2、金曜日
耳障りな音が部屋中に鳴り響く。
ぼやけた思考のまま、三澤は半ば機械的に枕元のスマホを掴み、アラームを止める。
時刻は丁度七時。画面の光が目に痛い。
このままもう一度目を瞑れば、簡単に意識を飛ばせるだろうが、残念ながら今日は平日だ。
三澤は布団を蹴り飛ばし、起き上がる。体を動かすと、急激に頭が冴えてくる。
リビングには適度に光が差し込んでいる。
三澤ははトースターにパンを二枚放り込み、ヤカンに水を入れてコンロに乗せる。
自然とあくびが出る。のんびりとした、普段どうりの朝だ。
しばらくすると、トースターがチンと音をたてる。取り出したパンにマーガリンを塗り、一枚ずつさらに乗せる。
――飲み物は、後で入れよう。
「佐伯、起きてる?」
三澤はは佐伯の部屋を軽くノックしながら、声をかける。
これも、形だけのことだ。どうせ佐伯は起きていないことは、三澤は十分すぎるほど理解していた。
「入るよ」
三澤はドアを開けて、佐伯の部屋の電気をつける。方角的に、この部屋には朝日が差し込まない。
部屋の床は本やらプリントやらが散乱している。
「おい、佐伯、朝だぞ」
三澤は布団を軽く叩きながら声をかける。
「ん……」
佐伯はうっすらと目を開ける。焦点の合わない視線が合うまで数十秒。それから、ぼんやりとした表情がいつもどうりの涼しげな表情になるまで数秒だった。
「おはよう」
「おはよう、三澤くん」
佐伯はゆったりとした動作で立ち上がると、リビングの方へ向かって歩いた。
「飲み物、何が良い?」
「シェフの気まぐれでお願い」
「全部インスタントだけどね」
――俺は……。
なんとなくで、ミルクティーの袋を手に取る。目が合ったというやつだ。
「紅茶は赤色だから紅茶で、緑茶は緑色だから緑茶なのに、黒色のコーヒーはなんで黒茶じゃないのかしら」
音量は小さくはあるが、よく通る声で佐伯が話す。声色と、おそらく表情も真面目そのものだろうが、雑談の前振りだ。
「お茶じゃないからじゃないか? コーヒーは」
「ちゃっかり気付くとは着々と成長している様ね、みちゃわくん」
「ちゃって言いたいだけだろ」
そもそもあの問いには意味はなかったようだ。
「あちゃー、ばれちゃった」
「すごく白々しい」
「……白。あ、そうね。三澤くん、今ミルクティー作ってるから。ごめんなさい。すぐに気づけなくて」
「一緒にするな」
三澤は何とか会話に食らいついているが、内容はいまいち理解できていない。
「自分はミルクとティーを一緒にしてるのに。そんなこと許されないわよ」
「言葉狩りが過ぎる」
――今作っているミルクティーはインスタントだから、もともと一緒だったのだけど。それを言うと、水と粉を一緒にしてるじゃない。と、言われるのはわかり切っている。
二人で愉快な会話を繰り返しているうちに、パンとミルクティーは胃の中へと消え、皿とコップだけが机の上に残った。
支度を済ませ、玄関で靴を履く。
「よし、行こう」
佐伯が来るのを待ってから、三澤は玄関のドアを開けた。
朝の空気は軽く、鬱陶しい日差しさえも爽やかに思える。それに反して、すれ違う人の表情は暗い。
佐伯はいつもどうりの無表情だ。
学校までは徒歩で二十分。
八時から歩いて、学校に着いたのは八時二十五分だった。
校門前で佐伯と別れ、教室へと向かう。
数人のクラスメイトと軽く挨拶を交わし、三澤は自分の席に座る。
舟を漕ぎながら授業をやり過ごし、昼休みを迎える。
購買でパンを買い、中庭のベンチに座る。普段、三澤は昼食をとる時はもう少し静かなところでとるのだが、珍しく一つだけベンチが空いているのが目に入ったので、座って食べることにした。
「三澤さん、隣、いいですか」
腰を下ろすと同時に、横から声がかかる。
三澤が振り向くと、声の方に居たのは上級生の女子。数秒考え、記憶と顔を一致させる。
「木原さん。大丈夫ですよ」
木原さんは総菜パンと小さな水筒を携えている。タイミング的に、空いたベンチに目を付けたも、先を越されてしまったが、それが知人だったから、一緒に食べようといったところだろう。
「ご飯、普段からこの辺で食べるんですか?」
「いえ、今日はたまたまなんです」
「ああ、俺もです」
「ご飯ってほど、大したもの食べてないんですけどね」
木原さんは小さく笑いながら、パンの袋を開ける。
「お弁当でも、作れればいいんですけど。私、早起きは苦手で」
「お弁当ですか……ちょっとだけ、憧れますね」
三澤も早起きは不得意で、弁当は作っていない。
佐伯は昼は食べない派なので、同居人のことを考えても、弁当を作る必要はない。彼女は今頃、教室で寝ているだろう。
「ただでさえ、ちょっと寝不足ですから……」
「昨日、遅かったですからね。何時ごろに帰れたんですか?」
「十二時ごろになっちゃいましたね。そこからいろいろやってると、二時とかになっちゃって」
「わかります。家事とか、ありますからね」
「ですよね……母さん、何もしてくれなくて」
三澤は何となく感づいてはいたが、木原の家庭環境はあまりいいとは言えないようだ。
それから、木原は打ち解けたように話を始めた。半分は愚痴のようではあったが、それも仕方ないことだろう。彼女は選べずにこうなっているのだから。
三澤が購買で買ったパンの味はそこそこだった。
「三澤さん、マルマエ、どれぐらい入ってるんですか」
マルマエというのは、三澤たちが昨日バイトをしていたスーパーの名前だ。
「平日は、水曜以外ですね」
「じゃあ、今日も一緒ですね」
その言葉の通り、三澤がバイト先に向かうと、マルマエの控室には一足先に木原が座っていた。三澤は昨日と同じ時間にここに来たから、木原は昨日より少し早くここに来たということになる。
「あ、三澤さん」
木原は口元を緩めながら、小さく三澤の方に手を振る。
これからバイトだというのに、やけに機嫌がよさそうだ。
「木原さん、何かあったんですか?」
「え、いや……何か変だったりします?」
「いえ、なんだか楽しそうなので」
「そうですかね……」
木原は照れくさそうに笑う。
確実に、何かいいことがあったのだろう。
何事もなく平穏にバイトを終え、何事もなく一日が終わり、何事もなく平日が終わる。
長いようで、思い返してみると短いような一週間。これはただ単に、思い出すような特別なことが何もないというだけだ。しかしそれも、ネガティブに捉えるべきことではないのだろう。
朝昼夕、土曜日も終わる。これの繰り返しだ。
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