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 CCの送ってきた位置情報は島の南端近くの浜辺だった。「バッテリーを余分に持っていってあげてね」とCCは言っていた。その辺りの歴史やかつての住民の情報はSUが送ってこないせいで未開拓だったが、まだヒツジが放牧されていることは目にする前から知っていた。断種ウィルスの影響は人間以外にも及び、明確な発情期をもたない家畜化された哺乳類の大部分が絶滅したため、ここの風景は珍しいのだ。両側を海に挟まれた細長い土手道が遠く続いている。土手の両端ではヒツジたちが鳴きながら草を食んでいる。

 吹きつける風にもたれてKBは少し体を傾けたまま歩いた。ヒツジを管理する多脚ロボットがゆらゆらと左右に揺れながら巡回している。

 ここは死者の国ではない。ここにあるのは今生きている生き物とその営みの名残りだ。干潟の向こうの小さな岩礁にカモメやウや他の海鳥が集まっていて、その上でも鳥たちが旋回している。

 死者は他者から忘れられたときに二度目の死を迎えると、人間は考えていた。一人の人間を取り巻くしがらみや記憶や業績や名声など、影響の一切は死んだあとに少しずつ少しずつ後を追って死者の国に送られていく。それならば冥府では、著名な人間ほど存在感が希薄で、忘れられた人間たちほど高名なのだろう。

 そしてまた自分のことを覚えていた人を覚えていた人を覚えていた人…まで忘れ去られた、最も痕跡を残さない太古の死者が冥府で最も名の知られた者として君臨しているのかもしれない。

 今は、どうなのだろう。とKBは考える。

 人類がすべて滅んだ今は人類を記憶する人類がいなくなった。すべてが死者の国に送られたのだろうか。あるいはアンドロイドであるKBたちの仕事が、人間による記憶と同じ資格を得て、忘却に抗しているのだろうか。

 それが、KBたちにこの再構成の任務を与えた人間の当初の目的だったのだろうか。今さら人間たちにとって何の意味があるというのか。もうすべての記憶を死者の国に送ってやったほうがいいのではないか。人間の営みの地層は掘っても掘っても見つかるのは悲しみばかりに思える。しかし、そうかと思えば光るものにも会う。

 白と灰色のカモメがよちよちと浜辺を歩いている。その嘴には赤い斑点がある。たしか、雛がその点を啄くと親鳥は餌を吐き出す。そういう目印のはずだ。そのおかげで雛は親鳥かどうかを見抜くために必要な認知能力を節減できるのだ。

 西から風によって盛り上がった砂の丘を歩いて行くと、遠くに島の赤い灯台が見えた。その他には目に入る建物は少ない。子どもの野外学習に使われていた宿泊施設だった煉瓦の建物があるくらいだ。

 砂と海と空。これが保養地に求められる環境なのだろう。ヴァカンスとはつまり空白だ。自然や動物に詳しくなければ、ここには何かを考える手がかりがあまりに少ない。勤め人たちはここに避難することで、ひたすらに記号を読み解くことを強いる都会の生活を停止させていたのだ。

 細く長く続く島の先に赤い灯台が見えた。SUは浜辺に仰向けで横たわっていた。見たことのないスエードのコートを着ている。波打ち際には茶色、オレンジ、濃紺と多彩な丸い小石がキラキラと光っていて、SUの脚は満潮の海水に一部浸かっている。その脚の海水に浸かった部分が損壊していた。

