ハニーホットミルク(2)
じっとしているように言われたので、
給湯器の音が聞こえてこない。彼は風呂のことを失念したようだ。もしくは、シャワーで済ませるつもりなのだろう。きちんと湯船に
ヘッドボードにもたれて、眼鏡のフレームを上げたり下げたりしてみる。レンズの外はぼやけていて、裸眼の視力は悪いままだ。
──あれは、夢だったの。
あの船の上で起きたすべてが、幻だったというのか。
さっきまで抱きしめていた少年を思い出す。
──私をずっと守ってくれた子は、どこにもいないの。
度を越した礼儀正しさ。不屈の戦意。こちらを
それらは、現実ではなかったのか。
「おまたせ」
穏やかな声に、はっとした。
「どうぞ。熱いから気をつけて」
「ありがと」
紫苑は、湯気が立つマグカップを受け取り、口元に近づける。すると、思いがけない香りがした。
「バニラ?」
「当たり。バニラエッセンス入れてみたわけ」
「いい匂い。いつもより甘い気がする」
「気に入ったならよかった」
「ふふ、おいしいよ」
バニラとはちみつ、鼻と舌で感じる甘さに、紫苑の顔がほころぶ。体の中があたたまり、ほっと息を吐いた。マグカップが空になるまで、語らいを忘れて飲むことに集中していたことに気づかなかった。
眠気を覚えながら、彼を見る。
彼はベッドに腰かけ、ペットボトルのミネラルウォーターを飲んでいた。布団の中に入らないのは、すぐにスーツケースの中身を整理するつもりだからだろう。つまり、彼が帰ってきたのに、また一人で寝なければならないのだ。
紫苑の視線に気づいた彼は、にこにこした。
「なーに? 眠い?」
「……うん。
「はい喜んで〜!」
彼は、自身のペットボトルと紫苑のマグカップをサイドテーブルに置くや
そのスピード感。紫苑は、わがままを言ってしまったという不安が吹き飛んだ。
「今日は……」
紫苑は眼鏡を外しながら、意を決して宣言する。
「今日は、いっぱい甘えるからね」
「ほんと? ふふふ……じゃあ、いーっぱい甘やかしてあげようね」
彼は楽しそうに、わざとリップ音を立てて、紫苑の顔中にキスをする。それがくすぐったくて、紫苑はつい笑ってしまう。
紫苑が片手に持った眼鏡を、彼が指を絡めて取り上げる。唇へのキスは、数秒間
二人そろって、ベッドで横になる。
「あのね……」
紫苑はいまから口にすることが気恥ずかしく、甘える宣言したにもかかわらず口ごもる。見かねた彼に、指の背で頬を撫でられた。
「どうしたの、そんなにもじもじして。にーにーになんでも言ってごらん」
「あとでね……一緒に、お風呂入ろ」
「……え? え? え……しんけん!?」
間近で、驚きの声が上がる。
「も、もう、びっくりしすぎ」
「当たり前! だって特別な日にだけしてたでしょ、これまで。……え、四月二十五日って、なんかの記念日だった? 僕、忘れてる?」
「ううん、なんでもない日」
「であるよね? 出張帰りだよ、ふつうの。いや、僕は大歓迎だけどさ。無理してない?」
「してないよ。ただ……」
紫苑は彼の手に
「ずっとひっついていたいの。……お願い、これ以上は聞かないで……」
「ごめん、根掘り葉掘り聞きたい。赤裸々に告白させたい」
「い、いじわるしないで、響也さん」
「ほんとにごめん、もっと意地悪したい。していい? うすまさやばいよや……」
「もう! ばか! ふらー!」
紫苑が腹立ちまぎれに、彼の指先を甘噛みする。だが、彼は余計にでれでれしている。
「ね、ね、なんの入浴剤にする? 紫苑ちゃん、あれ、りんごのやつ好きだよね」
「カモミール」
「それそれ。すごくいい匂いだよね。……思い出したら、りんご食べたくなってきた」
「うさぎりんご? アップルパイ? ガトーインビジブル? アプフェルシュトゥルーデル?」
「後半の二つ、どんなだば? 今度教えて。いまは……焼きりんごの気分だな。アイスクリーム乗せて……はちみつ、シナモン……ミント……」
トッピングを挙げる声が、次第にゆるやかになっていく。
彼の
「あー……にーぶいしてきた……」
「ゆっくりして。私も寝るから、続きはあとで、ね」
「うん。起きたら、ずーっと、むちゃむちゃするから」
「嬉しい。起きるの楽しみ」
「僕も」
穏やかで、たびたび騒がしい人が、隣にいる。
ここは、とてもあたたかい。世界で一番安心できる場所だ。
──怖いことなんか何もない。
紫苑は思う。願わくは、彼にとってもそうであってほしい、と。
「おかえりなさい、響也さん」
「ん。ただいま、紫苑ちゃん」
贅沢な二度寝の時間に、紫苑が夢を見ることはなかった。
【方言】
・にーにー……兄。お兄ちゃん。
・しんけん……本当に。マジで。
・であるよ……そうだよ。
・うすまさ……とても。
・ふらー……ばか。
・にーぶい……眠い。眠そう。
・むちゃむちゃ……べたべた。べとべと。
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