文化再構成ユニットKBーIM002の探索記録
虫太
1
KBが構築データの樹に枝を足すため手を伸ばしたとき、部屋の外のビルの下あたりでずっと鳴っていたらしい機械の起動音が止まった。それによって先ほどまでよりも静かになったことを感じた。そのときまでの彼は、その機械音が響いていたことに気づいていなかった。
周囲の音に注意を向けると今も完全な静寂ではないことがわかる。この島に来てからずっと聞こえているカモメたちの鳴き声が今も聞こえているし、うんと耳をすませばかすかに波の音も聞こえる。音にフォーカスしたため、構築データは後景に退いた。紙の書物から仕入れた情報を新たな梢として加えた樹は、着々と立派な形になってはいるものの満足のいくものではなかった。欠けた部分ばかりが目につく。作業メモリーの表示を消すと殺風景なホテルの一室が現れた。
(しかし…)
と、彼は思考を巡らせた。外のあの音がしていたときに気づいていなかったのなら、なぜそれが消えたことに気づけたのだろう。
ひとつの可能性としては、彼の中のある部分はずっとその音を聞いていたが、そのある部分が今までとるに足りない役割しか負っていなかったため、自分はその音に気づいていないと勘違いをしていたのかもしれない。
またあるいは、それまでの静寂から、新しいより大きな静寂を差し引くことによって遡及的に消えた音を導き出したのかもしれない。より大きな静寂という表現はおかしな感じがするが。
ベランダに出てみると街の屋根が見下ろせる。遠くには湿地が続き、砂の丘の向こうは海だ。西からの風は相変わらず強く、あちらこちらでカモメが旋回している。ホテルのビルの下で工事モジュールたちが作業をしているのが見えた。彼らは配管の工事を終えて、市役所前広場を囲む街灯に登り始めた。
(まずいな。)
彼はもうずいぶん、まともな外出をしていない。妻と距離を置いたあとのイフェスの生活をなぞるように、たまに図書館に出る以外は自室に籠もっていた。物資を届けてくれるCCとは会うが、他の者との交流は長らく途絶えていた。
ベランダから戻り、支度をしながら彼は先ほどの二つの仮説についてまた考え始めた。どうやら後者の説の方がもっとらしく思える。つまり彼は完全に統一された一つの意識ではなく、いくつかの部分が同時に並行し、ときに連絡を取り合う複合体であるということだ。それは彼がCCやSUと相互に連携し合うことで仕事を進めているようなものだ。
もう思い出せないほど昔、KBは何か大きなものの一部だった。その頃のことは、思い出そうとしてもピントの合わないレンズで物を見ているように全体像が霞んでしまう。CCやSUたちもその何かの一部として、まるでそれぞれが同じ虫の脚であるかのように協調し合って勤めを果たしていたような記憶がかすかにある。
しかし、今はどうだ。3人はてんでバラバラだ。彼らとはしばらく会っていなかった。中枢コントロールとしてチームをまとめるはずのCCはあまりにマイペースだし、SUにいたっては通信を遮断していて居場所もわからない始末だ。
ホテルの小さなロビーに出てアーカイブを起動すると、すれ違うホテル住人の映像がかすれながらこちらに向かってくるのが認識できる。白と水色の縞のシャツを着た中年女性で、首に金の鎖がチラと光る。KBに対してではないが挨拶をして、すでに閉じていたエレベーターの扉へと埋もれて消えた。地元の言葉で挨拶していたが、この客もかつて休暇で滞在していただけで、この土地の者ではなかったのだろう。
「何してるんですか。」
ホテルの裏へ周って街灯を見上げたKBはそう声をかけた。
「あんたはだれだい?わたしゃHーTec002だがね。」
鉄柱にしがみついて電灯と監視カメラを検分していたロボットがKBを見下ろした。
「H-Tec002さん、僕はKB、文化再構成部のナレッジベースKBーIM002です。そのカメラにはまだ分析していないデータが残されているんです。触らないで下さい。」
「そうは言ってもね、あんた。これが任務なんだよ。替え時のものを放っておくのは気持ち悪くてしょうがないんだがね。ハカハカするんだ。」
「じゃあせめて後回しにしてもらっていいですか。この辺りのカメラの分析を済ませますから。」
HーTek002はしぶしぶといった様子で頷いて、素早く街灯を降りてきた。2本の手で支柱を挟んで、手についた車輪の駆動で昇降しているようだ。
