第47話 羽音

 これは、数年前に私が体験したお話です。

 当時も今と同じく関東地方内陸部の某所にある事業所勤務の為、単身赴任生活をしており、休日は県内の観光地に車で足を延ばしていました。

 あれは確か十一月の下旬。郊外の山中にある神社を参拝した時の事です。

 その神社は天狗で有名で、境内には幾つも巨大な天狗のお面が飾られています。

 拝殿でお参りを済ませた後、御朱印を頂きに社務所に向かいました。

 ここの神社の御朱印は、書置きの物が何種類かあるのですが、それ以外に直書きしていただけるのもあります。尚、こちらの方は書き手によって絵柄が変る為、デザインの指定が出来ないそうです。

 それも面白いかなと思った私は、御朱印帳への直書きを依頼しました。

 受付の方に伺うと、直書き希望の方が多い為、仕上がるまで時間がかかるとの事でした。そのまま境内で待とうかと思ったのですが、お向かいにある庭園を鑑賞されてはどうかと勧められましたので、そうする事にしました。

 境内を出て、庭園の方に向かいます。

 入園料を収めて中に入りますと、杉並木に囲まれた小径が続いていました。小道を抜けると、ぐっと視界が広がります。大きな池があり、その向こうに真っ赤に染まった木々の葉が眼に留まりました。

 紅葉の時期は終わりかけとは言え、庭園内は未だ見頃の木々も多く、中々の風情がありました。

 しばらく進みますと、神社のある御山の方が望める所に出ました。黄色く高揚した木々の間に、赤やオレンジ色の葉を湛えた木々が点在し、さながら自然のタペストリーって感じでしたね。

 その情景に見入っていた時の事。

 不意に、耳元で甲高い羽音がしたんです。

 蜂?

 そう思って周囲を見ましたが、何もいません。

 おかしなこともあるものだな。

 私は首を傾げました。

 この時期はもう、蜂は活動を停止しているはずなんです。

 その時は余り深く考えず、しばらく庭園を散策していました。

 三十分程たった頃、私は庭園を出て社務所に向かい、御朱印帳を受け取ると、もう一つの目的地に向かいました。神社より更に山奥に入った所にある、某修行の場の後です。

 駐車場に車を停め、踝まで彼はにずっぽり埋まる山道を進みます。

 ありました。

 綺麗な小川のそばに、そこはひっそり佇んでいました。

 不意に、耳元で甲高い羽音。

 まただ。

 すぐに音の主を追います。

 見えません。

 最初の時より、私の反応は断然良かったのですが。

 何だったのだろう。

 私は疑問符を大量に脳内再生しながら、周囲を見渡します。

 やはり、蜂らしき姿は見えません。

 空気の澄んだ素晴らしく清廉された気に満ちた場所でしたので、神経もいつも以上に研ぎ澄まされています。

 ですが、残念ながら羽音の正体をこの目で捉える事が出来ませんでした。

 もし、羽音の主が天狗様でしたら、もっと重厚なものではないかと思うのです。

 駐車に戻り、その時になって御朱印帳の内容をよく見ていない事に気付きました。

 バッグから取り出し、確認してみると御朱印帳に描かれていたのは鴉天狗様。

 そう言う事か――と、身勝手に納得した次第です。

 本当は、蜂なのかもしれませんけど。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る