ゲンイチロウとカナタが昼食から戻ってきたので、シオリとナオトはイルカの浮袋を伴って流水プールレイジー・リヴァーに向かった。休憩場所パラソルシートからは時間にして、時計の秒針が一周するくらいで到着した。

 全長は六五〇メートルを超え、幅は最も広い場所で一〇メートルに及び、水深は一.一メートル程度で、流れに任せて漂うとすれば約三十分で一周する。流水プールに囲われた部分は青青とした芝地になっており、樹高の高い数本の椰子の木が茂り、プールの外側とは三ケ所の拱橋アーチ橋で行き来できるようになっていた。プールに芝生は珍しいこともあって、小さな子供たちを遊ばせるのに好評であった。これらの情報は、所長よりも優秀な調査員リサーチャーシオリが胸を張って説明したものに拠る。

 シオリはイルカを浮かばせてからプールに入った。ナオトは流れて行くイルカを目で追った。

「なにしてるの。早くプールに入ったら?」

 ナオトはシオリと並行するようにプール際を歩いた。

「このまま歩くのはだめかな?」

「そんなことしたって楽しくないじゃない」

「楽しみ方は人それぞれだと思うんだけれど」

 呆れたような表情をした後、シオリは自分を見るように告げた。

「あたしでも底に足がつくんだよ。全然平気だって」

 シオリはわきより上部が水面から出ていた。ナオトであれば鳩尾みぞおちあたりと推定される。渋渋ナオトはプールに足を入れた。その間にもシオリたちが流されて行くので、ナオトは足を引っ込めると、縁を歩いてシオリを追い越してからプールに入った。想定通りの水嵩に安堵したようで、心なしか、ナオトの表情には余裕がうかがわれた。

 水の流れはとても緩慢で、二人とイルカはゆっくりと一方向に流されて行く。シオリの報告通りに途中で三ケ所のアーチ橋をくぐり、穏やかで単調で、まったりとした時間が過ぎてゆく。出発した地点に戻ってくるとシオリは、急いでプールから上がり、ナオトを引っ張り上げ、息をつく間もなく足早に歩き始めた。

「まるでインターバル・トレーニングをしているみたいだな。この調子だとオリンピアンにでもなれそうだ」

 ナオトの愚痴が聞こえたのかシオリが振り返った。

「ぼやかない、ぼやかない。せっかく来たんだから完全制覇コンプリしないとね」

 前を歩くシオリの束ねている髪が左右に揺れていた。その様子を眺めながらナオトは、イルカを抱きかかえてついて行くと、急にシオリが速歩をやめた。接触を回避できたのはイルカのおかげなのだが、そのためにシオリを押すような形になってしまい、ナオトの瞳には、シオリがスロー・モーションのように前のめりに倒れて行くのが映り込んでいた。シオリが体勢を崩しながらナオトに目を向け、手は助けを求めて中空をさまよった。

 咄嗟であった。ナオトが右腕を伸ばしたのは脊髄反射であろう。そのおかげでシオリの手首をつかむことができたのは、不幸中の幸いであった。

「大丈夫か? 足ひねっていないか?」

「うん。大丈夫」

 深く息を吐き出して、ナオトは左手で額を拭った。

「それで、いつまでつかんでるつもり?」

「ああ、悪い」

 ナオトは手を離し、左手をそのまま頭頂部から後頭部へ滑らせて、眼前に広がるプールを不思議そうに眺めた。そんなナオトの様子を見て取ったシオリが大まかな説明を始めた。

「このプールはね、波のプールウェイブ・プールっていうんだって」

 波のプールは手前から奥に向かって緩やかな勾配があり、徐々に深くなってゆくように造られていて、最も深いところではナオトでも足がつかないほどだという。奥からは人工の波が海のように打ち寄せてくるような仕掛けが備わっていて、それが単調ではなく不定期に大きな波が造られるように、趣向をこらしているそうだ。

 大勢の人が笑い声を上げて楽しそうにしている。しかし、ナオトの表情は相変わらず冴えなかった。

「入る前からそんなに嫌そうな表情かおしないの。あたしを信じてよ、あまり深いところまで行かないから」

 ナオトの不安を察したシオリがつとめて明るく振る舞ったが、ぎこちなく頷くのが精一杯のナオトの眉が開くまでには、まだまだ時間と経験と自信が必要みたいである。

 二人はゆっくりと奥に向かって歩いて行った。くるぶしからすねひざももと徐々に水深が深くなってゆく。下半身が完全に水中に隠れ、へそ鳩尾みぞおち、胸の辺りまで水に浸かった。波が来たときには首辺りまで水に洗われる。イルカの浮袋を掴みながら、シオリはさらに奥へと向かう。

