1、平均的な放課後

「そう、私は孤独ではなく孤高。弧よりも強い個であり、独なのよ」

 

 と、佐伯汐里は平坦な口調で力説している。

 佐伯汐里。汐の里と書いて、汐里しおり。黒い髪を背中まで伸ばした、端正な顔つきの少女。

 彼女は本にしおりを挟みながら、めったに動かない硬い表情をほんの少しほころばせ、隣に座る少年に向けている。


「私の場合、独と書いて”こ”と読むの」

「それだと独独になるぞ。孤独と言おうとすると。紛らわしいじゃないか。ポケモンの技みたいになってるぞ」

「私以外は言わないからいいの。それに、私が独独と言ったら、こドイツになるわ」

「どんなドイツだよ」

 小ドイツなのか、子ドイツなのか、それとも己ドイツなのか。

「強いて言うなら、三澤くんの目の前のこいつよ」

「己だったのか」


 会話が一区切りついたところで、三澤と呼ばれた少年、三澤蒼平は周囲を見渡す。

 放課後の図書室。静寂に包まれた、静寂そのものともいえるような空間の、さらに端。ぽつんと置かれた三つの椅子のうち、二つに二人は腰掛けている。


 先程の会話の通り、佐伯汐里は清楚な見た目と愛想のなさに反して、案外愉快な人物だ。

 孤立している自分をネタにできる程度には孤独であり、それを冗談にできる程度の交友関係も持っている。三澤も似たようなものだ。


「ところであの人、どうしたんだろうね」


 佐伯が目線を向けた方には、一人の女子生徒がカウンターの前に立っていた。柱が影になり、カウンターからは三澤たちが座っている場所は見えないが、三澤からは見える。

 その彼女は一見普通の女子生徒に見えるが、ジャージの長ズボンを履いていた。


「彼女、おしっこを漏らしたんじゃないかしら」


 佐伯はそんなことを言う。無表情のままで、平坦な声色で。


「いや……それは」

「まず、なぜスカートをはいていないのか。それは何らかの影響で汚れたと考えられる。それであのジャージ姿。でもあのズボン、名札がついてないわ」


 学校指定のジャージには背面に名札を縫い付けるのが決まりだ。つまり、それがないということは。


「学校の物か」

「そう、借りざるを得なかった。あの人、私のクラスメイトなんだけど、普段はスカートの下に短パンを履いているの」


 ――そういう事、男に話してもいいものだろうか。

 ――というか、クラスメイトに不名誉な濡れ衣をかぶせようとしているのか、こいつは。


「単純にスカートが汚れただけなら、スカートだけを脱げばいい。でも、内側から液体が漏れ出したなら、短パンも汚れるの。だから履き替えた」

「まった。水でもこぼしたんじゃないか? それなら、スカートぐらい貫通するだろ」

「もしそうなら、なぜわざわざ職員室まで行って体操服を借りたの? そんな面倒なことはせず、友達にでも借りればいい」


 三澤のクラスは今日体育の授業があった。見た目からして活発そうな彼女は、当然交友関係も広いのだろう。三澤のクラスにも体操服を借りれる友人の一人や二人、居るはずだ。


「そうしなかった理由。それはスカートと短パンが汚れた理由を隠さなきゃいけなかったからよ。隠さなきゃいけない、恥ずかしい理由。すなわちおもらしなのよ」

「着替えてさえしまえば、後は何とでもいいわけができるな」


 三澤は納得しかけていた。こじつけがましいが、筋は通っている。確かに、カウンターの前で図書委員と話している彼女は漏らしたのかもしれない。


「……あ。ズボン、反対向きだ」


 三澤の視線はズボンに注がれていた。理由は無く、ただ見つめていた。その時の発見だ。

 ポケットが付いていた。腰の少し下に二つ、反対向きに。

 それからほどなくして振り向いた彼女のズボンには、しっかりと名札が付いていた。


「あ、確かにそうね。……何がっかりしてるの」

「してない。自信満々の推理が外れて、そっちの方ががっかりしてるんじゃないか?」

「心外ね。適当な与太話のつもりだったのだけど。……もしかして、ジャンプの与太考察を本気で信じてるタイプ?」

「いや、信じない」

「シャンクスが黒幕だと本気で思ってるタイプ?」

「それも違う」

「中盤で死んだ三郎がメカ三郎になって復活してくると本気で信じてるタイプ?」

「メカ三郎は出てきたぞ」

「嘘……」


 本気で驚いている表情だった。

 今日一日で一番佐伯の表情が動いた瞬間だろう。

 再び、無言の沈黙が辺りを包む。二人にとって決して不快ではない、居心地のいい沈黙。

 

