3、七月八日
休日と言えど、三澤はきっかり七時に目を覚ます。
この時間に起きることは習慣だということもあるが、それよりも時間を大切にしたいからだ。休日に昼まで寝るのも、肉体的には良いかもしれないが、精神的には少し損したような気分になる。
そんなわけで、三澤今日も、無機質なアラーム音に大人しく従う。
――喉が渇いた。
三澤は数世代前の携帯をポケットに突っ込むと、部屋のドアを開ける。
まだ薄暗いはずのリビングは白い光で照らされていた。人間が作り出した小さな太陽に照らされた部屋のソファーには、佐伯が寝ころんでいた。
「おはよう、佐伯。早いね」
「早くないわ。寝てないもの。三澤くんは速いわね」
「……起きるまでか。まあ、そうだけど、だめだぞ、寝なきゃ」
「あなたに言われたくはないけど、大丈夫。昨日は昼に八時間寝たから」
話す間も、佐伯は本から目を離さない。
本を読みながら会話をするというのは、三澤にはかなり難しい行為に思えた。
三澤はソファーの端に腰を下ろし、テレビの電源を付ける。
「火は消し止められましたが、焼け跡から、二人の死体が発見されました……」
どこか遠くで大きな火事があったらしい。三澤にすれば、大して興味もわかなければ、現実感もわかない話だ。
三澤は辛気臭い話を聞きたい気分でもないので、チャンネルを変える。
「火事……最近は物騒ね」
「だな……」
適当にチャンネルを変えたが、その先でもニュースをやっていた。曰く、最近は殺人鬼も出るらしい。
言葉では物騒というものの、そこまでの現実感は感じられない。たとえそれが身近な出来事であっても。
「というか、相当近いな」
「この街にいるかもしれないわね」
佐伯は楽しそうにそんなことを言う。
「別にいいけど、無茶するなよ」
――朝食を食べたと思ったら、いつの間にか昼食の時間になっていた。学校に居る時とこうも違うものか、これは単に物事への集中具合というわけでもないだろう。寝て過ごすよりも早く感じる時間なんて、おかしいだろう。
佐伯はどこかに出かけていったので、三澤の作る昼食は一人分だ。
三澤は手早くカップ麺で昼食を済ますと、支度を済ませ、玄関を開けた。
ここからはファミレスで夜までバイトだ。
昼間の曇り空はつい見上げたくなる。きっと目に優しいからだろう。
電柱より高い建物がない住宅街をしばらく歩き、少し大きな通りに出る。そこからもう少し歩くと、到着だ。
バイト先の店長は非常に陽気な人で、それに吸い寄せられたのか、バイトの同僚にも明るい人が揃っている。
騒がしいと言えばそうだが、退屈はしない。
バイトの七時間はあっという間に過ぎた。三澤は着替えを済ませ、携帯を確認する。
”遅くなるかもしれない。夜はいらない”
佐伯からメッセージが届いていた。
簡潔で、飾り気のない文章。いつも通りの佐伯の文だ。
――どうやら苦戦しているようだ。大事にならなければいいが。まあ、佐伯なら大丈夫だろう。
三澤は気持ちを切り替え、自分のことを考えることにした。
夕食を作らなくて良い分、少し時間が浮いた。今日はなにをしようか。
「あ……」
ぼんやりと、少し先の未来を考えて歩いていると、道の先に人影が見えた。
「木原さん」
向こうに合わせ、こちらも手を振り返す。
木原はラフな私服を着ていて、肩からはトートバッグを下げている。これから買い物にでも行くのだろう。
「三澤さん、買い物ですか?」
「いや、バイトの帰りです」
「へぇ……どこですか?」
「あそこです、あれ」
三澤はは先程まで居たファミレスを指差す。
「水曜と土日は、あそこです」
木原は一瞬目を丸くして。
「週七じゃん」
と、呟いた。
「……大丈夫ですか?」
「まあ、うん。あんまり疲れはないですし」
疲れがない。それは半分本当で、半分嘘の言葉だった。肉体的に、三澤は消耗しているのだが、三澤はそれに慣れてしまっている。それに苦痛を感じていないのだから、疲れていないとも言えるのかもしれない。
「木原さん、今から買い物ですか」
「まあ、そのつもりですけど……」
木原は一瞬考えるようなしぐさを見せた後、ぱっと顔を上げる。
「三澤さん、これからご飯、どうですか?」
木原はそう言った後、俯き気味に視線を逸らし。
「……よかったらで、いいんですけど」
と、付け足した。
「俺は大丈夫ですけど……いいんですか」
木原には弟が居ることを、三澤は知っている。その弟の世話をしていることも、知っていた。
「弟ももう中学生なんで、ご飯ぐらいは大丈夫でしょう」
「そうですか、じゃあ……」
そこで言葉に詰まる。
「何食べましょう」
