雪解雫(ゆきげしずく)(2)

 前回の夢の出来事を思い出す。

 ここ一週間、繰り返し考えていたから、細部まではっきりしている。


「覚えてるよ。初めて会った時、目が合ってすぐに剣を納めてくれた」


 少年の頭を下げさせたまま会話をしたことは、一生の汚点だ。


「船が突っ込んできた時、倒れないように支えてくれた」


 あの驚異的なバランス感覚をどうやって身につけたのか、見当もつかない。


「略奪者たちをわざと挑発して、注意を引いてくれた」


 礼儀正しさのかけらもない毒舌で、女性をやり込めているように見えた。当時は驚く余裕もなかったが、思い返すとすごい変貌ぶりだ。


「私をおとしめる言葉に、一度だって賛同しなかった」


 殴られても蹴られても、わらって全部はねのけた。


「暴行されそうになった時、助けてくれた」


 それを成したのは少年による暴力だ。少年が、眼帯の男の首に牙を、女性の腹に短剣を刺したから、危機をまぬがれた。感謝以外に何ができる。


「私を傷つけるはずだった剣から、身を呈してかばってくれた」


 あの赤を忘れることはないだろう。


「ずっとずっと、あなたが私を大切に思ってくれたから」


 献身の根源は、その気持ちだ。それこそが、最も尊いものだ。

 少年としっかり目を合わせて、告げる。


「もう証明は終わってるでしょう?」

「あ、……」

「あなたの真心は、あなた自身が一番よくわかってるはず。……いますぐじゃなくていいから、自分を褒めてあげてね」

「……っ」


 少年は、涙をこぼした。うろたえながら、てのひらで頬をぬぐっているが、追いついていない。き止めようとしてか、目をきつく閉じるも叶わず、次から次に流れ落ちる。窓ガラスを伝う雨だれを連想させた。


「お、お見苦しい、ところを、申し訳……」

「大丈夫。大丈夫だよ」


 少年はうめき、両腕で目元をおおう。痩せっぽちの体を震わせて、砂の上に泣き伏した。できるだけ声を殺そうとしていた。


 ──どうして我慢するの。ふだん、あんまり泣かない子なのかな。


 性格や環境に起因するのか。思春期だからか、人前だからか。見当もつかない。ただ、少しでもデトックスできることを願う。


 少年が悪いことをしたとは一切思っていない。だが、自責の念にられている相手に、「あなたは悪くない」と言って、果たして効果はあるのか。「自分が悪い」に対する「あなたは悪くない」は、要するに否定しているということだ。その否定によって心が軽くなる人もいるだろうが、少年に対して言うのはためらわれた。


 何をどう思うかは、好きにしたらいい。間違ったと思いたいなら思えばいいし、思いたくなくても思ってしまうのは仕方がないことだ。

 だから、自責の念の是非は問わず、手放したっていいとだけ伝えたつもりだ。


 ──だいたい、私が何もできなかったから、この子が泥をかぶったのに。


 棚に上げていることは自覚している。

 真実、神であるなら──子供に武器を握らせることも、身を盾にさせることもなかった。

 略奪者に抵抗できず、やりたい放題になぶられるほど弱かった。


 罪深いのは、少年ではない。


 ──でも、この子に謝るのは、違う気がする。


 取り寄せの力は、振り下ろされる剣の前では役に立たない。あの状況を自力でどうにかできない以上、謝罪は無意味だ。


 太陽を背にして、少年が泣いている。震える背中をさすってあげたいが、正しい対応の仕方だろうか。子供と関わる機会が一年に数回程度──親友の親戚に、ハンドメイドの服やあみぐるみをプレゼントする時くらい──であるため、こういう時にどう接するべきか、まったくわからない。


 さんざん悩んで、少年の真横に座り直し、その背中におっかなびっくりれた。恋人がしてくれたように優しく撫でたかったが、服が濡れているせいで摩擦係数が大きく、てのひらを滑らせることが難しい。

 やむをえず、とんとんと、背中を軽く叩く。すると、少年が大声を上げて泣き出した。


 安心した。泣くなら、思いっきり泣いてほしい。そのほうが、すっきりするはずだ。


 ──それにしても、いつタオルを出したらいいかな。


 タイミングを誤ると、少年が不審がって涙が引っ込むかもしれない。少年の体が冷え続けているのは悩みどころだが、いまは気が済むまで泣かせてあげたかった。

 安心させるようにゆっくりと、一定のリズムで背中を叩く。


 ハンカチならいけるのでは、と思いつき、いているほうの手の中に出ないか試してみる。生成きなりのリネンのハンカチが、どこからともなく現れた。物がれる時に鳥肌が立つのは、慣れるしかない。


 だんだんと泣き声が静かになっていき、鼻をすする音が聞こえてきた。

 少年が顔を上げた。そろそろ泣きやむかと思い、ハンカチを手渡そうとしたが、少年は首を横に振って拒んだ。不審がっている様子ではない。おそおおい、よごせない、そのあたりか。

 泣き顔をまじまじと見つめないように気をつけながら、頬に残る涙の跡をハンカチで拭く。


「あっ……」

「遠慮しないで、使って。ね?」

「……はい。ありがとう、ございます」


 少年は新しい涙をこぼしながら、おずおずとハンカチを持ち、ためらいがちに頬を押さえる。

 その姿から視線を外し、振り返って海を見た。


 波は穏やかで、の光を受けてきらきら輝いている。海も空も青く澄み切って、いい天気だ。ここにカメラがないのが悔やまれる。撮っておきたい景色だった。


 波打ち際をぼんやり眺めたあと、ほったらかしにしたものを片づけるために立ち上がる。また、それらを入れるためのかばんを取り寄せすると、小さめのかごバッグが現れた。

 布、かごバッグ行き。

 薬瓶、同じく。

 水筒、入らない。表面についた砂を払い、ホルダーの紐を肩にかける。けっこう重い。中身はたくさん残っているようだ。


 少年が落ち着いた頃合いを見計らい、今度は少年の真向かいに座った。


「喉が渇いてると思うから、お水飲んどこう」


 水筒を両手で上げ下げし、水分補給を促す。再び、遠慮され強く勧めてのやりとりをして、水筒を手渡した。


 少年が水筒に口をつけた。喉の渇きを自覚したのか、たちまち夢中になってがぶ飲みしだした。


 ──脱水症にはならなそう? 休んでほしいけど、さすがにベッドは無理だよね……。タオルと着替えは、なるべく早く用意しないと。トップスはプルオーバーがいいかな。それからパンツ、下着じゃなくてボトムスのほうの……いや、下着も必要だよ。セクハラじゃないよね? だって絶対、下着までびしょびしょだよ。その上からボトムス穿かせるの? それとも、下着なしで? どっちもだめでしょ。あれ、そもそも、よその子に服をあげるのってまずい? どうしよう……状況が状況だから、セーフのはず……。


 こちらが考え事をしているうちに、少年は人心地がついたようだ。目が合うと、うやうやしく水筒を差し出してきた。


「もういいの?」

「十分でございます。厚くお礼申し上げます」


 淀みない敬語だった。調子が戻ってきたらしい。その返事にうなずき、水筒を受け取った。


 いよいよだ。緊張してきた。


「あの……あなたに聞きたいことがあって……」

「はい、女神様。なんなりとお答えいたします」


 充血した目を見て、よし、と気合を入れる。


「私は紫苑しおん遠野とおの紫苑といいます。あなたの名前を教えてください」

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