「もうそろそろ、いいんじゃないかな?」

 運が悪いことに、口を開くと波が押し寄せてきて口腔に水が侵入し、ナオトは激しく咳き込んだ。シオリが泳ぎながら振り返った。

「無理に足をつけようとしないで。ちゃんとイルカに掴まって足を浮かせるようにするの。じゃないと本当ほんとに溺れちゃうよ」

 シオリが怖い台詞をサラリと口にしたのでナオトは素直に従うことにしたのだが、足が底につかない状態は不安が勝り、まだ慣れそうになかった。

 波が来ると、イルカとそれを掴んでいるナオトの体も浮き上がった。正面から波を受けても問題なくやり過ごすことができたものの、さすがにこれ以上奥へ進むのには、情けないが抵抗があった。

「シオリ、頃合いだと、思うんだが」

「そうね、さすがにこれ以上は危ないかも」

 シオリはナオトに、しっかりとイルカに掴まっているように忠告した。

「それじゃあ、行くよー」

 シオリは振り返ってイルカの頭に抱きついた。ナオトは尻尾にしがみついている。ひときわ大きな波が押し寄せてきたようで、波に浮かぶイルカが木葉のように激しく揺動する。ナオトの心は激しく動揺していた。気がついたときにはシオリがイルカの浮袋を抱えてナオトは手を引かれていた。ナオトは掴まれている右手に目をやり、掴んでいる細い腕に沿ってシオリの頭に目を向けた。丁度シオリが振り返った。

「どうだった? 楽しかった? 面白かった? 怖かった?」

 ナオトは顔の前で、解放された右手を左右に振った。

「いや、もうなにがなにやらわけがわからん」

 シオリが珠を弾いたかのような声を立てて笑った。

「どうして関西弁なのよ」

 ナオトは頭を掻いた。

「たまに出るよね」

「ああ、そう、だな」

 ナオトが適当に相槌を打った。

「ねえ、もう一度行ってみない?」

 無邪気に微笑むシオリを前にして、ナオトは渋い表情で頬をかいた。

「悪いが遠慮してもいいかな。でも、シオリが物足りないのなら行ってきてもいいよ。おれはここで休んでいるから」

 シオリの顔から笑いが消えた。

「いい、ひとりじゃつまんないもん」

「すまない、本当に」

 シオリに自分のように冴えない表情をさせたことが心苦しかったのか、ナオトは頭を下げた。その様子を横目に捉えるシオリの両目には、いたずらっぽい色がたゆたっていた。

「じゃあさ、気分転換になにか甘いものでも食べようよ。当然、ナオトのおごりってことでね」

 それでシオリのご機嫌を取れるのなら安いものである。ナオトは快諾した。

 シオリからイルカを預かると、ナオトは抱きかかえて、シオリにつき従った。てっきり直接フード・コートへ向かうものと思っていたのだが、シオリが向かったのはみんなが休んでいるパラソルシートであった。考えてみれば、スマートフォンや財布を持たずに購入できるはずもない。そのことを失念していたナオトは得心したように顎を上下動させた。

 相変わらずゲンイチロウはラウンジャーに寝そべっていた。今度は俯せになっている。カナタは無言で本に没頭している。キョウジの姿は相変わらず無かった。ナオトが自分のスマートフォンを取り出そうとすると、シオリに止められた。

「おごりのはずじゃあなかったっけ?」

「いいから、いいから。ナオトは慣れないことばっかりで疲れたと思うから休んでて」

「まさか、経費で落とすつもりじゃあないだろうな?」

「それこそまさか、よ。安心して、あとでちゃんと請求するから」

 にっしっしっとシオリが笑った。しっかりした女の子である。

「じゃあ行ってくるね」

 手を振ると、シオリはフード・コートへ向かった。

 シオリの言葉に従うつもりでナオトは、空いているラウンジャーにイルカを寝かせ、自らは椅子に腰を下ろそうとすると、カナタが咳払いした。ナオトはカナタに一瞥くれたが、特に気になることもなかったので腰を下ろすと、再び咳払いが聞こえた。

