#11

 臆病な僕の返事を聞き届けた彼女は、屏風に手を掛けると勢いよく「ただいま、お父さん!」と一際明るく声を上げた。


 茶の間にも良く似た畳の室内、いかにも高級そうな家具や骨董品、開け放たれた障子から見える中庭の枯山水と獅子脅し……。


 どれを取っても現実離れした映画のセットみたいな空間に対面で置かれたソファには人影があり、それは遠目でも分かる恰幅の良さと意地の悪そうな表情が狸に良く似ている。


「あの……初めまして、僕」

「ウチの娘を誘惑した頓馬は君かね?」


 直角に頭を下げて挨拶しようとした僕の言葉をピシャリと遮る傲慢な狸親父は、長い長い溜息を態とらしく吐いて首を振る。


「ちょっと、お父さんっ……そんな言い方ないでしょ!」


 今にも噛みつきそうな勢いで怒る彼女を一瞥した父親は、「お前にはがっかりだ」と言いながらソファの間に置かれた机の資料を面倒くさそうにパラパラと捲る。


「本来ならば同座するのも穢らわしいが、致し方ない……ひとまずここに座りなさい」


 立派に蓄えた髭を撫でた狸親父が嫌々促すので、僕は静かに手土産を差し出すと有無も言わせない速さで「粗品は結構」と一蹴される。


 彼女には悪いが、なんと性格の悪い両親だ。

 流石に「歓迎しろ」とまでは言わないが、もっと別の言い方があって然りだろう。


 金があると人間こうなるものかと苛立つ僕にお茶の入った湯呑みを静かに置いた母親は、そのまま狸が座るソファの隣に腰を下ろす。


「ウチの娘はね、小中高と名門校の首席で、大学は都内でも有数の学校を出てる。それに我が家は代々栄誉ある家系なんだ……娘がやっと結婚するというから見てみれば、名前も聞いた事ない田舎の学校で、それも高卒?収入も平均より下、それに……」

「学歴や収入なんて関係ないっ……勝手なことばっかり言わないで!」

「何が関係ないだ!今まで養ってもらっておきながら、この親不孝者め……やはり一人暮らしなんかさせずに、さっさと婚約者と結婚させておくべきだった」


 肩で呼吸をする様に怒る父親は、恨めしさのあまりギリギリ……ッと歯を擦り合わせ、鈍い音が室内にこだまする。


 僕は何も言い返せなかった。

 きっと僕も親父さんの立場なら、絶対に同じ事を言っただろう。


 地位や家柄、世間体もさることながら、蝶よ花よと大事に育てた一人娘が、まさかこんな得体の知れない男に連れて行かれるなんて、きっと耐えられない。


「あの縁談は断ったでしょ……それに、『私が生きたいように生きれば良い』って言ってくれたのは、お父さんじゃん!」

「何事にも程度ってものがあるんだ。お前のその選択は、ゆくゆくお前を不幸にしかね無い……そんな事も分からんのか」


 父娘が激しく言い争う中、母親と僕は向かい合わせで口を噤んでいた。涼やかな目元から心境を読み取る事は難しかったが、それでも良い知れぬ思いを表すような深い眉間の皺に僕は情けなくなる。


 ──もしも僕の家柄が裕福で、学歴もあって、彼女を養っても余りある程の所得だったなら……。


 一般家庭で一般的に育った僕は、初めて自分の全てに不甲斐なさを感じた。


 生まれはともかく、他はもう少しぐらい頑張れたんじゃないか……などと考えを巡らせても、後の祭りだなんて事は重々承知している。


 でも、そうでも思わないと僕の為に反論を続ける彼女に顔向けができない。


「もう良い、お前と話してもキリがない。縁談話はこっちで決める……お前も異論はないな?」


 手短に話を切り上げた狸は母親に視線を向けると、さっきまでの苦い表情を一瞬にして仕舞い込み、小面とよく似た感情の消えた顔で「仰せのままに」と答える。


 結局僕は、最後まで何も出来なかった。


 トボトボと情け無く手土産を下げて歩く僕と一緒に揺れるイヤリングは、これでもかと言うほど痛く僕の耳朶と心を締め付けた。

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