そのロボットは駅の方へ向かったが、目を離せばまた戻って作業を開始するかもしれない。任務だと言っていたが、彼らは誰に命令されているわけでもない。清掃維持管理の中枢機構は存在するが、各エージェントはそれぞれが自分の道徳とでも言うべき、生まれ持った性分に従って行動している。彼らの仕事は早い。それでなくても大事な記録は日々喪われ、風化していく。KBは焦りを覚えた。
いつもよそ者のほうが多かった島だ。海へと続く目抜き通りに面して、ロブスターの模型とネオンをあしらった看板のバー、茶葉やチョコレートの店、服屋などが並ぶ。あのバーを経営していたのは、もともとマンチェスターにいた男だった。以前の仕事でKBがよく調べた街だ。ポートアヴェニューT62に住んでいたその男のことも。あの店を見ると、工業都市の曇り空の記憶が喚起される。まるで、通りにせり出た木の板のバルコニー席のあたりから、大聖堂と路面電車とビルの街へと続いているように感じる。
島の中央駅近くに来ると、まだCCたちといっしょに作業していた時期のことを思い出す。駅の倉庫を拠点にしていたので、その頃KBにとって街の中心は駅の反対側だった。ちょうどスポーツ用品店のショーウィンドウ横切るあたりで、駅ロータリーの銅像の見える景色をきっかけに今の拠点を中心にしたメモリー上の街がくるりと向きを変える。
アーカイブを検索してイフェスの足跡が近くにないか探る。歳月を飛ばすと彼の影が嵐にはためく木の葉のようにせわしなく震えながら通りを行き来した。3年の滞在にしては、彼はあまり公共の場に出て来ておらず、その分アーカイブの記録も乏しい。
手がかりが少ない。この島はなおさらだ。街の中心部はともかく、少しそこを離れると浜辺と干潟と湿地帯ばかりで、カメラのある場所はぐっと減る。たまたま車のカメラやオンラインの義眼が捉えていない限り、そこでの人々の営みは残されていない。
喫茶店の外に倒れていた椅子を起こし、KBは座った。イフェスがKBの隣に来て座り、スケッチブックを広げる。エリザベートがその正面に座っている。彼女は休暇をとって彼のもとを訪れていた。夜はイフェスのところにいるものの、本や画材、タバコや服で散らかっていた彼の部屋では食事を取らず、よくこうして喫茶店で食べていた。二人の体のカメラが捉えなかった死角は自動補正されるが、机の下は塗り始めた絵の具のように単調な色になってかすれて消えていた。
「父さんもカタリーナ叔母さんも、あなたに会いたがってたよ。今度はいついらっしゃるのってそればっかり聞くんだよ」彼女はほとほと呆れるというように話し、ケーキをフォークで口に運ぶ。「でも、誰も急かすわけじゃないからね。また仕事が一段落したらいっしょに…。」
「ああ。ありがとう。」
何に対するものなのか、彼自身もよくわかっていないような礼を言い、スケッチブックに意味のない走り書きをした。テーブルにはアリが一匹うろうろと餌を探している。このアリも今の生き物ではなく、アーカイブに属する三百年前の命だ。
「君も、君の親族もみんないい人だ。僕の甥たちも君らのところにいると、彼らの祖父母宅にいるときより断然明るくて楽しそうだよ。」
「あなたのお父さんだっていい方でしょう。」
「いや、つまらん人間だよ。人情も寛大さもない。彼らに飼われているカメでさえ退屈のあまり死に瀕している。」
エリザベートはくすりと笑ってかぶりをふる。
「言い過ぎだよ。お医者さまなんて人のためになる立派なお仕事ですねって私が言ったら、そんなものじゃないって謙遜なさってたし。」
「それは、違うよ。」
紙に上ってきたアリの前に、彼がペンで線を引くと、アリはインクの匂いを避けて迂回した。それから彼は唇を結んで軽く舐めた。表現しにくいことを考えてから言うときの癖だ。
「想像もつかないだろうけど、君や君の叔母さんのしている介護士とか保育士とか、他者に奉仕する仕事をあの人たちは見下しているんだ。そんなものとは違うって思っている。エリート気取りでね。」
イフェスはアリの行く先にまた線を引いた。今度は曲がった線だ。
「立場があるのかもね」イフェスの穿った評価をエリザベートは肯定も否定もしない。「あなたを育てたんだから、いい人だよ。」