「あ、そろそろ五時だ」


 三澤の放ったそれは独り言のようで、佐伯に向けた言葉でもあった。

 佐伯は無言で立ち上がり、紺のブックカバーを付けた本を鞄の中に入れる。

 カウンターに座っている司書の先生に小さく会釈をし、二人は並んで図書室のドアを開ける。

 放課後の閑散とした校舎はどこか冷たく、遠くから聞こえて来る運動部の掛け声も相まって、ノスタルジックな雰囲気を醸し出している。

 というものの、三澤としてはこの景色には慣れたものだ。今更、変に感慨を覚えたりはしない。

 校門を出て、少し先の交差点。右へと向かう三澤に対し、佐伯は左へと曲がる。彼女はこの後すぐ家に帰るらしいが、三澤には予定がある。

 楽しい予定というわけではない。バイトの予定だ。

 バイト先はどこにでもあるような、普通のスーパー。都会にはないのかもしれないが、三澤の知っている範囲の街なら、どこにでもあるような、ありふれた職場。

 着替えを済ませ、控室で少し時間を潰す。


「あ、こんにちは」


 女の声。部屋の入り口からだ。

 部屋の入り口に立っていたのは、三澤と同じぐらいの年の少女。小さな会釈と共に、肩のあたりで切りそろえられた髪が揺れる。

 どこか暗い顔立ちは、三澤の脳内にあるここの同僚の物とは一致しない。


「……今日からの子だっけ?」


 パートのおばさんが気さくに話しかける。


「はい、よろしくお願いします」

「そっか。じゃあね……」

「三澤くん、品出し、教えてあげて」

「あ、俺ですか」

「そうそう。おんなじ学校なんでしょ」


 ――同じ学校だから話しやすいということは無いと思うのだが。まあいいか、どうせ、働く時間は変わらないのだから。何をしていても同じだ。


「えっと……」

「木原です。木原夕」

「あ、三澤蒼平です。じゃあ、まず……」


 三澤は一通りの説明を終えると、何か困ったことがあったら言ってねと付け足し、俺は自分の仕事を始めた。

 三澤の説明は初めてにしてはうまくいっていた。木原も真剣に話を聞き、初日とは思えないほどテキパキと仕事をこなしている。

 三澤は五時間きっちりと仕事をこなし、更衣室で制服に着替える。

 裏口から外に出ると、外はもうすっかりと暗くなっていた。

 空の闇は深く、星も、月も見えない。雲に遮られた空。浅い空。それを深いと言い現わしたくなるのは、単に三澤のの語彙力の問題なのだろうか。


「お疲れ様です」


 呆然と空を眺めていると、近くから声がかかる。三澤からすると見慣れた制服だが、校章の色が少し見慣れないものだった。緑色の校章。


「先輩だったん……ですか」

「あれ、気付いてなかったんですか」

「まあ、はい、そうですね」


 三澤の先輩ということは、彼女は三年生だ。受験生がこの時期からバイトを始めるとは考えにくかった。無意識のうちに、三澤はその可能性を除外してしまっていたのだ。


「私は気づいてましたよ。ほら、時々見かけますから」

「そんな目立ってます?」

「いえ、なんとなく目に止まっちゃうんですよ」


 要するに、三澤は目立っているらしい。

 ——木原さんがが勝手に目止っているだけですよ。などと言うセリフが三澤の頭の中に浮かんだが、踏みとどまる。そんな微妙なボケは、今日が初対面の相手に向けるものではない。


「じゃあ、また」

「はい、お疲れさまです」


 人の多い場所、駅前まで木原さんを送り、今度こそ、三澤は自宅に向けて歩き出す。

 人口の明かりで照らされた駅前は夜なのににぎやかで、何処か決まった場所に向かう人々ばかりの朝よりは、よほど活気に満ち溢れた場所のようだ。

 昼から夜へ、反転ではなく、地続きの一日。それももう終わりだ。

 家に帰るには、時刻は十時を迎えていた。


「ただいま」


 三澤は玄関を開け、同居人に帰宅を告げる。


「あ、お帰り」


 佐伯は一瞬顔を上げるも、すぐに本に視線を戻した。

 


 

 

 

 



 

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