第5話取引②
「ハァ…何とか警官はまいたみたいだな……」
新宿駅から少し離れた路地に逃げ込んだ羽毛田は、額の汗を拭いながらスマートフォンを顔に近付けた。
「おい!カネはちょっと減っちまったが、警官はまいたぞ!取引続行だ!」
『ヒャッハッハ アンタもスゲェ事やるよな。会社クビになっちまうぜ~』
どうやら犯人は、あの新宿駅での騒ぎを知っている様だ。
「余計なお世話だっ!さあ、次はどこへ行けばいいんだ?」
羽毛田に促され、犯人が提示した次の取引場所は、およそ身の代金の引き渡し場所とは思えない所だった。
『JR新大久保駅から西に向かって三百メートル程行って左手の路地に入ると、そこに“華の湯”という銭湯がある。そこの三十番の脱衣入れにカネを入れて扉を閉め、鍵を自販機の裏に隠して風呂に入るんだ!』
「風呂に入れだと?」
『そうだよ。アンタも走り回って、だいぶ汗もかいたんじゃないのか』
「鶴田教授は、いつ解放してくれるんだよ?」
『こっちがカネを手にしたら、脱衣入れに人質の居場所を書いたメモを残していってやる。』
犯人の言う事が本当がどうかはわからないが、人質がいる以上、今は犯人の言う通りにするしか方法がない。羽毛田は、まだ警官が居るであろう電車での移動を諦め、新大久保の『華の湯』に向かって歩いて行った。
「まったく昼間から風呂に入れるなんて、嬉しくて涙が出るよ!」
移動途中のコンビニでタオルと石鹸を買い指定された銭湯の前に立った羽毛田は、まるでどこにいるかも分からない犯人に聞かせるかのように、嫌みな台詞を吐いて聞かせた。犯人が約束を守るという確証は無いが、ここまできたら、その薄い望みに賭けてみるしかない。
「クソッ…こんな事なら、黒崎を連れて来るんだったな……」
羽毛田は、しばらく銭湯の入口を睨みつけていたが、覚悟を決めて暖簾をくぐった。
♢♢♢
「はい~いらっしゃい」
まるで良くできた置物のように、身動きひとつせず番台にちょこんと座った老婆に入浴料を払うと、羽毛田は指定された“三十番”の脱衣入れの方へ歩いて行った。
脱衣入れに一億円もの金が収まるか心配していたが、この銭湯の脱衣入れは意外と大きな物だった。どうやら、コインランドリーと併設されている為に、洗濯物を入れた袋を持ち込む客への配慮が成されているらしい。羽毛田は、あまり目立たぬように背中で脱衣入れを隠しながらトランクを押し込み、周りの人間をチラチラと見ながら服を脱いでいった。
(この中に犯人が居るかもしれねぇな……)
あまりに周りの目を気にする羽毛田の様子を見て、一人のサラリーマン風の男が小さな声で囁いた。
「あのオッサン、あんな強面の顔してて~実は、下の方は子供のモノみたいに小せぇんじゃねぇの?」
人に聞こえない程の小さな声で喋ったつもりだったが、それは羽毛田には丸聞こえだったらしい。服を全部脱ぎ終わって下半身にタオルを捲いた羽毛田は、鬼のような形相でそのサラリーマン風の男の方へと歩いて来た。
「おい!」
「は、はいっ!」
男は、殴られるのではないかと思って、体をこわばらせて目をつぶった。
「ん…?」
殴られるのでも怒鳴られるのでもない、数秒間の静寂に堪えられず、男はおそるおそる目を開けた。
「!!!!」
……男が目の前に見たものは、下半身のタオルを取り、一糸纏わない羽毛の全裸姿だった!
「…おみそれしました……」
その言葉を聞くと羽毛田は、ニヤリと口角を上げて脱衣入れの鍵をクルクル回しながら、自販機の方へと歩いて行った。
「いいモノを持っていなさる……」
番台の“置物婆さん”が、ポツリと呟いた……
♢♢♢
「こんな事言ってる場合じゃねぇが……やっぱり広いフロは気分がいいねえ~」
羽毛田は、タオルを頭の上にのせて呑気にも湯船に浸かっていた。
重いトランクを抱えて走り回っていた後だけに、フロは思いのほか心地良く感じられる……しかし、そんな悠長な事は言ってられない。今、この瞬間にも、犯人が一億円を取りに脱衣所へと出没しているかもしれないのだ。その現場を押さえて、犯人を捕まえる方法もあるが、もし犯人に仲間がいれば鶴田教授の命は無い……しかし、カネが犯人に渡ったとしても、鶴田教授が無事に帰って来る保証は無い……どちらを選ぶか悩ましい限りである。
ふと、羽毛田は脱衣所から聞こえる歌声に気が付いた。
『♪あなたを~とて~も~あ~い~し~て~る~~のぉ♪でも~♪でも~♪いけ~ない~わ♪だって♪あなた~は♪わたしの♪わたしのご主人様だか~~ら~☆』
「誰だ?銭湯で変な歌、歌ってんのは?」
何故、男湯の脱衣所で若い女性の歌声が聞こえるのか……羽毛田は、その歌をどこかで聞いたような気がした………
いつ聞いただろう……
一週間前?