KBがこれまでに調べたイフェスの経歴を総合すると、彼は家族から自分を解放するように、法律学校をやめて芸術家の道に進んだように解釈できる。しかし自由で率直なエリザベートと出会い、憧れ、愛し、その眩しさに照らされる中で、自分の中に父親の影を見つけてしまったようだ。少なくともKBはそのように彼を再構成していた。
紙の上のアリは、複雑になったイフェスの迷路に閉じ込められていた。そのゴールに、エリザベートがフォークでケーキを一切れ置いた。
CCが連絡を寄越したのはその2日後だった。KBは島のバスに乗った。海へと続く湿地帯に、極端に脚の長い農耕ユニットが作業しているのが見える。近年はロボットの形態も多様性に富んでいる。あの災厄のあとしばらくの間、残されたライン地帯の製造部門は製造ユニットばかりを製造していたという。新しい時代に備えていたのか、それとも自己複製という生物の定義に囚われていたのか、その頃のことをKBは知らない。
葦で葺いた屋根の並ぶ住宅街を通り、ロータリーで降りる。横切った通りの名前が書かれたプレートでデータベースが喚起される。この辺りの諸島の方言の研究と保存に尽力した学者の名だ。
アーカイブ映像の子どもたちが道路に四角を描いてその上を飛び跳ねている。少し遠回りしようと海へ向かった。そちら側は風が弱く、比較的歩きやすい。シギが岩場で何かを啄んでいる。静かな道を背の低い石垣に沿って進み木の扉を抜けて墓地に入り、データ通りに、新聞社を創設した政治家の墓があるのを確認する。カルーナの花に囲まれた素朴な丸い石に墓銘が刻まれていた。
墓地のそばにCCが待ち合わせに指定した教会があった。CCはベンチに座って赤煉瓦の塔を見上げている。
「SUは見つかったのか。我々の任務は今どうなってる。」
着くが早いか、KBはそう問いただした。
「やあ、ナレッジ・ベース」CCはこちらを見て手を上げた。「この教会って古いの?」
「福音派の教会だけど、由来は中世に遡る。あのクヌート王が建てさせたと言われている。それ以前は北欧の神フレイヤの聖地だった。」
質問を無視されても、情報提供を求められればきちんと答えてしまうのが彼の性だ。
「ふうん」とCC。
教会の鐘が鳴った。今でも決まった時刻に管理ロボットが打鐘しているのだ。
「再構成は進んでいるのか。もっとあなたが指示を出して、連携を取り合わないとチームで任務にあたっている意味がないでしょう。SUはどうしてるんだ。」
「まあ、ぼくたちの仕事はそうはっきりした目標があるわけじゃないからね」CCは立ち上がって四肢を伸ばした。「SUのところに行ってあげてよ。彼女、困ってるんだ。」
「そりゃ困ってるでしょうね。あれは情報収集用の探索ユニットだ。定期的に我々にデータを送っていないと、まとまりのない断片情報に埋もれて道に迷うはずだ。それなのに…」
「あまりSUを頼っちゃいけないよ。」
そう言葉を遮られ、KBは面食らった。SUを頼る?我々が?SUが我々を頼るはずではないのか。
花を持って墓地に訪れた若い男性と高齢の女性のアーカイブ記録が、CCの前を通り過ぎて行った。そのヴィジョンを共有しているCCはちらりとそちらを見やる。
「人間の営みは、エネルギーや物流だけじゃない。個人の物語から成っていたんだ。大事なのは各々の視点だよ。ぼくたちの仕事が不可欠なのはそのためだ。」
「だから、あなたがイニシアティブを取らなきゃいけないんです。環境探索、情報処理、行動決定ですしょう。」
CCは、それに構わず自分の話したいことを話している。KBにはさっぱり要領を得なかった。
「自分の観点をもつんだ、KB。たとえばぼくは今はあらゆる形式の思わぬ帰郷の事例を集めて調べているんだ。不意打ちの過去との遭遇だね。」
墓の前にいる女性の声が聞こえる。
「私は海の恐ろしさを知ってるんだよ。水の冷たさや潮の力は人間にはどうにもできない。池のボートにだって決して乗りはしない。でも、今は漁業は機械化されていて危険なことなんてないんだよ、ってあの子はそう言って海へ出たんだ。間違ってたんだ。あの子も私も。」
CCは、今度はカラスを見て「あ、あれ、小さくてかわいいね」などと言っている。
「恐ろしいのは、海だけじゃなかった。何ヵ月もの航海で狭い空間の中、毎日同じ顔ぶれ。あの子は逃げてしまったんだ。あの海に。」
「そうだ」とCCがこちらを見た。「SUがここにいるんだ。行ってあげてよね。」
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