地裏に佐伯が入ってくる。


「はい、乗って」

「……車でも持ってきてくれると思ってたんだけど」

「ないわよ。免許も車も……。猫車」

「それに乗るよりは、走った方が早いだろ」


 三澤は平然とそんなことを言う。


「……そんな恰好で歩けないわよ。はい、これ」


 猫車の上にはブルーシートが載っている。

 ——死体でも運ぶみたいだな。などと、呑気なことを考えながら、三澤は猫車に乗り込む。


「うぉ……意外と難しいわね」


 三澤の乗った猫車は重量と暴れる妖刀も相まって、かなり不安定になっている。


「大丈夫か? 疲れるだろ、重いし」

「問題、ないわ」


 はらわたをかき回されながらも佐伯を気遣う三澤に答えるように、佐伯は猫車を押した。


「……あと少し、ちょっと、動かないでよ」


 猫車は森の中に突入していた。


「いや、こいつが」

「…………見えないからわからないわ」


 佐伯がおどけた様子で話す。

 ——あーあ、ちょけはじめたよ。でも体は逆らえないのでした。


「はたして、ブルーシートの下に俺は居るのだろうか」


 佐伯は疲労で、三澤は痛みによって、集中力を完全に切らしていた。


「……鳴いちゃだめよ。箱の中の猫になりたいのなら」

「俺、幽霊かもしれないぞ。——ちょっ」

「ちょっ……あ」


 舗装もなくなり、不安定な地面。こうなることも時間の問題だっただろう。

 転倒。そしてさらに不運なことに、剣の柄に三澤の手が触れてしまった。

 ――瞬間、全身から力が抜ける。意識はすべて保たれたまま、倒れた体が動き出す。

 息ができない。否、息をしていない。それは、この身体を操っている何かが人間ではないことを物語っていた。

 妖刀はぎこちなく、それでいて迅速に立ち上がる。


「あ……まずい」


 軽く腰を落としながら、佐伯は妖刀に操られた三澤と相対する。

 妖刀は右手を柄に置いたまま、よろけながら佐伯の方へ歩く。柄に置かれた右手は、常にその刀を引き抜こうと力を込めている。

 しかし、その刀は動きはすれど、抜けることはない。絶えず再生する肉体が、刀を押さえ続けているからだ。

 三澤の再生に必要なのは佐伯の意志だけ。体を乗っ取られようと、刀が抜けることは有り得ない。

 

「……聞こえる?」


 妖刀はたどたどしい足取りで歩く。刀が抜け無かろうと関係ない。そもそもの肉体スペックが違うのだ。この状態でも、こいつは殺せる。

 妖刀の足取りはだんだんと確かになっていく。たった数メートルの距離は、三澤の肉体にとってはないも等しい距離。


「聞こえるなら、——よろしく」


 佐伯の伸ばした手から、陰が落ちる。

 比喩などではない、本物の影。暗く、黒い、薄っぺらな闇。

 その正体は黒い紙吹雪だ。だが、今となってはそんなことは関係ない。

 地面に達した影は根を張り、辺りを侵食していく。

 辺り一面の影。それは世界の目を逸らす結界である。

 三澤のように、人間という種のルールを一人で破る分には何の問題もない。だがその異常で世界を侵食しようというなら、世界はそれを見逃さない。


「——雨転」


 世界の死角、小さな影の中、佐伯はその世界を、自分の幻想で書き換えた。

 

「眼上雨界。——少し、我慢して」


 意識を保っている三澤に一言伝えると、佐伯はその眼を開いた。

 水滴が空にとどまっている。まるで大雨の中の一瞬を切り抜いたような、異質な風景。

 ざあざあと、森に水の音が鳴り響く。

 佐伯は腕を掲げ、下ろす。

 とどまった水滴は集まり、槍のように飛ぶ。

 狙いは精密に、柄を握る右腕を。

 妖刀は乱暴な体さばきで、水滴の槍を躱す。

 肉体的には、水滴がすべて地面に落ちるまで躱し続けることもできただろう。だが、その動きはあまりにも大きく、無駄が多すぎる。

 たった数秒、それだけで決着はついた。

 水滴の槍は右腕を完全に切り離す。

 再生を続ける三澤の肉体にとって、それはダメージにすらならない。だが、一瞬、柄から手が離れた。

 制御を失った三澤の肉体はその場に倒れ込む。

 暫くして、緩慢な動作で起き上がった三澤は、一目散に背後に駆け出した。三澤は息をしていない。

 柄を握る必要なんて、初めから無かった。その刀身に触れてさえいればいい。それだけで肉体は操れる。

 何度も転び、即座に立ち上がる。妖刀にとって、人間の走るという動作はあまりにも高度だった。それもそのはず、人間なら意識せずとも歩く動作や走る動作ができるのに対し、脳を持たない妖刀は、筋肉の一つ一つを意識して動かしているのだから。


「……意味がないってこと」


 どうやっても操られてしまうなら、このまま妖刀を三澤の中に留めておいても意味がない。

 佐伯は三澤の再生を一時的に解く。幸いなことに、妖刀が逃げた先は底なし沼の方角。沼との距離は近づいている。それこそ、小突けば落ちるぐらいに。

 無数の水滴が壁のように妖刀を取り囲む。

 妖刀は三澤の肉体から脱出すると同時に、宙を浮いて背後に逃げ出す。

 妖刀は水滴を軽く切る。

 水が切れるのは当たり前だ。だがこの場合、この状況の水滴は鉄並みの強度となっている。


「……石も食べるんだっけ」


 雨は降るもの。上から下へと落ちるもの。よって、水滴は下から上へとは上がらない。

 弾切れだ。佐伯の身体能力では妖刀に追いつくことは出来ない。三澤は立ち上がろうとしてはいるが、それも間に合わない。

 ――万策尽きた。

 妖刀は沼の上を通り過ぎていく。

 その直上、木の上から、人影が落ちてきた。

 三澤はその人影の顔を確かに見た。


「……木原さん」

 

 

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