「喉飴でもなめるか?」

 ナオトが貴重品袋きんちゃくぶくろをまさぐると、カナタは「結構です」と断った。それで話は終わらなかった。

「ナオトさん、シオリさんを追いかけてください」

 ナオトは鳩が豆鉄砲を食ったような表情でカナタに目を向けた。

「えっ、でも休んでろって」

 カナタは本をパタンと閉じた。

「いいから、追いかけてください」

 いつもより迫力のあるカナタの言葉遣いに、ナオトは反論せずに素直に従った。小首を傾げながらとぼとぼと歩いていくナオトに目をやって、カナタは嘆かわしそうに溜息をついた。


 追い立てられるようにしてフード・コートに到着したナオトは、シオリの姿を探した。ナオトたちと同じようにおやつにする客で賑わっていたが、三色メッシュはよく目立つため、シオリはすぐに見つけることができた。ナオトは早足でシオリがいるデザートショップに向かった。

「そういうことか」

 よくよく考えてみると、シオリが自分とナオトの二つだけを購入するはずがない。当然、カナタとゲンイチロウの分も買うはずである。しかも、その料金はナオトが支払うことになる。ナオトは、カナタが追いかけろと言ったこととシオリが小悪魔のような笑顔を見せたこと、この二つの疑問が氷解したような気がした。

 シオリが電子マネーで支払いを済ませる前に間に合ったのは、良かったかもしれない。

「支払いはおれが」

 ナオトはシオリの側に寄ると、店員にそう告げた。

「あれ、ナオト、休んでたんじゃないの?」

 カウンターに並べられている色鮮やかなシェイブアイスを見るように、ナオトはシオリに目配せした。

「この量感ボリュームのものを四つも持てないだろう」

 スマートフォンで支払いを済ませると、ナオトはシェイブアイスを二つ手にした。シオリは残る二つを手に持つと、休憩場所に向かってナオトと並んで歩いた。

 ナオトは確認のためにシオリに問いかけた。

「マスターとカナタの分も、おれのおごりになるのかな?」

「それくらいの甲斐性はあるでしょ」

「まあ、いいけれど」

 屈託のない表情でナオトは答えたものの、四人分で一万円超の値段には正直驚いていた。行楽リゾート地では割高になるのはよくあることなので仕方のないこととはいえ、さすがに吹っかけ過ぎではないか。あとでマスターに過大請求しようと、ナオトがあこぎな考えを脳内にめぐらせていると、シオリが話しかけてきた。

「正直に言うとね、どうやって持とうか困ってたんだ。トレーがあればよかったんだけど、お店のテーブルでしか使えないって言われたから。だからね、ナオトが来てくれて嬉しかった」

「それはカナタの手柄だな。追いかけろって勧めたのはカナタだからな。他人ひとには興味がないなんて言っているけれど、本当気が利くよな」

 真正直に理由を告げてナオトがシオリに目を向けると、ジトッとした瞳に自分の姿が写り込んでいた。ただならぬ様子にナオトは困惑した。

「えーと、おれ、なにか変なことを言ったかな?」

「自覚がないなら言ってないんじゃない」

 つっけんどんな口調であった。

 しばらく二人は並んで歩いていたが、会話がない。堪らなくなったナオトが足を止めた。シオリは歩き続けている。二人の距離がどんどん離れていく。まるで、今の二人の心の距離を表しているようであった。ナオトは早足でシオリとの距離を縮めると、戸惑いながら声をかけた。

「なんか、怒っています? シオリさん」

 シオリはプイと顔を背けた。

「怒って、い、ま、せ、ん」

「そうは見えないけれど」

 シオリは立ち止まってナオトに冷めた目を向けた。

「へー、怒らせるようなことしたんだ。ふーん」

 ナオトは頭を掻こうとしたが、両手が塞がっていたので、微かに右手を上げた奇妙な格好になってしまった。

「そんなことは、ない、と思うけれど」

 シオリは足元に目を落とし、微かに肩を震わせた。

「ナオトって本当ほんとにデリカシーがない!」

 激しく刺々しい口調でシオリが吐き捨てた。

「えーと」

 ナオトはなにか話そうとしたが、言葉が浮かんでこなかった。困り果てたナオトが黙ったままでいると、シオリがおもむろに顔を上げた。

「ナオトのアホー!」

 罵声を浴びせかけるとシオリは、ナオトを放っておいて、猛スピードで走り去っていった。

「プールでは走らないようにって、聞こえるわけないか」

 遠ざかっていくシオリを眺めながらナオトは、深くため息をつくと、その場に佇んで自分の行動を反芻してみた。しかし、シオリの機嫌を損ねるような行為はしていないとの結論に達した。

