第6話 牧羊犬のアングリー

 *


 アルテルは苦い思い出を反芻し、太い眉を寄せた。


 ポーラは、自分の怪我より彼や小鳥が助かってよかったと気にした様子はなかったが、アルテルは、あれほど自分が無力だと思い知ったことはない。

 その時から、アルテルはポーラを守ってみせると心に誓った。


「…………」


「アル。昔のことを言ったから怒っているの?」


「別に」


「そう言ってるときは、怒ってるのよね」


 ポーラは、くすくすと笑った。

 星の輝きのような、笑い声。

 こうされると、もうポーラに言い返すことはできない。アルテルは、ただ参ったと苦笑いするより道はなかった。


 両親が死んで間もなくの十二、三歳の頃、アルテルはいつも苛立っていた。

 勝手に死んでしまった父親にも、その父親に愚痴を言うこともなく病で亡くなった母親。


 周りの村人は、父親のことを金に目がくらんで無謀な冒険をしたおろか者だと罵り、英雄だと言ってもてはやしていた者も、気がつけば他の村人と同様に無様な最後だと口をそろえるのだった。

 アルテルは、自分だけを残し亡くなった両親や、心変わりしやすいすべての人間に対して、苛ついていた。


「アル、なにか怒っているの?」


 ポーラがアルテルの顔を覗き込む。


「別になにもない」


 ポーラの空色の瞳はいつも穏やかで、見つめられるとすべてを見透かされそうな気がしてそっぽを向く。


「だって、顔が怖いわよ。怒ってないなら笑って」


「おかしいこともないのに、笑えるか」


「でも、眉間にしわが! セントバーナードのアングリーみたいよ」


 アングリーとは、牧童をしているアルテルの相棒の犬だ。

 俊敏でとても賢く羊を集めるのもベテランだが、今にもかみつきそうなくらい恐ろしい顔をしている。

 もっとも、二人ともそんなことをされたことがないため、怖いと思ったのは最初だけですぐに仲良くなった。


「アングリー……。そうだな、俺と名前も似ているような……」


「そんなこと言ってないわ」


「まあ、いい」


「よくない」


「いいって」


「よくないの! たまには笑わないとだめよ」


 そういって、アルテルの脇腹をくすぐろうとするポーラ。


「やめろよ」


 アルテルは、軽くかわした。

 ポーラが近づくといつも焼き菓子の甘い香りがする。以前は、その匂いを嗅いでも腹が減るだけだったが、近頃は妙に落ち着かない気持ちになった。


「どうして? 私、アルが笑ったところ見たいわ」


 ポーラは、アルテルの顔を見て少しだけ考えた。

 運動神経で敵わないなら、知恵で出し抜こうというのだ。

 羊の柵を指差して、声を上げる。


「あ、アングリーが逃げ出した羊を追ってる!」


「え!?」


 驚いたアルテルは、指差す方に顔を向け無防備な背を晒す。

 そこを見逃さず、ポーラは後ろから抱きついてくすぐった。


「さ、さわるな!」


「今、ちょっと笑ったわね!」


 くすぐったいことはくすぐったいが、それ以前にポーラのやわらかな体が押し付けられアルテルの心臓は跳ねる。


(ちがう、笑ったんじゃない。俺は、照れてるんだ!)


 そんな勘違いもポーラらしくあった。


 *


「ねえ。昔みたいにくすぐってもいい?」


 マシュマロのような白く柔らかな手を後部座席から伸ばされ、アルテルはその手を取りたい衝動に駆られた。


(どうして、俺を呼んでいたというこの手を放してしまったんだ……)


 ぐっと強く拳を握ると、ひとつ溜息を吐き。平静を装いながら、ポーラの提案を却下する。


「いくつになったと思ってるんだ」


「もうすぐ、アルと同じ十八よ」


 ポーラがいつもとは違う儚い笑みを浮かべる。

 それは誕生日を迎えることはできないと悟っているかのような寂しいものだった。

 こんなとき、どう言ってやればいいというのだ。


「……くすぐってもいいが、落ちるぞ」


「それは困るわ。やっと飛行機に乗れたのに怖いことばかりで、星も見えないわ」


 頬を膨らませるポーラ。

 確かに、出発の時に見えていた星が雲に隠れていた。


「さっきまでは見えていたよ」


「どんな星? 星座なんてちゃんと覚えているの?」


「勉強くらいしてるさ。空や海を渡るやつは、覚える必要があるんだよ」


「昔は、勝手にパン座とかチーズ座とか作って何度教えても覚えてくれなかったのに」



 アルテルは、恥ずかしいので「そうだったか?」と、とぼけてみせた。


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