#3

 トイレの一件以来、すっかりと彼女に懐かれた僕は、毎日社員の突き刺さる視線を浴びながら肩身の狭い思いで仕事に精を出している。その上何をどう気に入ったのかすらも不明なまま彼女に付き纏われ、僕はとうとう呆れて拒否するのをやめてしまった。


「先輩っ」


 側から見れば羨望の的かもしれないが、至って地味に生きてきた僕にとっては大迷惑も甚だしい。彼女にも伝わるように大きく溜め息を吐いてみせた僕は、向き合うパソコンから目を逸らす事なく「何?」と答えた。


「冷たいですね、相変わらず。……先輩、今度一緒にご飯行きませんか?」

「へぇ……って、今なんて?!」

「だから……ご飯行きませんかって」


 さも当たり前のように首を傾げた彼女は、餌待ちの雛鳥みたいに一心に僕を見つめる。


「い、行く訳ないだろッ」


 呆気に取られた僕は慌てて彼女の視線を振り払うように反論すると、動揺のあまり恥ずかしいぐらいに大きく声が裏返った。


「えっ、何でですか」


 断られるとは思っても見なかった、と顔に心情がそのまま書き出された彼女は、ガラス玉みたいに綺麗な目を見開いて抗議すると、「折角お店取ったのに……」と残念そうに肩を落とす。


「何でって、そもそも行く理由が無いし……。てか、何で勝手に予約入れてんの?」

「だって……ほら、店を二人分予約したから行く理由ならありますよ?」


 見事に自己中心的な理由をこじつけた彼女は上目遣いよろしく僕に詰め寄る。このやりとりを近くで見ていた同僚諸君をわざわざ見なくても、痛いぐらいの視線が僕の背中に津波のように押し寄せるのがわかった。


 ──マジかよ……。


 目立ちたくない、関わりたくないと思うたびに勝手に距離を縮めてくる彼女を前に、僕は悟る。


 この会話を続けて押し問答しても、きっと時間の無駄だろう。何故なら……もう彼女の中で答えは一択で決まっているのだから。


「分かった……行けばいんだろ、行けば」


 もう一度深く溜め息を吐いた僕は、急に起きた偏頭痛と眩暈の中で「ありがとうございますっ!」とはしゃぐ彼女を見つめ、自分の人生が何故こうも上手くいかないのかと悲嘆に暮れた。

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