「女の子はようわからん」

 ナオトはぼやくように呟いた。

 暫くして、恐る恐るナオトが休憩場所に戻ってきた。ゲンイチロウが上体を起こして美味しそうにシェイブアイスを食べていた。その向こう側にシオリは椅子に腰かけて、日差しの下で、無言でシェイブアイスを口に運んでいたが、戻ってきたナオトを見ようともしなかった。カナタが嘆かわしそうに顔を振っており、その隣にナオトは腰を下ろした。

 シェイブアイスを一つカナタに渡してから、ナオトは小声で囁いた。

「シオリは、ずっとあんな調子なのか?」

「いいえ、いつものように明るいシオリさんでしたよ」

 ナオトはカナタ越しにシオリに目をやったが、とてもそうは見えなかった。カナタが過去形で答えたことにも気づいていないようである。

「ナオトさんが戻ってきてからです」

 カナタが補足したものの、ナオトはほんの少しの間だけ首を傾げたが、それ以上はなにも尋ねずに、次いでゲンイチロウに声をかけた。場の沈滞した空気を変えたかったのかもしれない。

「マスター、ずいぶん焼けたみたいだな」

 ゲンイチロウは半身に構えて、スプーンを掴んでいる右腕をL字に曲げて、力こぶをつくった。

「ふふふ、夏は小麦色の肌でなくてはな。生っ白いままでは不健康だ。そういうナオトもいい感じじゃないか」

 ナオトは自分の手足に目をやった。たしかに少し焼けていた。日焼け止めは塗っていなかったので、当然といえば当然である。なんとなく気になったので、ナオトはシオリに目を向けた。シオリは水性の日焼け止めを塗っていたようで、焼けてはいないが健康的な肌をしている。その様子を目に止めたゲンイチロウが、意味深長な笑みを浮かべながら、シオリに聞こえるような声量でナオトに尋ねた。

