第117話 帰ろうよ

 これは、ずいぶん前に私と妻が体験したお話です。

 当時、私と妻は、確か付き合い始めて二~三年位たった頃だと思います。

 あの頃は、休みになると二人でドライブに出かけるのが楽しみでした。大体がショッピングなのですが、疲れると、海岸や公園の駐車場に停めて、おしゃべりをしたりしていましたね。

 その日もドライブの途中に、海岸沿いの防波堤のそばに車を停めて、他愛もない会話をしていました。

 時は、夕暮れを通り過ぎ、闇が闊歩し始めた頃でした。

 防波堤のそばの小さな待避所には、他に車は止まっておらず、駐車スペースのすぐそばまで迫る背の高い雑草が暗い影を落としていました。

 エンジンを切っているせいか、ウインドウを閉めていても、潮騒がはっきりと耳に届きます。

 と、其の時。

 不意に、瞼が重くなったんです。

 耐え難い程の強烈な睡魔が、私の思考を包囲し、まどろみの世界へと誘いました。

 ドライブの疲れが出たのだろうか――其の時はそう思いました。

 でも、その日は特に遠方まで車を走らせた訳ではありませんでした。

 当然、こんな所で眠るわけにはいかないです。

 ましてや、妻との会話の途中。おしゃべりするのがつまらないなんて勘違いをされたら、彼女を傷付けてしまいます。

 私は鉛の様に重く下がる瞼を必死でこじ開けました。

 えっ!

 フロントガラスの向こうに、何かいる。

 丸くて黒っぽい何かが二つと、アメーバ状に蠢きながら、それを包み込む半透明の影。

 其れは、空中を漂いながら、フロントガラス越しにこちらを覗き込んでいる。

「帰ろうよ」

 不意に、妻がそう呟きました。

 刹那、よく分からないもやもやと漂う影は掻き消すように消え失せ、同時に、あれだけしつこく纏わり付いていた睡魔も吹き飛びました。

 私は頷くと、車のギアをバックに入れ、そそくさとその場を立ち去りました。

 車が走り出し、海岸から離れると、妻は安どの表情を浮かべ、唇を開きました。

「あの場所、なんかおかしいよ」

 思いも寄らぬ妻の言葉に、私は眼を見開きました。

「やっぱり、そう思う? 」

 私は頷くと、先程見た不可解な浮遊する影の話を妻に語りました。

「その時、私、金縛りにあってた」

「えっ? 」

 驚きの事実でした。

 確かに、私があれを目撃していた時、妻は一声も上げていないんです。

 よくよく考えれば、何かと不自然でした。

 でも、これで何となくその理由が見えてきました。

 あの時、私と妻が押し黙ったままだったのは、それぞれが別々の不思議体験をしていたからなのです。

「あの時、不意に『水子』って言葉が浮かんで・・・そうしたら、突然耳鳴りがして体が動かなくなったの」

 妻が、恐怖に頬を強張らせながら、衝撃の言葉をぽつりぽつりと刻みました。

 私は背筋がぞっとする感覚を覚えながら、ハンドルを握り続けました。

 その後、あの場所について色々と調べてみたんですが、特に痛ましい事件や事故が起きたと言う話はありませんでした。

 あれは、何だったのか。

 何故、あの場所で起きたのか。

 未だに不可解なままです。

 

 


 

 

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