三日前?
昨日か?……いや、今日だったか……
「ヤバイ!あれは連絡用のスマホの着メロだっ!」
羽毛田は勢い良く、湯船から立ち上がった!慌てて風呂から出て、脱衣所の自販機の裏に手を突っ込んで辺りを必死に探る。
「無い!!」
自販機の裏には、もう既に鍵は無かった。すぐさま“三十番”の脱衣入れの扉を引っ張ってみると、鍵をかけた筈のそれは何なく開いてしまった。
「トランクが無くなっている!」
そして、あの先程から聞こえていた歌は、やはり羽毛田のスマホから発せられていた。
羽毛田の風貌からは、およそ似合わないその着メロに他の客は笑っていたが、そんな事はお構いなしに、羽毛田はスマートフォンを掴んで電話に出た。
「もしもし!」
『ご苦労さん。カネは、確かに受け取ったよ』
勝ち誇ったように、犯人が言った。
「鶴田教授はどこだ!」
『脱衣入れの中にメモが入っているだろ?』
犯人の言う通り、脱衣入れの中には、一枚の紙きれが入っていた。そしてその紙には、こう書かれてあった。
【京玉プラザホテル2105号室】
♢♢♢
「よし、ここまでは順調だな」
羽毛は、犯人に感謝していた。
一億円は、元々“藪製薬”のカネである。犯人に取られたところで羽毛田には何の損失も無い……それよりも、犯人が約束を守り鶴田教授の居場所が判った事が、何よりの収穫だった。
「待ってろよ!鶴田教授!今、助けに行ってやるぞ~!」
羽毛田は、早々に銭湯を後にし“京玉プラザホテル”へ向かった。
おそらく、部屋には既に犯人の姿は無いに違いない。
という事は、鶴田教授はロープか何かで縛られ、口には猿ぐつわをされて身動きが出来ない様になっているであろう。
「あそこは、確か“オートロック”だったな……いざとなったら、ドアを蹴破ってやる!」
これで、長年悩んでいたスキンヘッドにも、一筋の希望の光が見えてきたというものだ。
羽毛田は、期待に躍る胸を撫でおろしながら、京玉プラザホテルのエレベーターに乗り込んだ。
『2105』
あのメモに書かれていた部屋の前に立ち、羽毛田の緊張感は否が応にも高ぶっていた。おそらく、鶴田教授は拘束状態で返事も出来ないだろうが、念のため羽毛田は無言でドアをノックしてみた。
ドン!ドン!
「はい……」
驚いた事に、部屋の中からは、しっかりと返事が聞こえた。
そして、ドアを蹴破るまでもなく、すんなりと中からドアノブが回され、そのままゆっくりと開いた。
犯人は、約束を守ったのだ!
嬉しさのあまり羽毛田は、ドアを開けてくれた鶴田教授と思われる人物に抱きついて叫んだ。
「会いたかったぜ、鶴田教授~~~」
「ちょ!ちょっと待って下さい!……アナタ一体誰なんです?」
「鶴田教授、俺はアンタを助けに来たんだよ。さぁ~早く帰ろう!」
満面の笑みを浮かべて、鶴田教授に手を差し伸べた羽毛田だが、その羽毛田に対して鶴田教授は、意外な言葉を発した。
「えっ?…もう帰らなきゃいけないんですか?」
「何言ってんだよ!アンタ、この部屋に監禁されていたんだろ!もう俺が助けに来たから大丈夫だっていうのに。」
「監禁?…私がですか?」
どうも、鶴田教授の反応がおかしい……
羽毛田は、怪訝な顔で鶴田教授に問いかけた。
「アンタ…本当に鶴田教授なのか?」
「誰ですか?その鶴田教授というのは…」
「えええぇぇぇ~~~~~~~~~~っ!!」
「私は、新宿駅で寝泊まりしているホームレスの“トメ吉”という者ですが……
通りすがりのある人に、タダでホテルに泊まれるからと、誘われたんです。」
なんと!羽毛田の目の前にいるこの男は、犯人が用意した鶴田教授の“替え玉”だったのだ!同じ騙すのであれば、なにも替え玉など用意せずに嘘の部屋番号を教えれば良いものを……わざわざこんな演出をするのは、羽毛田をぬか喜びさせてバカにしようといった犯人の悪戯だったに違いない。
「畜生!犯人の野郎~!!」
羽毛田は、アタマから湯気を吹き出さんばかりに顔を真っ赤にして、地団太を踏んだ。カネを奪われたうえに人質は戻って来ない……取引は最悪の結果に終わった。
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