「お前がシオリに日焼け止めを塗ってやったのか?」

 シオリの耳がかすかに動いようだが、ナオトは気づくことなく返事をした。

「いや、おれはなにもしていないけれど」

 嘆かわしそうなため息がゲンイチロウの口から漏れたようだが、意味がわからなかったナオトは話題を転じた。

「キョウジは一度も戻ってきていないのか?」

「あれは鉄砲玉だ。お前さんとは違う意味でな」

「上手いこというな」

 迂闊にもナオトが素直に感心してしまうと、ゲンイチロウは白い歯を見せてにんまりと笑った。

「年季の違いだ」

 丁重に聞かなかったことにしてナオトは、シェイブアイスを食べることに専念した。

 しばらく四人はシェイブアイスを無言で味わっていたが、いち早く食べ終えたゲンイチロウが手を打った。

「そろそろお開きにしたいんだがな。どうだシオリ、もう十分楽しんだだろう?」

 ゲンイチロウの言葉を聞いて、シオリは小さな唇を尖らせた。

「えー、ナイトプールまで居ようよ」

「ナイトプールは今度にしないか? 夏休みはまだまだあるんだから」

 シオリは難しい表情で顎に手をあてた。

「わかった」

 結局全てのプールを回れなかったのが心残りだったのか、ほんの少しシオリは肩を落とした。

 カナタがナオトを手招きしたので顔を寄せると、意表外な提案をされた。

「今度はナオトさんとシオリさん、二人で来たらどうですか?」

 ナオトが少し考えてから反論した。

「荷物番が必要だろう。せめてキョウジを誘わないといけないな」

「キョウジさんがじっとしていると思います?」

 ナオトが即座に言葉を返した。

「全く思わない」

「でしょう。それに、貴重品はロッカーにしまえば済む話です」

 瞬間、ナオトは「あっ」と口を開けて固まった。

「ナオトさんって灯台みたいですよね」

 簡潔な比喩表現を口にしただけでカナタがシェイブアイスを口に運んだので、ナオトが説明を要求すると、相変わらず言葉少なめな答が返ってきた。

「近くのものが見えていません」

「そうかな?」

「無自覚なのがその証拠です」

 ナオトが腕組みして頭を悩ませていると、カナタはシオリを誘うことを再度提案した。

「おそらく、機嫌も直ると思いますよ」

 その言葉は魅力的な響きを伴っていた。ナオトは頭をかきながらシオリに声をかけた。

「シオリ、その、なんだ、また来れるといいな」

 シオリは冷めた目でナオトを黙視した。カナタは頭を振ると、ナオトの背中を軽く叩いて活を入れた。

「いや、そうじゃなくて、だな」

「なによ、言いたいことがあるならはっきり言いなさいよ」

「そう、だな。はっきりと言ったほうがいいな」

 ナオトは一度咳払いした。

「今度は、二人で来ないか?」

 思いがけない言葉だったようで、シオリは目を瞬かせた。

「べ、べつに、あたしは、いいけど」

 シオリがかすかにうつむきながら、しおらしく髪をいじった。

「どうしたんだ、顔真っ赤だぞ。太陽にやられたのか?」

 ナオトの不用意な一言ひとことが再びシオリを豹変させた。

「ナオトの、バカー!」

 シオリが猛スピードで何処かへ走り去っていった。

「なにかまずいことを言ったかな?」

 手で目を覆ったカナタは、嘆かわしそうに呟いた。

「小学生ですか」

「ん? シオリがか?」

 カナタは手を下ろすと、能面のような表情をナオトに向けた。

「もういいです。ナオトさん、早くシオリさんを追いかけてください。そして、最後にウォーター・スライダーに誘ってあげてください。わかりましたか?」

「ああ、なんかよくわからないけれど、忠告には従うよ」

 そう言い置くと、ナオトはシオリを探しに早歩きで去っていった。

「まったく、あいつは成長せんな」

 ゲンイチロウが寸評すると、カナタは黙ったまま頷いていた。


 ナオトは今日の行動をたどるようにしてシオリを探し回った。競泳プール、ウォーター・スライダー、流水プール、波のプール。その全てのプールでシオリは懸命に、ナオトに楽しんでもらえるように気遣ってくれていたことが頭をよぎった。プールに来ることすらなかったナオトが今日はそれなりに楽しめていた。それは、間違いなくシオリのおかげであった。なぜシオリが腹を立てているのかまでは残念ながらわからなかったが、この状態のまま帰るのは避けたかった。なんとかしてシオリに機嫌を直してもらいたい。それは、ナオトの偽らざる思いであった。

 カナタは最後にウォーター・スライダーに誘えと言った。それでシオリの機嫌が直るのかも正直なところ、ナオトにはわからない。でも今は、カナタの勧めに従おう。今自分が思っている気持ちを素直に言葉にして伝えよう。拙くても思いを届けよう。届くかどうかは問題ではない。伝えることにこそ意味はあるはずだ。ナオトは決然と顔を上げ、フード・コートに向かった。しかし、当てが外れたのでリゾート・プールの地図を脳裏に浮かべた。まだ幾つか残っていたが、真っ先に思いついたプールに向かった。

 飛び込みプールに着いたナオトは、下から飛び込み台を見上げた。中段の飛び込み台にシオリの姿を認めた。三メートルくらいはあるだろうか。飛び込み台から突き出している踏み台に立つシオリは、左右に大きく広げていた腕を下ろし、直立不動の姿勢を取った。

 ナオトが呼びかけようとしたが、色々と考えて躊躇したため、シオリの行動のほうが早かった。どうやら飛び込むようである。ナオトは、声をかけずに、最後まで見届けようと思った。

 シオリが軽く跳び上がった。踏み台がしなり、再び足がつくと、反動を利用して高く跳ね上がり、中空で頭の先で手を揃えて体を上下反転させた。美しい飛込姿勢フォームだと、ナオトがしばらく見惚みとれている間に着水した。

 ナオトは、プールの縁で屈んで、近づいてくるシオリに手を振った。シオリは一度目をそらしたが、口をヘの字に結んで近づいてきた。差し出した手をシオリに掴んでもらえたので、ナオトは引っ張り上げた。

「すごいなシオリは、あの高さから飛び込むなんて。怖くはないのか?」

 シオリが無言で頷いた。二人の間に気まずい空気が流れた。ナオトは頬をかきながら話しかけた。

「あのさ。シオリに、聞いて欲しい話があるんだけれど」

 シオリはむすっとした表情で、髪の毛が含んでいる水分を絞った。

「なに?」

 ナオトは今度は頭をかいた。

「えーと、今日は本当にありがとう。おれは今までプールに遊びに来たことがなかったんだ。理由は言わなくてもわかると思うけれど、でも、今日は楽しかった。それは、シオリのおかげだ。シオリは本当はもっと遊びたかったと思う。でも、泳げないおれにつきあってくれて、少しは水には慣れることができた。シオリ、ありがとうな。それから、ついでみたいに聞こえるかもしれないけれど、完全制覇コンプリできなくてごめんな」

