第20話 帰りたくない

 これは、私が関東の某所にある工場勤務だった頃のお話です。と言っても、今回のお話は会社での体験談ではありません。

 それと、余り怖い話でもないかもです。

 私が単身赴任生活を送っていた関東の某所と言うのは神奈川県です。

 その後も転勤は経験するのですが、初めての単身赴任生活を送ることになったのが、ここでした。

 一人での生活は寂しいものでしたが、米軍基地や黒船が来航した浦賀、昔の軍隊の施設跡が残る観音崎、季節を問わず観光客の絶えない鎌倉や江の島が比較的近い場所にあり、休日にはそういった観光地巡りをしていました。

 特にパワースポットを。

 よく行っていたのが江の島周辺と観音崎でした。特に観音崎のある走水神社は、毎週の様に通っていましたね。

 民家の間にある、小高い丘陵に建てられた神社なのですが、その丘陵全体から荘厳な神気の立ち昇る不思議な空間なのです。

 主祭神は日本武尊様と弟橘比売命の夫婦の神様。

 ここでの単身赴任中、仕事で色々ときつい状況が続いた時期がありましたが、この神社に参拝して気持ちをリセットさせることで、何とか乗り切る事が出来たのを覚えています。

 さて、その日ですが、いつもの様に走水神社を参拝した後、観音崎の公園に向かいました。

 走水神社に参拝した後、観音崎公園でウォーキングを楽しみ、そばの美術館で休憩をしてから帰路に就くのがもっぱらのルーティンでした。

 ただその日は、体力的に余裕があったので、更に浦和の方に抜けるルートを進みました。

 その頃、運動不足を解消する為に、外出と言えば自転車を使っていました。

 と言っても、ロードバイクの様な高速走行出来るものではなく、マウンテンバイクに街中走行用の溝の少ないタイヤをはかせたものですから、ママチャリよりは走りますが、さほどスピードは出ませんてしたけど。

 観音崎から浦和へ抜け、久里浜に向かおうと、懸命にペダルを踏みながら坂道に挑みます。

 ギアチェンジしながら、ぐいぐいと坂道を登って行きます。

 不意に、私は道を左折。

 何故曲がろうと思ったのか。

 看板が立ってたんです。なんて書いてあるかはよく見えなかったんですが。

 観光地なんだろうな。そう思ったら、何となくそちらの方に行きたくなって、私はコースを外れてその道を進んだんです。

 しばらく行くと、小さな岬の様な所に出ました。

 自転車を止め、私はそこに足を踏み入れました。私以外にも観光客が数名。

 入り口に石碑が建てられており、突き出した岬の方に、小さな御堂の様なものがありました。

 通路を進み、海岸に出ます。 

 思わず、息を呑みました。

 信じられない程に澄んだ、真っ青な海が目の前に広がっていたんです。

 これが東京湾だなんて・・・。

 信じられない。

 以前に見たお台場の海からは、全く想像が付かない美しい風景に、私は驚嘆の吐息をつきました。

 まるで、沖縄の海を彷彿させる美しさでした。

 と言っても、沖縄には行ったことないんですけど。

 潮風にのって運ばれてきた、ねっとりとした温かい空気が私を包み込みます。 

 何とも言えない、心地良い気持ち。

 

 帰りたくない。


 不意に、切ない想いが、私の意識を支配していく。

 何だろう、この気持ちは。


 帰りたくない。

 いつまでもここにいたい。


 私は、しばらく海を見続けていました。

 その時、私の中で明らかに時間の経過が止まっていました。

 不思議な感覚でした。

 このまま、ここにずっととどまっていたい――心の底からそう感じていました。

 視界に飛び込んで来る澄み切った蒼い海。

 私はこの世の楽園に踏み込んだような気持ちになっていました。


 このままじゃいけない。


 突然、私の心の中で何かが弾けました。

 ここにいてはいけない――本能が、そう耳元で囁くのです。

 その思考は何の前触れも無く私の意識の中で拡散し、微睡に似た不可思議な感情を断ち切りました。

 私は足早に停めてあった自転車に向かうと、そこを離れました。

 翌日、会社で地元の従業員と話をしていた際、昨日訪れた綺麗な海岸の話をしました。

 彼女は四十代後半の女性で、まだ慣れない私にもよく声を掛けて下さる愛想のよい方なのです。

 私がそこは帰りたくなくなるくらい 綺麗な海だったと語ると、神妙な面持ちで首を傾げます。

 すると、彼女はふと大きく頷くと、私には告げたくなさそうな表情を浮かべます。

「多分、そこ、首切り場だね」

 私は言葉を失いました。

 彼女の話では、昔、そこには刑場があったそうです。また、戦で多くの兵は命を落としたと言う伝承もあるそうです。

 そんな時代背景のある、いわくに満ちた場所でありながらも、私は決して霊を見た訳でも、怖い思いを体験したわけではありませんでした。

 居心地が良かった――ただそれだけなのです。

 でもそれが、ある意味不思議ではありました。

 因みに、帰路の途中でトンネルを通ったのですが、そこは「化けトン」だったそうで・・・何も見ませんでしたけど。

 私が見えたり感じたりするのは、自分の意志でコントロール出来ない中途半端なものなのですが、この日はかえって何も見えなくて正解だったかもです。

 その後も、何回かそばを通ったり、化けトンも通過したりしたんですが、特に何も起きませんでした。

 それを残念と取るのか、よかったと安堵すべきなのか・・・。

 あの時、ずっとあの場所にいたいと思った気持ちは、何だったのでしょうね。

 風光明媚な所でしたから、きっと単にそう思っただけなのでしょう。

 そう、思いたいです。

 


 

 


 

 

  

 

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