献身(1)

 何か恐ろしいことが起きる。

 うつらうつらしてしかかってくる大男のせいだけでなく、座り込んだまま動けない。


 舳先へさきの方向から、どよめきが聞こえた。


「おい小娘!」


 戸惑う男たちをけた女性が早足でやってきて、苛立ちもあらわに大男を引きはがす。


「なあ、こりゃどういうこった」


 片膝をついた女性に差し出されたのは──たまごだった。


「え……」


 卵。

 真っ白な殻の、Lサイズくらいの、インペリアルイースターエッグのような豪華な装飾もない、ごくふつうの卵──に見える。

 宝箱の中にあったのは、だった、らしい。


 まさかの結果に呆然とすると、平手打ちを食らった。少年が受けた暴力に比べれば、よっぽど手加減されたものだった。


「すっとぼけてんじゃねえよ、クソアマが」


 今度は逆の頬を打たれた。


「船にいたのはおまえ、鍵を持ってたのはおまえ。じゃあ、この卵を仕込んだのもおまえじゃねえのか」

「し、知らない」


 わざわざ宝箱に卵を入れるようなことを、いったい誰がするのか。


「本物の宝はどこに隠した? 言え!」

「隠してない……!」


 女性が荒々しく立ち上がる。

 顔に衝撃。次に、ひたいから垂れ落ちる、ぬちゃっとした感覚。

 女性に卵をぶつけられたのだと、遅れて気づいた。

 髪を引っぱられ、投げ倒される。顔にべたつく生卵が、床までよごす。鼻先で斧のが床板を割った。女性を目で追うと、斧を放置して、眼帯の男から少年の短剣を奪い取っているところだった。


「お、お頭、これ以上はやばいって」

「文句あンのか」

「あるに決まってる。アンタ、この女をブッ壊す気だろ?」

「かっさばくだけだ」

「同じことじゃねえか! 頼むからこらえてくれよ、売値が下がる!」

「腹ン中に宝を隠してるかもしれねえぜ?」

「……は?」

「女がなんか隠すなら、ここか──ここだろ」


 鳩尾みぞおちと下腹部を交互に踏まれた。靴裏の泥が、ワンピースにこびりついた。


「いや、でも……違ったら……」

「違わなかったら?」

「……よし。ひとまず、ゲロ吐かせるか」

「ハハハッ! そっちは譲ってやるよ」


 話はついたようだ。

 男の足取りは軽い。憂さ晴らしがしたいだけの口実に乗せられて、簡単なものだ。


 船が傾いている。波に揺られているのはもとより、T字になるよう突っ込まれたせいで浸水しているのかもしれない。殻のかけらと、つぶれた黄身と白身が、ひとかたまりになって床を流れていく。


 自分はこれから、むりやり嘔吐させられる。果たして、口の中に指を突っ込まれるのか。薬を飲まされるのか。腹を殴られるのか。

 さらには、スカートの中をまさぐられ、からすとやらに売り飛ばされるという。


 女性があくまで利益を選ぶなら、そこまでは命がある。だが、その先はどうか。

 人身売買の買い手が、に対して人道的な扱いをするとは思えない。強制労働や不同意性交、臓器摘出、エトセトラ。節税のため、寄付について調べた時に、それらが未だに行われていると知った。まさか自分が体験するとは。


 ──響也きょうやさん。

 大切な恋人。


 ──流花るか呉葉くれは

 大切な親友。


 ──おじいちゃん。

 大切な家族。


 ──また、会いたいよ。


 男に軽々と身を起こされ、両頬を片手で挟まれる。指か薬。唇を内側に巻き込むが、あごを引き下げる力のほうが強い。


「逆らうンじゃねえって。すぐ終わっから──」


 もう片方の手が伸びてくる。指。爪の中が真っ黒で、不潔だと、こんなものを口に入れるのはいやだと、思った。

 その時──。


 男の首筋に一本の牙が突き立てられた。


 少年が音もなく飛びかかり、ペンダントトップの牙で、男の首をんだのだ。


 あまりに深く食い込んで、血の一滴さえこぼれない。牙によって負った傷が、牙によって止血されている。


 男の体が傾き、手が離れていく。男が床に倒れるまで待つことなく、少年は女性のほうへと駆ける。空っぽの両手で、短剣を握る女性の手をつかみ、切っ先がその目に刺さるように押し上げる。女性が反射的にのけぞる。少年は女性の腹を蹴りつけ、その肘を押し下げて膝を崩させ、さらにその手首をねじって短剣を奪い返す。女性が体勢を立て直すより早く、少年がその脇腹を刺した。


「お頭!」

「小僧、てめえッ!」


 宝箱に卵という事態にまごついていた男たちが、女性の傷によって激昂する。


 少年はさらに深く刺そうとしたが、革の鎧か女性の筋肉のせいで、がそれより入っていかない。頭突きを警戒したのか、少年はすぐさま距離をとった。


「こ、こいつ! 首をねてやる!」

「今日という今日はブッ壊す!」

「手ぇ出すンじゃねえ!!」


 刃物で刺されたとは思えない大声で、女性が男たちを制止する。鎧の表面に血がにじむ様子はない。牙と同じく、短剣が栓として働いているのだろう。


「で、でもよ!」

「オレが駄犬ごときに負けるかよ!」


 女性は短剣を脇腹から抜かないままで、腰のベルトから吊り下げた長剣を抜いた。


「犬め……おまえ、なんでここまで奉仕する?」

かなきゃわからねえことか、それ?」

「いちいちムカつく言い方しやがって。女をおまえがズタズタにしちまって、捨値で売るハメになったこともあっただろうが。なんで急にトチ狂ってンだ?」

「てめえなんぞに言葉を尽くしてご説明さしあげるとでも?」

「……クソガキが。小娘に尻尾を振って、腹を見せて、何をオネダリした?」

「ハッ、色のことしか頭にねえのかよ。お気の毒に」


 少年は、女性の質問に答えを返さない。その横顔には、レバーのように固まった鼻血がこびりついている。それでもわらう。長い犬歯が見える。

 長剣の間合いの外から攻める機会をうかがっている。


 ──この子は、屈しない。


 きっと、それを証明しようとしているのだろう。

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