萌芽(1)

 紫苑は、緑の目がまん丸になるのを見ていた。


「お名前、み、御名みなを、わたくしなどに……」


 神と認識している相手に自己紹介をされたら、驚いて当然だ。しかし、どうタイミングを計っても、驚かさないのは無理だろう。


 返答を待っていると、少年が気づいて、砂の上に手をついた。やめさせようと口をひらきかけたのと同時に、緑の目と視線が絡む。


「女神様におかれましては、還御かんぎょの由、衷心よりお喜び申し上げます。潔斎けっさいせざる身なれど、おそばにはべることをお許しくださり、感にえません」

「ご、ご丁寧にどうも……」

「わたくしは、アルヴィースと申します」

「アルヴィース。アルヴィース……アルヴィースだね」


 紫苑は、少年の名前を、繰り返しつぶやく。長い前口上の末に、いや、初対面からの数々の出来事の末に、ようやく知ることができた。


「うん、覚えたよ」

「光栄です、女神様」

「あの、できれば遠野とおの紫苑しおんのどちらかで呼んでほしいな」

「と、尊き御名を、わたくしがお呼び申し上げるなど、僭越せんえつかと……」

「じゃあ、お姉ちゃんにする?」

「おおおお戯れを!」


 過去最高に恐縮されてしまった。恋人のように笑わせることは難しい。「ふざけてごめんね……」と言うしかなかった。


「どうしても無理そう?」

「では……では、はばかりながら、シオン様と、お呼び申し上げます」

「うん。よろしくね」


 大判のタオルを出す。ハンカチと同じく、生成きなりのリネンだった。


「これは──」

「びしょびしょだから、これでいとこう」

「お……お見苦しい姿を……」

「あっ、誤解しないで。風邪引いてほしくないからだよ。あと──」


 急いで着替えを取り寄せる。段ボールをかかえるようなポーズで待っていると、どさどさと衣類が出てきた。白いプルオーバー、黒いテーパードパンツ、綿のトランクス、革のブーツだった。パンツやトランクスの履き口は紐で調節するタイプで、ゴムは入っていない。


 紫苑は感心した。靴は盲点だった。たしかに、アルヴィースがいま履いているブーツもずぶ濡れで、服だけ着替えても不十分だ。アイテムを準備したのが誰かはわからないが、気がいている。


 また、かばんをもう一つ出した。濡れた衣類を入れるためのものだ。空中に現れたキャンバス生地のリュックサックを、うまくキャッチできた。


 アルヴィースが目を丸くしている。紫苑は、能力を隠そうという意識が欠けていたことに気づく。神だと思われているなら、不気味がられることはなさそうだが、次からは注意しようと決める。


「いやじゃないなら、こっちもどうぞ」

「い、いやだなんて、申しません。女神様、シオン様からのたまわり物を固辞するなど……」

「断ったっていいんだよ。そんなことで怒ったりしないから、いやだと思った時はちゃんと言ってほしいな」


 紫苑は、ハラスメントと非常事態の狭間でびくびくしている。そのため、我慢されるほうが困るのだ。


「……かしこまりました。左様でしたら、是非とも拝領したく存じます」

「う、うん。……はい、どうぞ。いま着てるものは、このかばんに入れてね」


 予想以上に欲しがられた。紫苑は戸惑いつつ、手に持ったものをすべて渡した。


「着方、わかるかな。あっちに行ってるから、わからなかったら声をかけてね」


 更衣室はさすがに出せない。紫苑の都合で着替えてもらうわけだから、岩陰に行くよう促すこともためらわれる。紫苑がその場から離れるのが、話が早い。

 しばらくして、背後から声がかかる。


「シオン様」

「どうしたの? わからないことが──」


 紫苑は振り向きながら、まず振り向いていいか聞くべきだったと内心慌てた。

 視線の先には、着替え終わったアルヴィースがいた。裸体ではない。セーフである。


「わ、よく似合ってる!」


 真っ白なプルオーバーが、髪や肌と引き立て合って、清々しい印象を受ける。


「もったいないお言葉です。まことに素晴らしいおしなを……ありがとうございます」

「どういたしまして」


 紫苑はもっとよく見たくなり、ぐるぐるとアルヴィースの周りを回った。

 ふと、アルヴィースの肩口に雫が落ちているのの気づいた。髪をしっかり拭かずに着替えたらしい。待たせないように急いだのだろう。

 紫苑はその気遣いを理解しつつも、指摘することにした。健康をおろそかにするのはよくない。


「アルヴィース、髪がまだ濡れてるよ」

「も、申し訳ございません!」


 アルヴィースが慌てて頭を下げ、リュックサックにしまったタオルをおたおた取り出す。


「謝らないで。急かしちゃったなら、ごめんね」


 あたりを見回すと、風呂椅子くらいのサイズの小岩があったので、それを指差した。


「ね、アルヴィース。あれに座って」


 困惑するアルヴィースを強引に座らせ、タオルを受け取り、背後に回る。


「風邪引いたら大変だから、しっかり乾かしとこう」


 紫苑は、緑の頭をタオルで包み、両手で軽く押さえ、髪の毛の水分をタオルに吸わせる。それから、髪が傷まないように、タオルの上から指の腹で揉む。


「大丈夫? 痛くないかな」

「は、は、……うう、はい、痛く、ありません」

「我慢してる? ほんとに痛くない?」

「はい、ご、ご心配には、及びません……はい」


 アルヴィースは、体を縮こめて、うつむいた。痛いわけではないらしいので、おそらく申し訳なく思っているのだろう。

 紫苑は、タオルドライだけでも十分乾いたのを確認すると、指先で髪のもつれをほどき、毛の流れを簡単に整えた。


 ──あ、つむじが二つある。たーちまーちゅー、だっけ。


 恋人の方言を思い出し、紫苑は微笑んだ。


 緑の髪にくっついた白い砂粒を、指でつまんだり払ったりしてみたが、どうしてもある程度は残ってしまう。シャワー室を出すのは無理だろう。

 アルヴィースが背中を向けているのをいいことに、ヘアブラシを出そうとしたが、くしが出てきた。取り寄せの精度がまちまちで、能力の全容がつかめない。

 紫苑がアルヴィースの髪をとかす。櫛の歯の隙間に砂粒が溜まるたびに取り除き、また櫛を通す。


 ──きれいな緑。地毛、なんだよね。


 明るい日差しの中で、やわらかい緑の髪がつやつやに輝いている。その仕上がりに満足した。


「よし。これくらいかな」

「……はい……」


 アルヴィースは、詰めていた息を吐いた。そこまで緊張しなくても、と紫苑は思ったが、口にしないでおいた。

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