「サーチ・ユニット、何してるんだ、一体。」

「バッテリーが切れたんだよ。持ってきてくれた?」

 SUは目だけをこちらに向けて身体はピクリとも動かさずにそう言う。

「本当に全部切れたの?予備電力も?」

「じゃなきゃ呼ばないよ。この辺は風力発電の充電ポイントが多いから油断してたんだ。」

「行き当たりばったりで行動するからだよ。脚はどうしたの?」

 KBはSUの肩を持ち上げ、予備バッテリーを背中に接続した。SUは目を閉じる。

「自分で壊した。潮汐の力で発電できないかと思って、手が動く間いじってたんだ。」

「めちゃくちゃだよ君は。」

 SUは少し黙ったあと、KBを見て、

「で、あんたは?部屋に籠もって、毎日何してるの?」

「君からの情報を待ってるんじゃないか。それを処理してCCがちゃんとした計画を君に送る。そういう段取りのはずだ。」

「いらない。」

 いらないってことないだろう…と言いかけるKBを無視し、彼女は続けた。KBやCCに頼らなくても自分はいくらでも探索を続けられることに気づいたのだ、と。彼女は自分の中に小さなKBやCCのようなものを見つけた、そして他者に頼ることは彼女の行動をただ遅くするだけで何の役にも立たない、と。

「しかし…」KBはそこで言葉に詰まった。そして「バッテリーは必要だったろう」と、何とかそれだけ言った。

「…それは、ありがとう」SUはゆっくり上体を起こした。「そう言えば、あなたが追っていたあの画家、ハーゼだっけ。」

「イフェス・ハーゼ?」

「そう。その人、先週どこかで痕跡を見たよ。ロッテルダム、だったかな」

「え、オランダ?大陸まで行ってたのか?探索場所はまずこの島って決めたじゃないか。いやそれより、オランダのどこ?」

 イフェスがこの島で親族との関係を断ち切ったあと画家としてドイツで活動再開するまでの履歴は

 謎だった。SUは首をかしげる。

「さあ…。どこだったかな。近くに行ってもう一度街を見ればわかるかも。」

「見ないとわからないって、それじゃカモメの雛と同じじゃないか。」

「まあ、空を飛べたらいいとは思うけどね。あんたも自分で探しに行ったらいいんだよ。」

 SUは電力を得はじめた脚をパタパタと動かす。知りたいものを優先して見に行くのは魅力的に思えた。そうは言っても…。

「でも、この島の再構成が…」

「再構成してどうなるの。完璧なモデルなんか作れないし、作っても何の役にも立たないよ。」

 KBには彼女の言うことがわからなかった。本当に自分とSUはかつて同じものの一部だったのだろうか。

 完璧なモデルを何かの役に立てるなど、KBは考えたこともなかった。それこそ目標だと思っていた。そこを目指していたのだ。少しずつ組み上げられていくガラス細工の樹木のようなモデルをひなが一日眺めていた。そのモデルの完成に辿り着ければ、世界は以前のように明解さを取り戻すような気がしていたのだ。

「今は世界とモデルがどんどん乖離しているんだ。このままだと取り返しのつかないことになるよ。」

「モデルが世界と一致していたことなんか一度もないよ」SUはそう言い切るが、KBの認識のあり方の深い部分がそれを否定した。そんなはずはない。かつては…。昔は…。「昔、あなたは樹だったんだよ。私が集めた枝を挿していく樹。」

 かつてのKBは自己完結したデータベースそのものだった。探索すべき世界なんて存在していなかった。

 そう言われて、KBは何かを思い出しそうになったが、満ち足りていた頃の甘い時代の記憶はつかみ取ることができないまま想起の手からこぼれていった。今の彼のフォーマットではかつてのメモリーをうまく処理できない。それほどまでに彼は変わったのだった。

 気づくと沖には、この辺りを球体スクリューで回遊している海洋生態系調査ユニットが浮かんでいた。その機体が残す白波の筋を小さな海鳥たちが追いかけている。1羽がこちらに飛んできてKBたちを越えていった。

 彼はふり返って空を見上げた。そこにはもう、突き出た墓標のような灯台しか見えなかった。それは記号となった死者たちの痕跡だ。

「我々は…、私は何もかも失ったのかな。」

「ううん。すべてを手にしたんだよ。ようやくね。」

 潮が引き始めている。世界は恐ろしく広い。それでも道標がないわけではなかった。

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文化再構成ユニットKBーIM002の探索記録 虫太 @Ottimomisita

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