 ナオトは頭を下げた。

「いいよ、店長も言ってたでしょ、夏休みはまだあるって。それに、あたしも言ったじゃない、一人じゃつまんないって。だから頭上げてよ」

 ナオトは頭を上げてシオリを正面から見つめた。シオリもナオトを正面から見つめたが、すぐに視線を外した。ナオトは少し微笑んだ。

「ありがとう、シオリ」

 シオリはナオトに背を向けた。

「もう、いいから。何度もありがとうなんて言わないでよ」

 ナオトはカナタの言葉をシオリに伝えた。

「シオリ、ウォーター・スライダーなんだけれど、もう一回滑りに行かないか?」

 シオリが振り返った。

「いいの? 店長、もうお開きだって言ってたけど」

「かまわないさ。少しくらい待たせても罰は当たらないだろう、たぶん」

「やったー!」

 シオリは嬉しそうに顔をほころばせた。この笑顔が見たかったのかもしれない。ナオトはシオリの手をつかむと、ウォーター・スライダーに向かった。


「ようやく戻ってきたか。あの愛すべき鈍太郎め」

 キョウジが呆れ顔で呟いたので、カナタは本を閉じて顔を上げた。

 陽は沈もうとしていて、西の空が茜色に染まっていた。夕日を背に受けながら、ナオトとシオリは屈託のない笑み交わし、とても楽しそうに話しながら歩いてくる。カナタは、瞼を閉じながら一度頷いたあとで、なにか思うところがあったのか、スマートフォンを取り出した。

「おっ、カナちゃんがそんな粋なことをするとは驚きだねえ。明日あしたは雹でも降るかもしれないね」

「なにも珍しいことではありませんよ。この時期でもたまにあるみたいですから。知らないんですか?」

 キョウジの皮肉をカナタは切って捨てた。キョウジは右手の人差指を左右に振った。

「おれはね、覚えていなくてもいいことは記憶しないようにしているのさ。天候のことなんか瑣末なことだしね」

「その瑣末なことを言い出したのはキョウさんですよ」

「ふむ、悪いが記憶にないねえ」

 キョウジは韜晦すると、カナタの側を離れた。ナオトとシオリが指呼の間にまで来ていたので、ナオトに声をかけた。

「どうだ、少しは楽しめたかね」

「ああ、シオリのおかげでな」

 キョウジがにやりと笑った。

「それはなにより。お前さんには、色々と良い経験になっただろうね」

 キョウジが何度も頷いていたが、ナオトには意味がわからなかった。

「それじゃあ、撤収するぞー」

 ゲンイチロウの合図で『四季』の面々は出口に向かった。ナオトとシオリが先頭を歩き、その後をゲンイチロウとキョウジが進んだ。最後尾はカナタであった。

 軽妙な着信音が鳴ったのでシオリは、スマートフォンを取り出した。新着メールが一件あり、送信してきた相手はカナタであった。通信アプリではなかったので小首を傾げながらシオリはメールを開いた。メッセージが無いのはカナタらしいと思った。ただURLが存在を主張し、それが興味をかきたてた。

 シオリはURLをタップした。しばらくして画像が表示された。大きく見開かれたシオリの瞳に、その画像が映り込んでいた。夕日を背にした男女二人が、親しげに笑みを交わしている情景を切り取ったものである。

 胸の奥から温かいモノが染み出してきて、胸いっぱいに広がり、シオリのからだ全体は、ある感情で満たされていった。

 シオリは、嬉しそうに一歩踏み出すと、振り返ってナオトにとびきりの笑顔を向けた。

「ナオト、また来ようね!」

 突然のことに驚いたナオトであったが、すぐに真顔で大きく頷いた。

「ああ、そうしよう」

 ナオトは心の底からそう思った。

 なにしろ、夏が終わるまで、まだまだ時間はたっぷりと残されているのだから。

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冬木シオリ・エスプレッシーヴォ -喫茶探偵物語余話- きよし @kiyoshi_102-KY

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