UNO!2
入口を通ってから受付を抜けて奥まで進み、エレベーターで五階まで上がって十数メートル進むとナースステーションがあり、そこを横切って通路を二回左に曲がる。その後突きあたりまで行った先が、六〇七号室だ。
「お母さん、見てー」
ベッドに横たわりながら、
和恵の表情から笑みがこぼれた。
「見て、百点取ったよ」
和也は持ち手の部分にしわがよった算数のプリントを母に見せた。
「あら、また百点? 和也、勉強頑張ってるものねぇ」
「ううん、勉強してないの。でも出来るのがぼくなの」
あら、ほんとー? と和恵は和也の頭をなでた。
遅れて由紀子が病室にやって来た。由紀子は和恵の姉、和也の伯母だ。
「姉さん、いつもごめんねぇ、最近は特に」
「良いのよ、子どもは好きだし。送り迎えだって、ついでなんだから」
由紀子は投げつけられたランドセルをきれいに立てかけてからテレビの側にまわって自分のカバンを置いた。
「体調はどう? 先週は吐き気がひどいって、顔色も悪そうだったけど」
「うん、今日はだいぶ調子いいほう」
「夜は眠れてる?」
「うん、まぁ」
「食欲は?」
「まぁまぁよ。でも、なんだか」
なんだか、何? と由紀子は和恵の顔をのぞきこんだ。
「なんだか、これ、問診みたいね」
和恵は苦笑しながら、頭に巻いたゴムバンドをいじった。
和恵はここ最近、入退院をくり返していた。二十代のころに寛解した
由紀子は六年前に結婚した夫と別れ、今は独り身だ。自分は子どもができない身体である、と知らされたのは、結婚してからすぐのことだった。それから夫との会話も次第に少なくなり、数年前、夫が不倫している事実を知って、自分から離婚の話を切り出した。夫はそれをすんなり承諾した。それ以来夫とは一切会っていない。
「今日ねー、おともだちできたの」
和也は和恵の膝もとに顔をうずめていた。
「あら、どんな子?」
「あのねー、転校してきた子。しんくんっていうの」
転校してきた子と、もう仲良くなったの? と和恵は和也の頭をなでた。
「しんくんもバスケ好きなんだって」
「じゃあ、これからクラブでも会うかもしれないわね」
「誘ったら、いいよ! っていってた。今度、いっしょにトレカもやるんだ」
和也は靴を脱いでベッドにもぐり、母の身体にもたれかかった。
それから二人はたくさんのことを話した。来週に席替えがあること、給食のおかわりじゃんけんで負けたけれど、勝ったともきくんが、から揚げを
「お母さんのから揚げのほうが、ぼくは好きだよ」
和也はそういって、二人は
掃除当番が面倒でサボったことがバレて学年の怖い先生から叱られたこと、好きな子のありさちゃんと目があったこと、教室の窓枠にアリがいたこと……。
時間が過ぎるのは、あっという間だった。
夕刻になり、そろそろ帰りましょう、と由紀子は和也にいうが、和也は「今日はここに泊まる」といってきかなかった。これも、お見舞いのたびに起こる恒例だ。
なんとか和也を説得して、和也が心を決めてから、トイレへ退出しているときのこと、和恵は「不安なの」と由紀子にもらした。
「やっぱり、不安なの」
「これから良くなるわよ」
和恵は頭をふった。
「そうじゃなくて、和也のこと。あたしのことより、あの子のことが心配で。今は大丈夫でも、あたしがいなくなったら、ちゃんと一人で学校行けるかな、とか、お友達ちゃんとできるかな、とか。姉さんのことを疑ってるわけじゃないの、でも……やっぱり不安なのよ」
由紀子は和恵の両手を強く握った。
「もし、最悪、万が一にそうなっても、わたしがちゃんとするわ。約束する」
和恵の目が涙でうるんだ。
「わかるのよ。あぁ、もう長くないんだな、って。自分でわかるのよ」
由紀子は和恵の背中をさすった。それが自分にできる精一杯のことのように、由紀子には思えた。
「まずいわよね、帰り際に涙なんて見せたら。あの子もっと帰りたくないっていいだしちゃう」
大丈夫よ、と由紀子は和恵の背中をさすった。
「なにかあったら、すぐに電話して。難しいかもしれないけれど、かずちゃんは一人じゃないからね」
涙ながらに和恵は何度もうなずいた。
それから、三年後、和恵は息を引き取った。
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