雪解雫(ゆきげしずく)(1)

 薬はすべて、光の粒となって消えていった。

 少年の傷は、完治していた。傷痕きずあともない。


「よ、よかった……」


 全身から力が抜ける。つい涙ぐんでしまった。


「う……」


 少年が小さくうめきながら、まぶたを開く。

 緑の目と、視線が交わる。


「女神様……!」


 止めるもなく、少年が慌てて身を起こす。とっさに、手に持ったままの瓶と布を放って、ふらつく細っこい体を支えた。自画自賛したくなる早業だった。


 少年の髪も服もびしょ濡れで、このままでは風邪を引きかねない。落ち着かせたら、タオルと着替えを取り寄せようと、心に決める。


「無茶しないで。治ったばかりなんだから、安静にしとかないと」

「治った……? ──な、ない……!?」


 少年が自身の胸元を触って確かめる。そこに傷がないとわかって、心底驚いていた。


「具合はどう? どこも痛くない? しびれたり、体が動かしにくかったり、しないかな」


 矢継ぎ早に質問していることに気づき、口を閉ざした。


「う、嘘みたいだ……なぜ、ですか」

「なぜって……怪我が治った理由ってこと? 薬がいたから……?」

「はい、いえ、あの……なぜ、俺なんかを癒してくださったのですか」


 動揺しているからだろう。少年の一人称が「俺」だ。「わたくし」と言い直さないので、自覚していないらしい。だが、そのほうがいい。


「ああ、私があなたを治した理由だね。それは──」


 罪滅ぼしと恩返しである。

 だが、考えなしに口にしていいことだろうか。


 少年の言葉の端々はしばしに、自己肯定感が低さがうかがえた。正直に伝えたら、これからも同じだけの献身を続けなさい、という強要に取られかねない。少年にとっては神の言葉だ。絶対的な指針になりうる。献身なき己は無価値だと思わせてしまったら、償いきれない。

 かといって、嘘をくのもいやだった。


 どうして治したのか。たとえば、身代わりで負った怪我でなくても、治したのか。


「──して、当然。……うん。あなたが怪我をしてたから、だと思う」


 優しそうに見える笑顔を作った。自分は善人ではないが、血まみれの子供を助けたいと思う程度の良心は持っていたい。


「治ってよかった。一時いっときはほんとに危なかったんだよ」


 その言葉を聞いて、少年は顔をゆがめた。


「そんな……そんな。お、俺は……」


 目を合わせていられないようで、うつむいてしまった。


「俺は、間違えたのに……」


 静かに、少年の話の続きを待つ。


「あの雌熊めすぐまに、真っ向から逆らう必要はありませんでした。だから、あいつは血迷って……」


 雌熊。略奪者たちが「お頭」と呼んでいた女性のことか。

 ここでは、人を──あるいは、集団を──動物にたとえて呼ぶ習わしがあるらしい。少年は、犬と呼ばれていた。紛れもない蔑称だろう。


「俺がもっと上手うまく立ち回っていれば、御身おんみはもっと安全でした。……お詫びの言葉も、ございません」


 密着したままだった少年が身を離し、ひたいを砂上にこすりつける。


「やめ、それは、やめよう。頭を上げて」


 緑の頭のつむじを見ながらの会話は、二度としたくない。一度は疑問に思わなかった。廉恥心があるなら、繰り返してはいけないことだ。


「お願い。顔を見て話したいの」


 少年がおずおずと頭を上げる。緑の目が困惑している。自業自得だ。


「私は五体満足だよ。あなたのおかげ。でも、あなたにとっては──最良の結果じゃなかった?」

「……はい」

「そっか」


 怪我はしなかったものの、ハラスメントや暴力は受けた。少年は、その責任を感じているようだ。


「あなたが、おとなしくしてたら……どうかな。あの女性はすごく感情的だったから、全然予想できない」


 人を痛めつけたいという欲望を抑えられない連中の暴言、暴力。骨身にみるほど経験してきた。連中は、欲望を発散するための理由など、いくらでも作り出せるのだ。相手が何かをしたから気に障るのではなく、気に障るから相手が何かをしたことにする。相手が従順なら暴力を控えるか。断じてありえない。


 痛めつけたい。そのために言いがかりをつけたい。そのためにおこりたい。それなら、相手が従順であることを理由にするだろう。


 文句があるくせにダンマリか。その態度が気に入らない。おまえが怒らせるようなことをしたのが悪い──。


 連中にとって、いかりは快楽である。自制心など、エクスタシーには邪魔なだけ。残ってやしない。


 少年は、間違えた、と言った。

 では、正解があるのか。被害者の努力によって、加害者の行動をどうにかできるのか。

 できない。正解なんて最初から存在しないのに、できるわけがない。

 それにもかかわらず、少年は、間違えた、と言った。理不尽の原因が自身にあると言ったに等しい。


 よくわかる。ふつうは、おこりたいから怒るなんて、意味不明だ。意味不明だから、ほかの理由を探す。そして一番納得できる理由は、「自分が悪かったから」である。ありもしない己の罪を、でっち上げてしまう。


 胸が張り裂けそうだ。


 あの日、少年がしてくれたことを、評価なんてしたくない。守られた人間が、守ってくれた人間に、その行為の正誤や善悪を語るのか。守られておいて。命を救われておいて。それは、絶対にしてはいけないことだろう。


「私は感謝してる。あなたは、ずっと……たぶん、初めて目が合った時から、私を傷つけたくないと思ってくれたでしょう? ありがとう。お礼が遅れてごめんなさい」


 少年は、ぽかんとした。

 すぐに我に返って平伏しかけるも、頭を上げるよう言われたことを思い出してか、中途半端な姿勢で固まる。そのまま、上目遣いで返事をした。


「み、身に余るお言葉です。しかしながら、いえ、御身に物申すなど、おろかなこと……」

「言いたいことがあるなら、言っていいんだよ」

「いいえ、ございません」

「……自分を責めるのをやめられない?」

「俺は……、あっ、わ、わたくしは……」


 少年は自身の一人称に気づき、恐縮した様子で訂正する。「俺」でいいのに。


「わたくしは……」


 しばらく待ってみたが、少年は言葉を続けられなそうだ。


「ねえ、私の話を聞いてくれる?」

「は、はい。御心みこころのままに」

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