三澤は今日、何も食べない予定だったため、食事については全く考えていなかった。何か食べたいものでもあれば、こういう時に楽なのだろうけど。
「じゃあ、カレーがいいです」
木原の提案したカレー屋は、ここから歩いて十分ぐらいだ。
「じゃ、行きましょう」
日はすっかりと落ちている。人口の光を浴びながら、二人は歩き出した。
一人なら八分の道を十五分かけて歩き、目的の店にたどり着く。
やたらと広い店内に、まばらに人が散っている。
二人はは端の方の席に座ると、それぞれ料理を注文した。
「……三澤さんって、普段何してるんですか?」
「学生と、バイトですね」
「あ、趣味とかです」
「……本読んだり、ゲームしたり、いろいろです」
「そうなんですか、私も本読むんですよ……どんなの読みます?」
店員が二つの皿を持ってきて、それぞれの眼前に置く。
三澤前に置かれたのは普通のポークカレーで、木原の前にはビーフカレーをものすごく辛くしたものが置かれている。
「ミステリーが多いですね。進めてくれた人が居て、その人の影響で」
その人とは佐伯のことだ。
「へぇ……私、ミステリにはあんまり明るくなくて、なにか、おすすめとかあったりします?」
木原はそう言って、カレーを一口、口に含む。
「最近読んだのだったら……大丈夫ですか」
木原はコップを手に取り、勢いよく飲み干した。やはり、辛かったのだろう。
「……大丈夫。めっちゃ辛いですけど」
そう言いながら、二口目を口に入れる。
三澤が水を注ぐとほぼ同時に、コップが空になる。
――そこまでして辛いものが食べたいのかは疑問だが、人の趣味嗜好にとやかくいうのは野暮というものだろう。
「……というか、いつそんないろいろやってるんですか」
カレーを食べ終わった後も、木原はしきりに水を飲みながら話す。
食事中の木原は余裕のなさそうな様子だったので、一方的に三澤が話すような形になっていた。
「帰ってからですね」
「帰ってからって、家事とかもしてるんですよね」
「終わってからです」
「……いつ寝てるの」
木原はそう呟く。まるで化物を見るような目をしながら。
――そんな目をされるなんて、心外だ。——心外ではあるが、あながち間違いでもない。少し前までは、その目線こそが事実だったのだから。
「……さて、そろそろ」
それからしばらくした後、木原がそう言って立ち上がる。
時刻は午後九時半。家族のいる木原はそろそろ帰らないとまずい時間帯だ。
三澤は立ち上がり、会計票を手に取る。
「あ、いいですよ。払います」
財布を取り出そうとする木原を手で制す。
「……悪いですよ」
――どうやら、何か勘違いされているようだ。
「大丈夫です。お金には困ってないので」
「……?」
木原は意味が解らないとばかりに数度瞬きをした。
「じゃあ、また」
「じゃあ、ありがとございました」
小さく会釈をし、二人はそれぞれ反対側に歩き出す。
特に最近は物騒なので、家まで送っていったほうが良かったのかもしれないと、考えた三澤は振り返るも、そこには誰もいない。
空に浮かぶ深い闇。そこには星はおろか、月さえ見えない。
深い深い黒。実際は雲に遮られただけの黒色。星が見える時よりも浅い空。
三澤がそんなとりとめのないことを考えている内に、いつの間にか彼の家の目の前に立っていた。
玄関を開ける。佐伯の靴は無い。
佐伯は大丈夫だろうか。この天気で一人だと、何かあったら危険だ。
「……まあ、大丈夫か」
三澤が必要なら、佐伯はためらいなく呼びつけるだろう。それがないということは、一人でも大丈夫だということだ。
なら、三澤が今日するべきことはなくなった。
三澤は佐伯の部屋に入り、本棚の前に立つ。
名前だけ聞いたことのある本の中の一つを手に取り、自分の部屋に戻る。
三澤は本を閉じる。
午前4時、三澤のいつも通りの就寝時間だ。
瞼を閉じると同時に、どっと全身が重くなる。それに身を任せ、沈む。
目を覚ます。
午前7時。三澤は今日もアラームで目を覚ます。
携帯をポケットに突っ込むと、部屋のドアを開ける。
まだ薄暗いはずのリビングは白い光で照らされていた。人間が作り出した小さな太陽に照らされた部屋のソファーには、佐伯が寝ころんでいた。
「……早いね、いつ帰ったの」
「……私、どこにも行ってないわよ」
佐伯は訝しげに三澤の方を見る。
その手元にある本は、昨日佐伯が読み終えたと言っていた本だった。
「今日、日曜だったっけ?」
「何言ってるの。とうとうぼけ始めた?」
携帯の画面を見て、三澤の疑惑は確信に変わる。
昨日と同じ日付。今日は7月8日だ。
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