ハニーホットミルク(1)

 紫苑しおんは飛び起きた。

 空気がある。心臓が猛烈な勢いで血を送り出している。視界はぼやけて、よく見えない。

 状況の変化についていけず、激しくき込んだ。


「紫苑ちゃん、大丈夫?」

響也きょうやさん……」


 恋人に背中をさすられ、紫苑はやっと気がついた。ここは海ではない。自宅の、寝室の、二人用のベッドの上である。


「え……?」


 腕の中に、緑の髪の少年はいない。肌の色は、蝋燭のような白さではない。来ている服は、ノースリーブのワンピースではない。

 誰かに誘拐されていない。人体実験されていない。

 昨夜、眠りについた時から、変わったものは何一つなかった。


「夢、だったの……?」


 紫苑は途方に暮れて、彼を見る。これだけ近くにいれば、眼鏡がなくても視線を交わすことができる。

 彼の目は、いたわりに満ちていた。


「どうだろう。でも、随分うなされてたよ」


 紫苑は、整わない息をそのままに、ほんの少し前までの出来事を訴える。


「う、海で……」

「海?」

「溺れて、苦しくって……」

「そっか。……しわさんけー。ここは海じゃないよ。苦しいのはおしまい」


 しわさんけー。心配しないで、という意味だ。

 彼の祖父母は、彼を励ます時にそう言ったらしい。なんくるないさーより、しわさんけーのほうが、なじみのある言葉だと、前に教えてくれた。


 青いグラデーションの残像が、波のように引いていく。


 それでも、紫苑は息がうまくできなかった。

 彼は、紫苑を包むように抱きしめる。紫苑の耳元で深呼吸し、手本を示した。


「吸って、吐く。吸って、吐く。なんにも難しくないよ。僕に合わせて息してごらん」


 彼に言われたとおり、紫苑は呼吸を繰り返す。彼はゆっくりゆっくり、紫苑の背中を撫でさする。


「体が冷えてるね。汗ばんでるけど、何か羽織はおるもの出そうか」


 紫苑は彼のシャツをぎゅっと握りしめる。小さく笑った彼が、紫苑の二の腕をこすった。

 しばらくして、ようやく落ち着き始めた。


「焦ることないからね。時間をかけていいんだよ」


 彼の言葉に、紫苑は泣いた。泣きながら、笑えた。


「もう、大丈夫」

「エッ!? 待って待って。ちっとも大丈夫じゃなさそう」


 彼は慌てて、ティッシュで紫苑の目元をぬぐう。


「病気じゃないし、平気。ごはん作るね」

「や、やめて〜! 僕、泣いてる彼女にごはん作らせる鬼畜じゃないから〜!」

「でも……」

「ほら、昨日の飲み会で胃もたれ気味だから、朝はナシってメッセ……は、見てないか」

「ほんとにいらない?」

「いらなーい。そして、なんと、食べたくなったら自分で作れるわけよ。はっさ、しにえらいやんに?」

「とってもえらい!」


 彼のおどけた自画自賛に、紫苑は泣くのも忘れて、全力で同意した。


 彼は料理するだけでなく、後片付けも食器洗いもする。時間がなければ水につけておく。とってもえらい!


 また、彼が誰かに料理をふるまわれる場合、コロッケや冷やし中華を気軽にリクエストしないし、「から」などという寝言をぬかさないし、一口も食べずに調味料を足すような無礼を働かないし、もちろん食べ終わったら食器を流しに持っていく。とってもえらい!


「まあ、僕も一人暮らし長かったし。君には及ばないけどさ」

「響也さんのごはん、おいしいよ」

「うへへ……キモ、うへへとか言っちゃった……あ、紫苑ちゃんは? ごはん食べる?」

「んーん」

「じゃあ、何か飲む?」


 紫苑はその質問をきっかけに、喉の渇きを自覚した。だが、それを彼に伝えるべきか、ためらった。伝えれば、用意してくれることを知っている。彼は出張から帰ったばかりだ。疲れているだろう。そんな相手に気遣わせるわけにはいかない。

 いまはいい。そう答える前に、彼が口を開いた。


「四択です。白湯さゆ? 紅茶? ホットミルク?」

「……」

「三択です!」


 あまりにも堂々とした訂正に、紫苑は思わず笑った。素直に甘えようと思えた。


「ホットミルクがいいな。はちみつ入りのやつ」

「オーケー。作ってこようね」

「はぁい」


 彼の「しよう」「しましょう」は、相手の行動を促しているのではなく、自分の行動を伝えている。つまり、「作ってこよう」は「作ってくる」という意味だ。紫苑は昔、彼に「トイレに行ってきましょうね」と言われ、大混乱したことがあった。

 ついでに、水回りつながりで、風呂のことを思い出した。


「あ、お湯張りしないと……」

「こら、じっとしてなさい」

「ピッてするだけよ」

「実にカンタン。僕でもできるね。はい、ゴートゥーベッド」

「……」

「ん? ゴートゥーベッド?」

「定冠詞いらない……」


 そもそも、定冠詞の有無を気にしたわけではない。


「学びを得ました。じゃ、僕はゴートゥーキッチンね」


 彼は、紫苑の髪の乱れを軽く整えてから、キッチンに向かった。

 ややこしいことに、キッチンの場合は定冠詞がいる。





【方言】

・はっさ……もう。まったく。

・しに……とても。

・やんに……でしょう。

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