萌芽(2)

 一段落いちだんらくつき、紫苑は砂浜で拾った落とし物をアルヴィースに見せた。


「これ……アルヴィース、あなたのものだよね?」


 アルヴィースが息を呑んだ。緑の目がみるみる潤む。言葉より雄弁で、紫苑は頷き、ナイフと牙を差し出す。

 アルヴィースは岩から立ち上がり、ナイフを大切そうに、牙をやるせないような表情で受け取った。


「このナイフは、母から借り受けたものなのです。必ず返しに来なさい、と……。感謝いたします。ありがとうございます……」


 紫苑は戦慄した。それほど大切なものを手放してでも追いすがられたことに。

 女神と母親。不等号で表すことはできないが、あの船上において、アルヴィースは前者を選択したのだ。


 ──いまさら。この子は「女神様」のためなら、傷つくことも傷つけることもできるって、さんざん見てきたでしょう。不死だから……違う、限りなく不死に近いから、誰も死ななかっただけよ。


「シオン様」

「……どうしたの?」


 穏やかに聞こえるよう心がけて返事をする。

 アルヴィースは砂浜に膝立ちになり、両手を合わせ、紫苑を見上げている。


 ──お、拝まれてる……。でも、顔を見て話したいって言ったから、目を合わせてくれてるんだよね。土下座されてるわけじゃないけど……やっぱり、いやだな。


 低い位置にある緑の瞳は、読み取れないほど複雑な感情で揺れていた。


 紫苑は、アルヴィースが座っていた小岩に腰を下ろした。膝立ちのアルヴィースとほぼ同じ目線である。そのことに気づいたアルヴィースが、すぐさま爪先を立てて正座する。


「シオン様。わたくしは──狼です」

「狼?」


 ついオウム返しすると、まるでぶたれたように顔をゆがめた。


「はい。狼です。それでも……どうか、このアルヴィースを御身にお仕えさせてください」

「お仕えって……?」

「常におそばにはべり、決して裏切らず、盾となって御身をお守りし、つるぎとなって敵を討ち果たします。いまは大言壮語でしょうが、必ず、そうできるようにいたします」

「ま、待って。だめよ」


 物騒すぎる申し出に、ストップをかけた。最初からアクセルべたみだったが、さらにものすごいハンドルの切り方をされた。


「やはり、わたくしが狼だから、ですか。いいえ、あの雌熊めすぐまにやられたから……それとも、まさか、虎だから──」

「そうじゃないよ。そうじゃなくて……」


 紫苑は間髪入れずに否定する。アルヴィースの申し出に頷けない理由は、第一に紫苑にあるのだ。「狼」や「虎」が意味するところはわからないが、それが原因ではないことは断言できた。


「まず、私の話を聞いてほしい。それから、あなたの話を聞かせて。いい?」

「はい……」


 アルヴィースは膝の上でこぶしを握った。

 紫苑は、アルヴィースが砂の上で膝をついていることが気になった。


「足が痛くなったら、立つか膝を崩すかしてね」


 しないだろうなと思いつつ、念のため言っておく。


「アルヴィース。あなたは私のことを、その……『女神様』って呼ぶよね。でも……でもね、私は自分を人間だって思ってる」

「……人間……?」

「うん。私はずっと、ここじゃない世界で、人間として暮らしてたの。こういう……真っ白な姿じゃなかったし、不思議な力なんか持ってなかった。ここに来て、姿が変わって、力を持って……ふつうじゃないのわかるけど……正直に言うね。いまの自分は、めずらしい見た目の超能力者くらいのもので……とても神とは思えない。だから、あなたの見立てが合っているのか、間違っているのか、判断できないよ」


 紫苑は目を伏せた。


「あなたが仕えたい相手は、私じゃないかもしれない。だから、もっとよく見極めたほうがいいんじゃないかな」


 一度強く両目を閉じてから、アルヴィースとしっかり目を合わせる。


「私が神であることを、私自身が疑ってるの。あなたの願いを受け入れられないのは、それが理由。ここまでは、ちゃんと伝わった?」

「お、御身は……」


 アルヴィースは、あえぐような声で言う。


「……御身は、女神であらせられます……」


「あなたはどうして、そう思うの?」

「女神様、シオン様、御身が御身であらせられる御印みしるしは、いときよらなる紫でございます。髪や肌と違って、目をことは決してできません」


 つまり、紫苑の目の色は、紫だということだ。鏡を見ていないので、知らなかった。


「あなたには当たり前のことが、私には全然わからないの。なんでもいいから、話を聞かせて。……お願いできる?」


 オープンクエスチョンどころか、丸投げである。しかし、船上での一問一答ではろくに理解できなかったのだ。同じてつは踏まない。


「はい、シオン様の仰せのままに」

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